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亡霊たちの侵攻
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1
日曜日、午前九時。
桜島南高校の校門へと続く長い急勾配――通称『地獄坂』を、一台の大型バスが唸りを上げて登ってきた。
車体には紫と黒のライン。横には『鹿児島中央実業高等学校 バレーボール部』の文字。
県ベスト4の常連であり、あの中学時代の恩師――いや、元凶である黒岩監督が、優秀な選手を送り込み続けている強豪校だ。
「……来たな」
体育館の入り口で、キャプテンの一ノ瀬隼人が腕を組んで呟く。
その横顔はいつになく硬い。
僕、日向悠真は、その隣でごくりと唾を飲み込んだ。喉が渇いて張り付くようだ。
秋晴れの爽やかな空とは裏腹に、胃の底に冷たい鉛が溜まっている。
プシュウゥゥ……。
エアブレーキの音と共にバスが停車し、ドアが開く。
中から、屈強な選手たちが次々と降りてくる。
全員、体格が良い。平均身長で僕たちを10センチは上回っているだろう。そして何より、目つきが鋭い。勝利を義務付けられた集団特有の、ピリついたオーラを纏っている。
最後に降りてきたのは、見覚えのある小柄な選手――氷室透だった。
彼は校舎を見上げ、鼻で笑ったあと、僕を見つけてニヤリと口角を上げた。
「おはようございます、日向先輩。……へえ、本当に逃げなかったんですね」
「……おはよう、氷室」
僕は震えそうになる声を必死に抑えて挨拶を返す。
氷室はチームメイトに目配せし、嘲笑混じりに言った。
「紹介しますよ。この人が、俺がよく話してる『伝説の元・県選抜』です。……メンタルが弱すぎて、県大会の決勝前に逃げ出した」
「プッ、マジかよ」
「優男じゃん。バレーよりモデルやった方がいいんじゃね?」
中央実業の部員たちがクスクスと笑う。
その視線は、僕を対戦相手として見ていない。「壊れたおもちゃ」を見る目だ。
胃が痛くなる。逃げ出したい衝動が足元から這い上がってくる。
その時。
バスのステップから、革靴の重たい音が響いた。
コツン、コツン。
その場の空気が、一瞬で凍りついた。
笑っていた選手たちが直立不動になり、道を空ける。
現れたのは、黒いスーツに身を包んだ、白髪交じりの男だった。
鋭い眼光。深くまで刻まれた眉間の皺。
黒岩巌(くろいわ いわお)。
僕を「リベロ」という名の機械に作り変えようとした男。
「……整列」
低く、腹に響く声。
それだけで、中央実業の選手たちは弾かれたように整列し、一斉に頭を下げた。
軍隊だ。中学時代と何も変わっていない。
黒岩監督はゆっくりと顔を上げ、僕を見た。
心臓が止まるかと思った。
値踏みするような、冷たい目。
「……久しぶりだな、日向」
「……」
「挨拶も忘れたか。まあいい。……聞いたぞ。この弱小校で、またボール遊びを始めたそうだな」
ボール遊び。
彼にとって、自分の管理下以外で行われるバレーは、すべて「遊び」なのだ。
「今日の練習試合、時間の無駄にならんように祈っておくよ。……また途中で泣いて逃げ出さんようにな」
監督は鼻で笑い、僕の横を通り過ぎようとした。
足がすくむ。視界が暗くなる。
何か言わなきゃいけない。僕はもう、あの時の僕じゃない。
でも、喉が痙攣して声が出ない。
「――お待ちください」
凛とした声が、呪縛を切り裂いた。
2
僕の前に、小柄な影が立ち塞がった。
種子島凛だ。
彼女はタブレットを抱え、自分より遥かに背の高い大人たちを、冷徹に見上げていた。
「挨拶は手短にお願いします。練習時間が削れますので」
「……何だ、この子供は」
「当部のマネージャー、種子島です。本日のスケジュール管理を担当しています」
凛は黒岩監督の威圧感に一歩も引かない。
むしろ、彼女の瞳には明確な敵意――「非効率」と「感情論」に対する嫌悪が燃えていた。
「それに、あまり油断しない方がいいですよ、黒岩監督。貴方たちのデータは、去年の春高予選のビデオから全て解析済みです」
