元天才リベロの僕は、激重ヒロインたちに管理されています。

シエリヌス

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描けない肖像と、残酷な太陽

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1

 中間テストが終わり、正式入部を果たしてから数日後。
 鹿児島市は、梅雨入りを思わせる連日の雨に見舞われていた。
 窓を叩く雨音が、校舎全体を湿った膜で覆っているようだ。

 放課後。部活は体育館で行われているが、僕はウォーミングアップ前に、約束通り美術室を訪れていた。テスト勉強で世界史を教えてもらった「ご褒美(モデル)」を支払うためだ。
 重い引き戸を開けると、テレピン油の匂いと、張り詰めた静寂が僕を迎えた。

「……動かないで」

 部屋の奥、イーゼルの前に座る少女――神宮司雫の声は、いつも以上に低く、冷たく響いた。
 僕は丸椅子に座り、姿勢を正す。
 いつもの指定席。いつもの角度。窓の外を見るポーズ。
 しかし、今日の雫は何かがおかしかった。

 カリッ、カリカリ……ッ。

 木炭が紙を擦る音が、神経質に響く。
 いつもなら迷いなく走る線が、今日は何度も止まり、苛立ったように塗りつぶす音が続く。彼女の呼吸が浅い。背中から発せられるオーラが、いつもの「静謐」ではなく「停滞」して濁っているのが分かる。

「……違う」

 バキッ。
 乾いた音がして、雫の手の中で木炭が折れた。

「……描けない」

 雫は描きかけのスケッチブックを、乱暴に床へ投げ捨てた。
 バサリと開いたページには、僕の顔が描かれていた。だが、目元のあたりが何度も黒く塗りつぶされ、まるで幽霊のように歪んでいる。

「どうして? 先週までは完璧だったのに。……君、何が変わったの?」

 雫が僕に詰め寄る。
 その顔色は、白い絵の具を塗ったように蒼白だ。瞳には、芸術家特有の狂気と、迷子の子供のような不安が混ざっていた。

「目が……生きてる。呼吸が強くなってる。筋肉が躍動しようとしている。……そんなの、私の求めている『静寂』じゃない」

 彼女は僕の胸に手を当てた。
 トクン、トクンと打つ心臓の音が、彼女の掌を通して伝わる。普段より強く、力強い鼓動。部活で身体を動かし始めたせいだ。

「うるさい……。君の鼓動が、ノイズになって私の美学を邪魔するの」

 彼女は耳を塞ぐように首を振った。
 僕がバレー部に入り、前を向き始めたこと。それが、彼女にとっては「愛する作品の劣化」に他ならなかった。
 彼女は僕を拒絶しようとしている。……いや、違う。
 僕の中の『過剰共感』が、彼女の奥底にある感情を拾い上げた。
 これは拒絶じゃない。恐怖だ。
 僕が「変わってしまう」ことによって、自分が置いていかれることへの怯えだ。

2

 気まずい沈黙の中、僕は床に落ちていた美術雑誌を拾い上げた。
 彼女がいつも読んでいるものだ。
 表紙には、鮮烈な極彩色の抽象画と、派手なドレスを着た一人の若い女性の写真が掲載されていた。
 『現代アートの若き天才・神宮司霞(かすみ)、凱旋個展を開催』

「……これ、雫のお姉さん?」
「……触らないで」

 雫がひったくるように雑誌を奪い取った。
 その指先が震えている。

「姉さんは太陽よ。圧倒的な才能と、燃えるような情熱で世界を塗り替える人」

 雫は雑誌の表紙を、憎々しげに、けれど憧れを捨てきれない複雑な目で見つめた。

「私はその影。……姉さんのような情熱は持てない。幼い頃からそうだったわ。姉さんがキャンバスに色をぶちまけて称賛されている横で、私は鉛筆で静かな線を引くことしかできなかった」

 彼女の声が震える。

「だから私は、静寂の中に美しさを見出すしかなかったの。動かないもの、死んでいるもの、変わらないもの……それだけが、私に許された世界だった。それだけが、姉さんに侵されない聖域だったのに」

