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亡霊たちの侵攻
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1
日曜日、午前九時。
桜島南高校の校門へと続く長い急勾配――通称『地獄坂』を、一台の大型バスが唸りを上げて登ってきた。
車体には紫と黒のライン。横には『鹿児島中央実業高等学校 バレーボール部』の文字。
県ベスト4の常連であり、あの中学時代の恩師――いや、元凶である黒岩監督が、優秀な選手を送り込み続けている強豪校だ。
「……来たな」
体育館の入り口で、キャプテンの一ノ瀬隼人が腕を組んで呟く。
その横顔はいつになく硬い。
僕、日向悠真は、その隣でごくりと唾を飲み込んだ。喉が渇いて張り付くようだ。
秋晴れの爽やかな空とは裏腹に、胃の底に冷たい鉛が溜まっている。
プシュウゥゥ……。
エアブレーキの音と共にバスが停車し、ドアが開く。
中から、屈強な選手たちが次々と降りてくる。
全員、体格が良い。平均身長で僕たちを10センチは上回っているだろう。そして何より、目つきが鋭い。勝利を義務付けられた集団特有の、ピリついたオーラを纏っている。
最後に降りてきたのは、見覚えのある小柄な選手――氷室透だった。
彼は校舎を見上げ、鼻で笑ったあと、僕を見つけてニヤリと口角を上げた。
「おはようございます、日向先輩。……へえ、本当に逃げなかったんですね」
「……おはよう、氷室」
僕は震えそうになる声を必死に抑えて挨拶を返す。
氷室はチームメイトに目配せし、嘲笑混じりに言った。
「紹介しますよ。この人が、俺がよく話してる『伝説の元・県選抜』です。……メンタルが弱すぎて、県大会の決勝前に逃げ出した」
「プッ、マジかよ」
「優男じゃん。バレーよりモデルやった方がいいんじゃね?」
中央実業の部員たちがクスクスと笑う。
その視線は、僕を対戦相手として見ていない。「壊れたおもちゃ」を見る目だ。
胃が痛くなる。逃げ出したい衝動が足元から這い上がってくる。
その時。
バスのステップから、革靴の重たい音が響いた。
コツン、コツン。
その場の空気が、一瞬で凍りついた。
笑っていた選手たちが直立不動になり、道を空ける。
現れたのは、黒いスーツに身を包んだ、白髪交じりの男だった。
鋭い眼光。深くまで刻まれた眉間の皺。
黒岩巌(くろいわ いわお)。
僕を「リベロ」という名の機械に作り変えようとした男。
「……整列」
低く、腹に響く声。
それだけで、中央実業の選手たちは弾かれたように整列し、一斉に頭を下げた。
軍隊だ。中学時代と何も変わっていない。
黒岩監督はゆっくりと顔を上げ、僕を見た。
心臓が止まるかと思った。
値踏みするような、冷たい目。
「……久しぶりだな、日向」
「……」
「挨拶も忘れたか。まあいい。……聞いたぞ。この弱小校で、またボール遊びを始めたそうだな」
ボール遊び。
彼にとって、自分の管理下以外で行われるバレーは、すべて「遊び」なのだ。
「今日の練習試合、時間の無駄にならんように祈っておくよ。……また途中で泣いて逃げ出さんようにな」
監督は鼻で笑い、僕の横を通り過ぎようとした。
足がすくむ。視界が暗くなる。
何か言わなきゃいけない。僕はもう、あの時の僕じゃない。
でも、喉が痙攣して声が出ない。
「――お待ちください」
凛とした声が、呪縛を切り裂いた。
2
僕の前に、小柄な影が立ち塞がった。
種子島凛だ。
彼女はタブレットを抱え、自分より遥かに背の高い大人たちを、冷徹に見上げていた。
「挨拶は手短にお願いします。練習時間が削れますので」
「……何だ、この子供は」
「当部のマネージャー、種子島です。本日のスケジュール管理を担当しています」
凛は黒岩監督の威圧感に一歩も引かない。
むしろ、彼女の瞳には明確な敵意――「非効率」と「感情論」に対する嫌悪が燃えていた。
「それに、あまり油断しない方がいいですよ、黒岩監督。貴方たちのデータは、去年の春高予選のビデオから全て解析済みです」
彼女はタブレットを操作し、画面を監督に見せつけた。