彼女はタブレットを操作し、画面を監督に見せつけた。
「特にエースの3番さん。クロスへのスパイク時に右肩が下がる癖、まだ直ってませんね? 確率82%でコースが読めます」
「あ?」
指摘された3番の選手がギクリとする。
黒岩監督の目が細められた。
「……面白い。データバレーか」
「ええ。貴方のような『根性論』とは対極にあるものです」
「小賢しい。……コートの上で、その理屈がいつまで通用するか見ものだな」
監督は不愉快そうに鼻を鳴らし、体育館へと歩き出した。
中央実業の選手たちが続く。
氷室がすれ違いざまに、僕に肩をぶつけてきた。
「……女に守ってもらって、情けないですね先輩」
捨て台詞を残して去っていく背中。
僕は拳を握りしめた。
情けない。本当にその通りだ。また凛に助けられた。
「……先輩」
凛が振り返る。
その顔は少し青ざめていた。彼女とて、あの監督と対峙するのは怖かったはずだ。兄を壊した元凶の一人なのだから。
それでも、彼女は気丈に振る舞っていた。
「私の計算では、勝率は45%。……決して、勝てない相手ではありません」
「……ああ」
「証明しましょう。私たちのやり方が、彼らよりも優れていることを」
彼女の震える手が、僕のジャージの袖を掴んだ。
僕はこの手を、二度と裏切ってはいけないと思った。
3
試合会場は、女子バレー部が遠征で不在のため、第1体育館を使用することになった。
ウォーミングアップが始まる。
スパイク練習の音が響く。ドォン! ドォン! という中央実業の打球音は重く、床板が悲鳴を上げているようだ。
対する桜島南は、人数も少なく、身長も低い。どう見ても勝負にならないように見える。
僕はリベロのユニフォーム(違う背番号の上からテープで『L』と貼った急造品)を着て、ベンチで靴紐を結び直していた。
指先が冷たい。蝶結びが上手く作れない。
「……貸して」
横から温かい手が伸びてきた。
霧島楓だ。
彼女はジャージ姿(マネージャー補佐)で膝をつき、僕の代わりにギュッと紐を締め上げてくれた。
「……楓」
「大丈夫。悠真の足、震えてないよ」
楓は顔を上げ、ニッコリと笑った。
それはいつもの「過保護な笑顔」ではなく、どこか覚悟を決めたような、力強い笑顔だった。
「もし怖くなったら、ベンチを見て」
彼女は小声で囁く。
「私がいる。水筒もタオルも持ってる。……いつでも『ここ』に帰ってきていいんだからね」
それは「逃げていいよ」という甘やかしであり、同時に「私が受け止めるから、思い切りやってこい」という激励でもあった。
靴紐が結ばれる。それは僕をコートに縛り付ける鎖であり、同時に命綱でもあった。
「……ありがとう、楓」
「ん。いってらっしゃい!」
彼女に背中を叩かれ、僕は立ち上がる。
ふと、二階のギャラリー(観覧席)を見上げる。
誰もいないはずの暗がり。しかし、柱の陰に、黒髪の少女の姿が見えた。
神宮司雫だ。
彼女は手すりに頬杖をつき、退屈そうに、しかし真っ直ぐに僕を見下ろしている。手にはスケッチブック。
*『壊れてもいいのよ。私が拾ってあげるから』*
先日の美術室での言葉が脳裏をよぎる。
彼女は、僕が美しく散るのを待っている。あるいは、泥だらけで足掻く姿を期待している。
どちらにせよ、僕の全てを見ていてくれる。
楓の「避難所」。
凛の「司令室」。
雫の「墓場」。
三つの帰る場所がある。
こんなに贅沢な保険をかけられた選手は、世界中探しても僕だけだろう。
だから、僕は前だけを見ていればいい。
4
『ピーッ!!』
審判の笛が鳴り響く。
整列。挨拶。
ネット越しに、氷室と目が合う。彼はリベロなので、僕と直接マッチアップすることはないが、ローテーションの合間に嫌でも顔を合わせることになる。
「……見せてくださいよ、先輩。今のザマを」
すれ違いざま、氷室が吐き捨てるように囁いた。
試合開始。
桜島南のサーブからスタートするが、あっさりと中央実業にレシーブされ、攻撃に転じられる。
敵のセッターがトスを上げる。
レフトから、エース(凛に癖を指摘された3番)が助走に入った。
高い。
ブロックの上から打ってくる気だ。
(……来る!)