 彼女は僕を見た。
 すがるような目だった。

「君だけは、私の世界にいてくれると思った。……傷ついて、動けなくて、空っぽの君だからこそ、私が色を与えられたのに」

 雫の手が、僕の頬に触れる。冷たい。

「ねえ、日向くん。バレーなんて辞めてしまいなさいよ。汗をかいて、泥だらけになって……凡人になっていく君なんて見たくない」

 甘い誘惑。
 彼女は僕を否定しているのではない。「変わってほしくない」と懇願しているのだ。
 このまま彼女の望む「動かない人形」に戻れば、彼女は救われるのかもしれない。僕も、決断の苦しみから解放されるのかもしれない。

 その時だった。

「――あらあら。随分とスランプみたいね、雫ちゃん?」

 美術室のドアが、ノックもなく開かれた。
 雨の湿気を吹き飛ばすような、場違いに明るく、華やかな声。

3

 入ってきたのは、派手な真紅のドレスを着た若い女性だった。
 雫によく似た整った顔立ちだが、纏っている雰囲気は正反対。
 全身からエネルギーが溢れ出し、立っているだけで周囲の空気が熱くなるような、圧倒的な存在感。
 さっき雑誌の表紙で見た人物。

「……姉さん」

 雫の声が凍りついた。
 彼女こそが、雫の姉であり、コンプレックスの根源である神宮司霞だった。
 今週末、鹿児島市内の美術館で個展を開くために帰省しているらしい。

「久しぶりねぇ! 元気してた? お婆ちゃんの家、退屈じゃない?」

 霞はズカズカと部屋に入ってくると、僕の存在など気にも留めず、床に散らばったデッサン画を拾い上げた。

「……ふうん。相変わらずね」

 パラパラとページをめくる。その手つきは雑で、雫の作品への敬意など微塵も感じられない。

「線が細い。色が暗い。……『死んでいる』わね、これ」
「ッ……!」
「静かなのはいいけどさぁ、情熱(パッション)がないのよ。ただそこに在るものを写してるだけ。それじゃカメラと一緒じゃない? もっとこう、魂をぶつけなきゃ」

 悪気のない、純粋な批評。
 だからこそ、残酷だった。天才だけが許された「上からの視線」が、雫のプライドを粉々に踏み砕いていく。
 雫は唇を噛み締め、俯いている。反論できないのだ。

「あら、この子がモデル?」

 不意に、霞の視線が僕に向けられた。
 値踏みするような目。僕の身体を一瞬でスキャンし、興味なさそうに鼻を鳴らす。

「……なるほど。確かに『雫好み』ね」

 霞は僕の前に歩み寄ると、失礼にも僕の顎をクイッと持ち上げた。

「傷ついて、動けなくて、空っぽな男の子。……可哀想なものを見ると拾いたくなる、雫の悪い癖。アンタ、昔から捨て猫とか弱った虫とか好きだったものねぇ」
「やめて!!」

 雫が叫んだ。
 彼女は僕と霞の間に割って入り、僕を隠すように背中に回した。
 小刻みに震える背中。

「私のモデルよ。……姉さんには関係ない」
「怖いわねぇ。取ったりしないわよ。そんな『地味な素材』、私の絵には合わないし」

 霞はケラケラと笑った。
 圧倒的な「陽」の暴力。
 彼女がいるだけで、雫の愛した「静寂のアトリエ」は、安っぽい影に塗り替えられてしまう。太陽の前では、月も星も輝けないのだ。

「私は太陽。貴女は月。……月は太陽の光がないと輝けないのよ? せっかく個展のチケット持ってきたのに」

 霞はチケットをテーブルに置き、嵐のように去っていこうとした。
 雫は立ち尽くしていた。
 何も言い返せない。圧倒的な才能の差と、幼い頃からのヒエラルキーが、彼女を萎縮させていた。

 ――違う。

 僕の中の何かが、熱く反応した。
 雫は影じゃない。
 彼女には、彼女だけの「色」があるはずだ。
 僕がバレーを捨てきれなかったように、彼女もまた、絵を捨てずにここまで来たんだから。

