元天才リベロの僕は、激重ヒロインたちに管理されています。

シエリヌス

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入部届と赤点の壁

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1

 放課後の職員室。
 その重厚な引き戸の前で、僕は石像のように固まっていた。
 手には、少し手汗で湿った「入部届」。背後には、なぜか付き添いの凛がいる。

「……先輩。入室までのタイムラグが長すぎます。酸素の無駄です」
「分かってるよ。でも、心の準備が……」
「深呼吸一回で十分です。行きますよ」

 凛が無慈悲にも僕の背中を押し、ガララッ! と引き戸を開け放った。
 一斉に向けられる教師たちの視線。
 その奥、窓際のデスクに、彼女はいた。

 二年C組担任、現代文担当。そしてバレー部顧問。
 佐多恭子(さた きょうこ)。
 黒縁メガネの奥の瞳は常に冷徹で、生徒からは畏怖を込めて『鉄の女』と呼ばれている。

「……失礼します」

 僕がデスクの前に立つと、佐多先生は赤ペンで小テストの採点をしていた手を止め、ゆっくりと顔を上げた。

「何だ、日向。進路相談にはまだ早いが」
「あ、いえ。……その、これをお願いします」

 僕は震える手で、入部届を差し出した。
 佐多先生はそれを受け取ると、無表情のまま紙面を眺めた。
 そして、僕の隣にいる凛(一年生マネージャー)と、入部届の筆跡を交互に見て――フッと、冷ややかに鼻を鳴らした。

「……綺麗な字だな。お前が書いたのか?」
「えっ、あ、それは……凛ちゃんが……」
「まあいい。……で? 本気か?」

 メガネの奥の瞳が、僕を射抜く。

「中学時代に県選抜だったことは知っている。だが、プレッシャーに耐えきれず、決勝前に逃げ出したことも聞いているぞ。……今さら戻って、続くのか?」

 痛いところを突かれる。
 心臓が早鐘を打つ。でも、昨日のシューズの感触と、今朝のレシーブの熱が、まだ身体に残っている。

「……続けます。今回は、自分で決めたので」

 精一杯の虚勢を張る。
 佐多先生はしばらく僕を見つめていたが、やがて引き出しから一枚のプリントを取り出し、デスクの上に叩きつけた。

「威勢がいいのは結構。……だが、現状が見えていないようだな」

 それは、先日行われた実力テストの個人成績表だった。
 赤ペンで囲まれた順位が、目に飛び込んでくる。

 『学年順位:95位 / 180人中』

「……真ん中より下だ」
 佐多先生が冷徹に告げる。

「本校は進学校だ。『文武両道』が絶対の校訓であり、部活動は学業に支障をきたさない範囲でのみ許可されている。……分かるか、日向?」

 彼女はメガネの位置を直した。

「お前のように、ただでさえ主体性がなく、成績も下降気味の生徒が運動部に入ればどうなる? バレーに逃げれば成績は落ち、成績を気にすればプレーが鈍る。どっちつかずになり、最終的には両方から逃げ出す。……目に見えているな」

「っ……」

 反論できない。
 図星だった。僕はここ一年、バレーから逃げた罪悪感で、勉強にも身が入っていなかった。
 「どうせ僕なんて」という思考が、全ての行動を鈍らせていたのだ。

「入部届は預かっておこう。だが、ハンコは押さん」
「そ、そんな……!」
「条件を出そう」

 佐多先生は、赤ペンを指揮棒のように立てた。

「来週の月曜日。『第1回・学力到達度テスト』があるな」
「は、はい」
「そこで学年50位以内に入れ。一教科でも赤点を取ったら即アウトだ」

「ご、50位!?」

 僕は思わず叫んだ。職員室中の先生が振り返る。
 今の95位から、たった一週間で45人も抜かなければならない。しかも桜島南は県内有数の進学校だ。上位層の壁は、コンクリートのように分厚い。