ドォンッ!!
強烈なスパイク音が炸裂する。
ボールはブロックを弾き飛ばし、コートの後方へ。
僕は反応した。足を出した。
だが。
「……ッ!」
ボールは僕の腕を弾き飛ばし、無情にも壁際まで転がっていった。
重い。
中学時代のボールとは威力が違う。高校生の、それも全国レベルのパワーだ。
『ナイスキー!!』
敵チームの歓声が上がる。
「へっ、やっぱりな。反応が遅ぇよ」
氷室が冷笑する。
その後も、僕は狙われた。
完全に「穴」だと見なされたのだ。サーブも、スパイクも、執拗にリベロである僕の正面、あるいは取りにくい足元へ集められる。
弾く。転ぶ。拾えない。
点差が開いていく。
0-5。0-6。
『なんだ、元県選抜って聞いて警戒したけど、大したことねえじゃん』
『ただのブランク持ちかよ』
敵チームの嘲笑が聞こえる。
ベンチに座る黒岩監督は、腕を組んだまま微動だにしない。その無関心さが、何よりも僕を傷つける。「やはり廃棄物か」と言われている気がする。
呼吸が浅くなる。視界が狭まる。
体育館の照明が、中学時代のあの日の照明と重なって見える。
(……ダメだ。やっぱり、僕には無理なんだ)
(怖い。ボールが怖い。ミスするのが怖い)
(逃げたい。ベンチには楓がいる。あそこに行けば、もう楽になれる……)
僕は無意識にベンチの方を見た。
楓が心配そうに立ち上がっている。目が合えば、すぐにでもタオルを投げて試合を止めてくれるだろう。
その時。
「――先輩!!」
ベンチから、楓ではない、鋭い声が飛んだ。
凛だ。
彼女はタブレットを叩きつけんばかりの勢いで、パイプ椅子の上に立ち上がっていた(行儀が悪い)。
「何をしてるんですか! 3番のスパイクのコース、右肩が下がってましたよ! データ通りじゃないですか!」
「……え」
「ボールを見るな! 『情報』を見ろ!思考停止して怯える暇があったら、脳みそを回せ!」
罵倒。
でも、それは「お前はダメだ」という否定ではなく、「お前ならできるはずだ」という強烈な要求だった。
彼女は僕を信じている。僕のスペックを、僕以上に信じている。
「……くそっ」
僕は自分の頬を両手で叩いた。
パァン! といい音が鳴る。
そうだ。僕はもう、ただ怒られるだけの「中学生の僕」じゃない。
僕には、勝ちたがっている「司令塔(凛)」がいる。
5
次のローテーション。
敵のエース・3番がサーブに回る。強力なジャンプサーブだ。
彼は僕を狙っている。ニヤリと笑ったのが見えた。
(……凛のデータだと、右肩が下がる)
トスが上がる。ジャンプ。インパクトの瞬間。
見えた。
右肩が沈んだ。クロス方向への回転がかかる。
僕は思考するより早く、左へ半歩、重心を移した。
ボールが放たれる。
唸りを上げて僕の左手側へ曲がってくる。
かつてなら、「取れない」と諦めていたコース。
でも、今は――。
そこに、僕はいた。
**バチンッ!!**
完璧なインパクト音。
ボールの勢いを殺し、回転を殺し、セッターの三雲へ、優しい弧を描いて返球する。
「……なっ!?」
エースが目を見開く。氷室の表情が凍りつく。
「三雲、頼む!」
僕は叫んだ。
三雲がニヤリと笑い、トスを上げる。
そこへ飛び込んできたのは、キャプテンの一ノ瀬だ。
「っしゃらあああっ!!」
ドォンッ!!