4

「……待ってください」

 僕は立ち上がり、霞の背中に声をかけた。
 霞が足を止める。「何?」

「雫の絵は、死んでなんかいません」
「……は?」
「貴女の絵はすごいのかもしれない。太陽みたいに眩しいのかもしれない。……でも、太陽の下じゃ見えない景色もあるはずです」

 僕は床に落ちていた木炭を拾い、雫の手を強引に取って握らせた。
 その手は氷のように冷たかった。

「……悠真……くん?」
「描いてよ、雫」

 僕は彼女の目を真っ直ぐに見つめた。

「『死んでいる僕』じゃなくていい。……泥だらけで、必死で、カッコ悪いかもしれないけど、『足掻(あが)いている僕』を描いてくれ」

 僕は雫の手を強く握りしめた。

「天才には見えないものが、君には見えるはずだ。……傷ついた人間の痛みも、暗闇の深さも。それを描けるのは、世界で君だけだろ」

 雫の瞳が揺れた。
 姉へのコンプレックス。自分への絶望。
 それらが渦巻き、やがて――暗く、静かな「炎」へと変わった。
 僕の言葉が、彼女の中の何かを点火させたのだ。

「……生意気ね」

 雫は僕の手を振り払い、霞を睨みつけた。
 それは初めて見せる、反抗的な目だった。

「見てなさい、姉さん。……私の『静寂』が、貴女の『騒音』を飲み込むところを」

 雫はイーゼルに向き直った。
 迷いはない。
 彼女は新しいキャンバスに、猛烈な勢いで木炭を走らせ始めた。

 シャッ! シャッ!
 鋭い音が響く。
 そこに描かれているのは、綺麗な人形のような僕ではない。
 汗をかき、苦悶し、それでも何かを掴もうと手を伸ばす、生々しい「人間」としての僕だった。
 それは、彼女自身が抱える「足掻き」の投影でもあった。

「……へえ」

 霞が口元に手を当てた。
 彼女はしばらく無言で雫の背中を見つめ――やがて、小さく口角を上げた。

「……少しは『色』が出てきたじゃない。楽しみにしているわ、雫」

 パタン。ドアが閉まる。
 嵐が去った後のアトリエに、雫の荒い息遣いと、木炭が紙を削る音だけが残った。

5

「……はぁ、はぁ」

 どれくらいの時間が経っただろうか。
 雫は筆を止め、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。手も顔も炭で真っ黒だ。
 僕は彼女に近づき、タオルを差し出す。

「……最低だわ」

 雫はタオルに顔を埋めて呟いた。

「君を永遠に閉じ込めておきたかったのに。……こんな、必死に生きようとしている君を描いてしまうなんて」

 キャンバスの中の僕は、確かに生きていた。
 美しく整ってはいない。でも、熱があった。

「……いい絵だったよ」
「うるさい。……責任取りなさいよ」

 雫が顔を上げる。
 その目には涙が溜まっていたが、もう「影」ではなかった。

「君がバレーでボロボロになって、誰にも見向きもされなくなったら……その時は、私が拾ってあげる。それまでは、好きに足掻きなさい」

 それは、彼女なりの敗北宣言であり、新しい契約だった。
 静止画としてではなく、動画としての僕を愛する覚悟。
 彼女は「動かない標本」を作るのをやめ、「動き続ける生命」を記録することを選んだのだ。

「……ありがとう、雫」

 窓の外、雨はいつの間にか上がっていた。
 雲の切れ間から差し込む夕日が、彼女の黒髪を赤く染めていた。
 その横顔は、姉の太陽とは違う、静かで深い月のような光を放っていた。

 これで、楓、凛、雫。
 三人のヒロイン全員と、「新しい関係」を結び直したことになる。
 足取りは軽い。
 だが、僕はまだ知らなかった。
 この先に待つスポーツ用品店での遭遇が、過去最悪のトラウマを呼び覚ますことになろうとは。
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