「無理です! いきなりそんな……!」
「無理なら諦めろ」

 佐多先生は冷たく切り捨てた。

「自分の生活すら管理できない人間に、コートの中で瞬時の判断などできるわけがない。……違うか?」

 ぐうの音も出ない。
 これは、単なる意地悪じゃない。僕の「甘え」に対する、正当な指摘だ。
 諦めるしかないのか。
 僕が俯きかけた、その時だった。

「――承知しました。その条件、飲みます」

 横から、凛とした声が響いた。
 僕ではない。
 種子島凛だ。

「おい凛!?」
「先生。条件を確認します。彼が50位以内に入れば、正式に入部を認め……ついでに、部室のエアコン修理の予算申請も通してくださいね?」

 凛は一歩も引かず、佐多先生を真っ直ぐに見据えていた。
 佐多先生が、面白そうに目を細める。

「……ふん。一年坊主が、大きく出たな」
「自信ではありません。計算です」
「いいだろう。ただし、日向。もし達成できなければ、入部は却下。種子島、お前もマネージャーとしての管理責任を問い、活動時間を制限する」

 それは、凛まで巻き添えにするという通告だった。
 だが、凛は不敵に笑った。

「構いません。……私の計算(プラン)に『不可能』はありませんから」

 凛は僕の襟首を掴み、強引に職員室から引きずり出した。

「ちょ、凛ちゃん!?」
「行きますよ先輩。議論している暇があったら単語の一つでも覚えてください」

 パタン、と扉が閉まる。
 佐多先生は、嵐のように去っていった二人を見送り、微かに口角を上げた。

「……さて。どう足掻くか、見せてもらおうか」

2

 廊下に出た瞬間、僕は膝から崩れ落ちた。

「……無理だよ凛ちゃん。50位なんて取ったことない」
「取らせます。先輩の脳のスペックは悪くありません。ただ、使い方が非効率なだけです」

 凛はスマホを取り出し、猛スピードで何かを打ち込み始めた。

「今から一週間、部活の時間はすべて『勉強』に充てます。私が作成する『対・佐多先生用カリキュラム』を、死ぬ気でこなしてください」
「えぇ……」

「――ちょっと待ったぁッ!!」

 その時。
 廊下の向こうから、またしてもピンク色の弾丸が飛んできた。
 聞き耳を立てていたのか、楓だ。さらにその後ろから、雫も優雅に歩いてくる。

「凛ちゃん! 悠真に無理させないでよ! 50位なんて、今の悠真には……」
「だから、やらせるんです。……霧島先輩、貴女の成績は?」
「え? う、ウチ? ウチはほら、文系なら学年20位くらいだし……?」

 楓が意外と優秀なことに驚く。そういえば彼女、教えるのは上手いんだった。

「なるほど。使えますね」
「人を使えるとか言うな! ……でも、悠真が困ってるなら、ウチが勉強見るよ! 悠真の家で、つきっきりで教えてあげる!」
「いえ、私の家(データルーム)で管理します」
「はあ!? ダメに決まってるでしょ! 密室じゃん!」

 ギャーギャーと揉める二人。
 すると、雫が僕の隣に音もなく立ち、ポツリと言った。

「……美術室、静かよ」
「え?」
「私の家、画集とか洋書ばっかりだけど、世界史と古典なら満点取らせてあげられるわ。……それに、先生も来ないし」

 雫が耳元で囁く。
「勉強に疲れたら、私のモデルになればいいわ。……癒やしてあげる」

 誘惑だ。甘い誘惑だ。
 
 凛が手を叩いた。

「決まりですね。今日から一週間、『日向悠真・50位ランクアップ作戦』を決行します。場所は日替わり。講師は得意科目の担当制」
「なんであんたが仕切ってんのよ!」
「効率です。……先輩、落ちたらバレー部廃部ですからね? 死ぬ気でペンを握ってください」