一ノ瀬のスパイクが、ブロックの間を抜き、敵コートに突き刺さった。
決まった。
初めての、ブレイク(得点)。
「よっしゃあああ!! ナイスレシーブ、悠真!!」
一ノ瀬が僕に駆け寄り、ハイタッチを求めてくる。
手が痛い。でも、熱い。
ベンチを見ると、凛が「フン、当然です」という顔でタブレットを操作していた。でも、その口角は少しだけ上がっている。
楓は安堵して、へたり込んでいた。
ギャラリーの雫は、静かに拍手を送っているのが見えた。
そして、黒岩監督。
彼は初めて腕組みを解き、少しだけ身を乗り出して僕を見ていた。その目に、微かな驚きが宿っている。
僕はネット越しに、呆然としている氷室を見た。
そして、小さく息を吐いた。
「……悪いな、氷室。ウォーミングアップは終わりだ」
ここからだ。
リベロ・日向悠真の、本当の試合が始まる。
僕たちはまだ、死んでなんかいない。
日曜日、午前九時。
桜島南高校の校門へと続く長い急勾配――通称『地獄坂』を、一台の大型バスが唸りを上げて登ってきた。
車体には紫と黒のライン。横には『鹿児島中央実業高等学校 バレーボール部』の文字。
県ベスト4の常連であり、あの中学時代の恩師――いや、元凶である黒岩監督が、優秀な選手を送り込み続けている強豪校だ。
「……来たな」
体育館の入り口で、キャプテンの一ノ瀬隼人が腕を組んで呟く。
その横顔はいつになく硬い。
僕、日向悠真は、その隣でごくりと唾を飲み込んだ。喉が渇いて張り付くようだ。
秋晴れの爽やかな空とは裏腹に、胃の底に冷たい鉛が溜まっている。
プシュウゥゥ……。
エアブレーキの音と共にバスが停車し、ドアが開く。
中から、屈強な選手たちが次々と降りてくる。
全員、体格が良い。平均身長で僕たちを10センチは上回っているだろう。そして何より、目つきが鋭い。勝利を義務付けられた集団特有の、ピリついたオーラを纏っている。
最後に降りてきたのは、見覚えのある小柄な選手――氷室透だった。
彼は校舎を見上げ、鼻で笑ったあと、僕を見つけてニヤリと口角を上げた。
「おはようございます、日向先輩。……へえ、本当に逃げなかったんですね」
「……おはよう、氷室」
僕は震えそうになる声を必死に抑えて挨拶を返す。
氷室はチームメイトに目配せし、嘲笑混じりに言った。
「紹介しますよ。この人が、俺がよく話してる『伝説の元・県選抜』です。……メンタルが弱すぎて、県大会の決勝前に逃げ出した」
「プッ、マジかよ」
「優男じゃん。バレーよりモデルやった方がいいんじゃね?」
中央実業の部員たちがクスクスと笑う。
その視線は、僕を対戦相手として見ていない。「壊れたおもちゃ」を見る目だ。
胃が痛くなる。逃げ出したい衝動が足元から這い上がってくる。
その時。
バスのステップから、革靴の重たい音が響いた。
コツン、コツン。
その場の空気が、一瞬で凍りついた。
笑っていた選手たちが直立不動になり、道を空ける。
現れたのは、黒いスーツに身を包んだ、白髪交じりの男だった。
鋭い眼光。深くまで刻まれた眉間の皺。
黒岩巌(くろいわ いわお)。
僕を「リベロ」という名の機械に作り変えようとした男。
「……整列」
低く、腹に響く声。
それだけで、中央実業の選手たちは弾かれたように整列し、一斉に頭を下げた。
軍隊だ。中学時代と何も変わっていない。
黒岩監督はゆっくりと顔を上げ、僕を見た。
心臓が止まるかと思った。
値踏みするような、冷たい目。
「……久しぶりだな、日向」
「……」
「挨拶も忘れたか。まあいい。……聞いたぞ。この弱小校で、またボール遊びを始めたそうだな」
ボール遊び。
彼にとって、自分の管理下以外で行われるバレーは、すべて「遊び」なのだ。
「今日の練習試合、時間の無駄にならんように祈っておくよ。……また途中で泣いて逃げ出さんようにな」
監督は鼻で笑い、僕の横を通り過ぎようとした。
足がすくむ。視界が暗くなる。
何か言わなきゃいけない。僕はもう、あの時の僕じゃない。
でも、喉が痙攣して声が出ない。
「――お待ちください」
凛とした声が、呪縛を切り裂いた。
2
僕の前に、小柄な影が立ち塞がった。
種子島凛だ。
彼女はタブレットを抱え、自分より遥かに背の高い大人たちを、冷徹に見上げていた。
「挨拶は手短にお願いします。練習時間が削れますので」
「……何だ、この子供は」
「当部のマネージャー、種子島です。本日のスケジュール管理を担当しています」
凛は黒岩監督の威圧感に一歩も引かない。
むしろ、彼女の瞳には明確な敵意――「非効率」と「感情論」に対する嫌悪が燃えていた。
「それに、あまり油断しない方がいいですよ、黒岩監督。貴方たちのデータは、去年の春高予選のビデオから全て解析済みです」
彼女はタブレットを操作し、画面を監督に見せつけた。
「特にエースの3番さん。クロスへのスパイク時に右肩が下がる癖、まだ直ってませんね? 確率82%でコースが読めます」
「あ?」
指摘された3番の選手がギクリとする。
黒岩監督の目が細められた。
「……面白い。データバレーか」
「ええ。貴方のような『根性論』とは対極にあるものです」
「小賢しい。……コートの上で、その理屈がいつまで通用するか見ものだな」
監督は不愉快そうに鼻を鳴らし、体育館へと歩き出した。
中央実業の選手たちが続く。
氷室がすれ違いざまに、僕に肩をぶつけてきた。
「……女に守ってもらって、情けないですね先輩」
捨て台詞を残して去っていく背中。
僕は拳を握りしめた。
情けない。本当にその通りだ。また凛に助けられた。
「……先輩」
凛が振り返る。
その顔は少し青ざめていた。彼女とて、あの監督と対峙するのは怖かったはずだ。兄を壊した元凶の一人なのだから。
それでも、彼女は気丈に振る舞っていた。
「私の計算では、勝率は45%。……決して、勝てない相手ではありません」
「……ああ」
「証明しましょう。私たちのやり方が、彼らよりも優れていることを」
彼女の震える手が、僕のジャージの袖を掴んだ。
僕はこの手を、二度と裏切ってはいけないと思った。
3
試合会場は、女子バレー部が遠征で不在のため、第1体育館を使用することになった。
ウォーミングアップが始まる。
スパイク練習の音が響く。ドォン! ドォン! という中央実業の打球音は重く、床板が悲鳴を上げているようだ。
対する桜島南は、人数も少なく、身長も低い。どう見ても勝負にならないように見える。
僕はリベロのユニフォーム(違う背番号の上からテープで『L』と貼った急造品)を着て、ベンチで靴紐を結び直していた。
指先が冷たい。蝶結びが上手く作れない。
「……貸して」
横から温かい手が伸びてきた。
霧島楓だ。
彼女はジャージ姿(マネージャー補佐)で膝をつき、僕の代わりにギュッと紐を締め上げてくれた。
「……楓」
「大丈夫。悠真の足、震えてないよ」
楓は顔を上げ、ニッコリと笑った。
それはいつもの「過保護な笑顔」ではなく、どこか覚悟を決めたような、力強い笑顔だった。
「もし怖くなったら、ベンチを見て」
彼女は小声で囁く。
「私がいる。水筒もタオルも持ってる。……いつでも『ここ』に帰ってきていいんだからね」