 僕は天を仰いだ。
 ボールを拾う前に、数式と英単語を拾わなければならない。
 こうして、僕の逃げ場のない「地獄の勉強合宿」が幕を開けた。

3

 桜島南高校の放課後は、独特の緊張感に包まれる。
 特にテスト一週間前は、部活動が原則停止となり、校内はピリピリとした「受験戦争」の空気に支配される。

 そんな中、僕は3人の家庭教師(兼・管理者)によって、日替わりで連れ回されていた。

 【Day 1:数理の迷宮と、管理者の鞭】
 場所:アミュプラザ鹿児島 B1F フードコート

「……遅いです。思考が停止しています」

 種子島凛が、冷徹に告げる。
 テーブルの上には、積み上げられた数学Ⅱ・Bと物理の参考書。そして、凛が用意した謎の色のドリンク(自作の脳活性化スムージーらしい)。

「もう無理だよ凛ちゃん……。三角関数とか、バレーに関係ないだろ」
「大ありです。ボールの軌道、回転数、落下地点の予測。すべて物理法則に従います」

 凛はタブレットを指先で弾き、複雑な放物線のグラフを僕の目の前に突きつける。

「先輩の脳(CPU)のスペックは低くありません。ただ、OSが古いだけです。……いいですか? 佐多先生の出題傾向を過去5年分解析しました。この微分の応用問題、このパターンが出る確率は94.8%です」

「よ、予言者かよ……」
「統計学です。……さあ、この公式を脳に焼き付けてください。覚えるまで帰宅許可は出しません」

 凛の指導は、教育というより「インストール」だった。
 理屈よりも「パターン」を叩き込む。
 最初は戸惑ったが、数式を眺めているうちに、不思議な感覚に陥った。

(……あれ? このグラフの動き……ドライブサーブの軌道に似てる?)

 数字が、動きとして見える。
 ボールの落下点を予測するように、数式の「着地点(答え)」が見える気がした。

「……そうです。その感覚です」
 僕のペンが走るのを見て、凛が小さく頷いた。
「数字の『流れ』を読んでください。先輩の目なら、できるはずです」

   ***

 【Day 2:甘い檻と、文系の誘惑】
 場所:悠真の自宅(夜)

 翌日の夜。僕は自宅の勉強机に向かっていた。
 今日は文系科目(英語・国語)の追い込みだ。
 講師役は、霧島楓。

「はい、悠真! ここテストに出るよー! マーカー引いて!」
「……うん」
「えらいえらい! 頑張ってるねぇ。……ねえ、ちょっと休憩しない?」

 開始してまだ20分だ。
 楓はベッドに腰掛け、なぜか持参したタッパーを開け始めた。

「見て! フルーツポンチ作ったの! 糖分補給しよ?」
「ありがたいけど、さっき夕飯食べたばかりだよ……」
「別腹だよ! ほら、あーん!」

 楓がスプーンを突き出してくる。拒否権はない。僕は口を開ける。甘いシロップの味が広がる。
 楓は満足そうに微笑むと、僕の背中に後ろから抱きついた。

「……ねえ、悠真」
 耳元で、甘い声が囁く。

「もう勉強なんていいじゃん。50位なんて無理だよ。そんなに頑張らなくていいよ」
「え?」
「テストが悪くても、私が慰めてあげる。また昔みたいに、放課後ずっと一緒に遊ぼうよ。……その方が楽しいでしょ?」

 甘い毒だ。
 楓の体温と、甘い匂いが思考を溶かしていく。
 そうだ、頑張らなくてもいい。ここでペンを置いて、彼女の胸に飛び込んでしまえば、どんなに楽だろう。進学校のプレッシャーも、バレーの恐怖も、全部忘れられる。

「……楓」

 僕はシャーペンを強く握りしめた。芯が折れる音がした。

「ごめん。……僕、バカだけど、今回だけは逃げたくないんだ」

 楓の腕が、一瞬強張る。
 そして、ゆっくりと離れていった。

「……そっか。悠真は、行っちゃうんだね」
 寂しそうな声。でも、彼女はすぐにいつもの明るい声を作った。
「分かった! じゃあ、私が『最強のカンペ(まとめノート)』作ってあげる! これさえ覚えれば完璧だから!」

 彼女なりの、精一杯の応援(過保護)だった。僕はそのノートを受け取り、再び机に向かった。

   ***

 【Day 3:静寂の歴史と、覚醒】
 場所:神宮司 雫のマンション(アトリエ)