それは「逃げていいよ」という甘やかしであり、同時に「私が受け止めるから、思い切りやってこい」という激励でもあった。
靴紐が結ばれる。それは僕をコートに縛り付ける鎖であり、同時に命綱でもあった。
「……ありがとう、楓」
「ん。いってらっしゃい!」
彼女に背中を叩かれ、僕は立ち上がる。
ふと、二階のギャラリー(観覧席)を見上げる。
誰もいないはずの暗がり。しかし、柱の陰に、黒髪の少女の姿が見えた。
神宮司雫だ。
彼女は手すりに頬杖をつき、退屈そうに、しかし真っ直ぐに僕を見下ろしている。手にはスケッチブック。
*『壊れてもいいのよ。私が拾ってあげるから』*
先日の美術室での言葉が脳裏をよぎる。
彼女は、僕が美しく散るのを待っている。あるいは、泥だらけで足掻く姿を期待している。
どちらにせよ、僕の全てを見ていてくれる。
楓の「避難所」。
凛の「司令室」。
雫の「墓場」。
三つの帰る場所がある。
こんなに贅沢な保険をかけられた選手は、世界中探しても僕だけだろう。
だから、僕は前だけを見ていればいい。
4
『ピーッ!!』
審判の笛が鳴り響く。
整列。挨拶。
ネット越しに、氷室と目が合う。彼はリベロなので、僕と直接マッチアップすることはないが、ローテーションの合間に嫌でも顔を合わせることになる。
「……見せてくださいよ、先輩。今のザマを」
すれ違いざま、氷室が吐き捨てるように囁いた。
試合開始。
桜島南のサーブからスタートするが、あっさりと中央実業にレシーブされ、攻撃に転じられる。
敵のセッターがトスを上げる。
レフトから、エース(凛に癖を指摘された3番)が助走に入った。
高い。
ブロックの上から打ってくる気だ。
(……来る!)
ドォンッ!!
強烈なスパイク音が炸裂する。
ボールはブロックを弾き飛ばし、コートの後方へ。
僕は反応した。足を出した。
だが。
「……ッ!」
ボールは僕の腕を弾き飛ばし、無情にも壁際まで転がっていった。
重い。
中学時代のボールとは威力が違う。高校生の、それも全国レベルのパワーだ。
『ナイスキー!!』
敵チームの歓声が上がる。
「へっ、やっぱりな。反応が遅ぇよ」
氷室が冷笑する。
その後も、僕は狙われた。
完全に「穴」だと見なされたのだ。サーブも、スパイクも、執拗にリベロである僕の正面、あるいは取りにくい足元へ集められる。
弾く。転ぶ。拾えない。
点差が開いていく。
0-5。0-6。
『なんだ、元県選抜って聞いて警戒したけど、大したことねえじゃん』
『ただのブランク持ちかよ』
敵チームの嘲笑が聞こえる。
ベンチに座る黒岩監督は、腕を組んだまま微動だにしない。その無関心さが、何よりも僕を傷つける。「やはり廃棄物か」と言われている気がする。
呼吸が浅くなる。視界が狭まる。
体育館の照明が、中学時代のあの日の照明と重なって見える。
(……ダメだ。やっぱり、僕には無理なんだ)
(怖い。ボールが怖い。ミスするのが怖い)
(逃げたい。ベンチには楓がいる。あそこに行けば、もう楽になれる……)
僕は無意識にベンチの方を見た。
楓が心配そうに立ち上がっている。目が合えば、すぐにでもタオルを投げて試合を止めてくれるだろう。
その時。
「――先輩!!」
ベンチから、楓ではない、鋭い声が飛んだ。
凛だ。
彼女はタブレットを叩きつけんばかりの勢いで、パイプ椅子の上に立ち上がっていた(行儀が悪い)。
「何をしてるんですか! 3番のスパイクのコース、右肩が下がってましたよ! データ通りじゃないですか!」
「……え」
「ボールを見るな! 『情報』を見ろ!思考停止して怯える暇があったら、脳みそを回せ!」
罵倒。