 最終日は、社会科(世界史)。
 場所は、初めて入る雫の自宅マンションだった。生活感が皆無で、画材と本だけが積み上げられた、まるで美術館のような部屋。

「……年号を暗記しようとするから、頭に入らないのよ」

 雫は教科書を閉じ、紅茶を優雅に啜りながら言った。

「歴史は『人間の感情』の記録よ。……日向くん、君の得意分野でしょう?」
「え? 僕の?」
「そう。『過剰共感』。……君は人の顔色を読むのが得意なんでしょう? なら、歴史上の人物の顔色も読めるはずよ」

 雫は画集を開き、一枚の肖像画を指差した。フランス革命の指導者、ロベスピエール。

「見て。この男の目、何を感じる?」
「えっと……偉そうだけど、なんか……怯えてる?」
「正解。彼は恐怖政治を行ったけれど、誰よりも自分が断頭台を恐れていた。だから、先に他人を殺したの。……君と同じ、臆病者ね」

 その言葉を聞いた瞬間、無機質な文字列だった歴史の教科書が、急に色を帯びて見え始めた。
 恐怖、野心、愛憎。
 文字の裏にある「感情」が、僕の脳内に流れ込んでくる。

(……分かる。こいつは、焦ってる。こっちは、裏切ろうとしてる)

 僕の特殊能力――人の思考を読む力が、勉強とリンクした瞬間だった。
 バレーボールでスパイカーの意図を読むように、歴史の流れが読める。出題者の意図さえも、透けて見えるようだ。

「……すごい。全部、繋がって見える」
「ふふ。……君のその『感じ取ってしまう目』、勉強にも使えるのね。……皮肉だわ」

 雫は僕の横顔をスケッチしながら、静かに微笑んだ。
 彼女のナビゲートのおかげで、僕は「勉強」という行為の本質に触れた気がした。

4

 そして、テスト当日。
 目の下にクマを作った僕は、教室の机に向かっていた。
 チャイムが鳴り、佐多先生が問題用紙を配り始める。

「始め!」

 紙をめくる音。
 僕は深呼吸をして、問題文に目を走らせる。

(……見える!)

 数学の問1。凛が「94.8%出る」と言っていたグラフの変化形だ。数字の動きが見える。
 英語の長文。楓が「ここ大事!」とマーカーを引いてくれた構文が、そのまま出ている。
 世界史の論述。雫が語ってくれた「恐怖と感情」のストーリーが、鮮明に脳裏に蘇る。

 ペンが走る。止まらない。
 三人のヒロインから叩き込まれた知識と、僕の「読む力」が化学反応を起こしている。

 迷わない。
 ネクタイの色は選べないけれど、解答用紙の「正解」だけは、今の僕にははっきりと見えていた。

   ***

 一週間後。放課後。
 掲示板の前。

「……あった」

 自分の名前を見つけた瞬間、僕は膝から力が抜けた。

 『2年C組 日向 悠真 ―― 学年48位』

 ギリギリだ。本当に首の皮一枚。
 でも、条件はクリアした。

「……チッ。計算より2ランク下ですが、まあ誤差の範囲ですね」
 背後で凛が安堵したように息を吐く。

「やったぁ! 悠真すごい! すごいよぉっ!」
 楓が飛びついてきて、首に抱きつく。苦しい。

「……ふふ。私の教えた世界史、満点じゃない。ご褒美が必要ね」
 雫が遠くで静かに微笑んでいる。

 僕は三人に囲まれながら、大きく息を吐いた。
 これで文句はないはずだ。

「……行くぞ、日向」

 人混みをかき分けて、一ノ瀬隼人がやってきた。
 彼は僕の背中をバンと叩き、ニカっと笑った。

「佐多先生への報告は後だ。……まずは体育館だろ。ユニフォーム、余ってるやつ用意してあるぜ」

 僕は頷く。
 今度は「仮入部」でも「見学」でもない。
 正真正銘、バレーボール部の部員として。

 僕は自分の足で、体育館への一歩を踏み出した。
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