でも、それは「お前はダメだ」という否定ではなく、「お前ならできるはずだ」という強烈な要求だった。
彼女は僕を信じている。僕のスペックを、僕以上に信じている。
「……くそっ」
僕は自分の頬を両手で叩いた。
パァン! といい音が鳴る。
そうだ。僕はもう、ただ怒られるだけの「中学生の僕」じゃない。
僕には、勝ちたがっている「司令塔(凛)」がいる。
5
次のローテーション。
敵のエース・3番がサーブに回る。強力なジャンプサーブだ。
彼は僕を狙っている。ニヤリと笑ったのが見えた。
(……凛のデータだと、右肩が下がる)
トスが上がる。ジャンプ。インパクトの瞬間。
見えた。
右肩が沈んだ。クロス方向への回転がかかる。
僕は思考するより早く、左へ半歩、重心を移した。
ボールが放たれる。
唸りを上げて僕の左手側へ曲がってくる。
かつてなら、「取れない」と諦めていたコース。
でも、今は――。
そこに、僕はいた。
**バチンッ!!**
完璧なインパクト音。
ボールの勢いを殺し、回転を殺し、セッターの三雲へ、優しい弧を描いて返球する。
「……なっ!?」
エースが目を見開く。氷室の表情が凍りつく。
「三雲、頼む!」
僕は叫んだ。
三雲がニヤリと笑い、トスを上げる。
そこへ飛び込んできたのは、キャプテンの一ノ瀬だ。
「っしゃらあああっ!!」
ドォンッ!!
一ノ瀬のスパイクが、ブロックの間を抜き、敵コートに突き刺さった。
決まった。
初めての、ブレイク(得点)。
「よっしゃあああ!! ナイスレシーブ、悠真!!」
一ノ瀬が僕に駆け寄り、ハイタッチを求めてくる。
手が痛い。でも、熱い。
ベンチを見ると、凛が「フン、当然です」という顔でタブレットを操作していた。でも、その口角は少しだけ上がっている。
楓は安堵して、へたり込んでいた。
ギャラリーの雫は、静かに拍手を送っているのが見えた。
そして、黒岩監督。
彼は初めて腕組みを解き、少しだけ身を乗り出して僕を見ていた。その目に、微かな驚きが宿っている。
僕はネット越しに、呆然としている氷室を見た。
そして、小さく息を吐いた。
「……悪いな、氷室。ウォーミングアップは終わりだ」
ここからだ。
リベロ・日向悠真の、本当の試合が始まる。
僕たちはまだ、死んでなんかいない。
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無事に両親にカナちゃんを引き合わす事ができた俺は安心して友人達の所へ戻ろうとしたが、別れ間際にカナちゃんが俺の太ももに抱き着いてきた。そしてカナちゃんは大切なぬいぐるみを俺にくれたんだ。
だから俺もお返しに小学生の頃からリュックにつけている小さなペンギンのぬいぐるみを外してカナちゃんに手渡した。
この時、お互いの名前を忘れないようにぬいぐるみの呼び名を『カナちゃん』『りょうくん』と呼ぶ約束をして別れるのだった。
この時の俺はカナちゃんとはたまたま出会い、そしてたまたま助けただけで、もう二度とカナちゃんと会う事は無いだろうと思っていたんだ。だから当然、カナちゃんの事を運命の人だなんて思うはずもない。それにカナちゃんの初恋の相手が俺でずっと想ってくれていたなんて考えたことも無かった……
7歳差の恋、共に大人へと成長していく二人に奇跡は起こるのか?
NOVがおおくりする『タイムリープ&純愛作品第三弾(三部作完結編)』今ここに感動のラブストーリーが始まる。
※この作品だけを読まれても普通に面白いです。
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