「特にエースの3番さん。クロスへのスパイク時に右肩が下がる癖、まだ直ってませんね? 確率82%でコースが読めます」
「あ?」
指摘された3番の選手がギクリとする。
黒岩監督の目が細められた。
「……面白い。データバレーか」
「ええ。貴方のような『根性論』とは対極にあるものです」
「小賢しい。……コートの上で、その理屈がいつまで通用するか見ものだな」
監督は不愉快そうに鼻を鳴らし、体育館へと歩き出した。
中央実業の選手たちが続く。
氷室がすれ違いざまに、僕に肩をぶつけてきた。
「……女に守ってもらって、情けないですね先輩」
捨て台詞を残して去っていく背中。
僕は拳を握りしめた。
情けない。本当にその通りだ。また凛に助けられた。
「……先輩」
凛が振り返る。
その顔は少し青ざめていた。彼女とて、あの監督と対峙するのは怖かったはずだ。兄を壊した元凶の一人なのだから。
それでも、彼女は気丈に振る舞っていた。
「私の計算では、勝率は45%。……決して、勝てない相手ではありません」
「……ああ」
「証明しましょう。私たちのやり方が、彼らよりも優れていることを」
彼女の震える手が、僕のジャージの袖を掴んだ。
僕はこの手を、二度と裏切ってはいけないと思った。
3
試合会場は、女子バレー部が遠征で不在のため、第1体育館を使用することになった。
ウォーミングアップが始まる。
スパイク練習の音が響く。ドォン! ドォン! という中央実業の打球音は重く、床板が悲鳴を上げているようだ。
対する桜島南は、人数も少なく、身長も低い。どう見ても勝負にならないように見える。
僕はリベロのユニフォーム(違う背番号の上からテープで『L』と貼った急造品)を着て、ベンチで靴紐を結び直していた。
指先が冷たい。蝶結びが上手く作れない。
「……貸して」
横から温かい手が伸びてきた。
霧島楓だ。
彼女はジャージ姿(マネージャー補佐)で膝をつき、僕の代わりにギュッと紐を締め上げてくれた。
「……楓」
「大丈夫。悠真の足、震えてないよ」
楓は顔を上げ、ニッコリと笑った。
それはいつもの「過保護な笑顔」ではなく、どこか覚悟を決めたような、力強い笑顔だった。
「もし怖くなったら、ベンチを見て」
彼女は小声で囁く。
「私がいる。水筒もタオルも持ってる。……いつでも『ここ』に帰ってきていいんだからね」
それは「逃げていいよ」という甘やかしであり、同時に「私が受け止めるから、思い切りやってこい」という激励でもあった。
靴紐が結ばれる。それは僕をコートに縛り付ける鎖であり、同時に命綱でもあった。
「……ありがとう、楓」
「ん。いってらっしゃい!」
彼女に背中を叩かれ、僕は立ち上がる。
ふと、二階のギャラリー(観覧席)を見上げる。
誰もいないはずの暗がり。しかし、柱の陰に、黒髪の少女の姿が見えた。
神宮司雫だ。
彼女は手すりに頬杖をつき、退屈そうに、しかし真っ直ぐに僕を見下ろしている。手にはスケッチブック。
*『壊れてもいいのよ。私が拾ってあげるから』*
先日の美術室での言葉が脳裏をよぎる。
彼女は、僕が美しく散るのを待っている。あるいは、泥だらけで足掻く姿を期待している。
どちらにせよ、僕の全てを見ていてくれる。
楓の「避難所」。
凛の「司令室」。
雫の「墓場」。
三つの帰る場所がある。
こんなに贅沢な保険をかけられた選手は、世界中探しても僕だけだろう。
だから、僕は前だけを見ていればいい。
4
『ピーッ!!』
審判の笛が鳴り響く。
整列。挨拶。
ネット越しに、氷室と目が合う。彼はリベロなので、僕と直接マッチアップすることはないが、ローテーションの合間に嫌でも顔を合わせることになる。
「……見せてくださいよ、先輩。今のザマを」
すれ違いざま、氷室が吐き捨てるように囁いた。
試合開始。
桜島南のサーブからスタートするが、あっさりと中央実業にレシーブされ、攻撃に転じられる。
敵のセッターがトスを上げる。
レフトから、エース(凛に癖を指摘された3番)が助走に入った。
高い。
ブロックの上から打ってくる気だ。
(……来る!)
ドォンッ!!
強烈なスパイク音が炸裂する。
ボールはブロックを弾き飛ばし、コートの後方へ。
僕は反応した。足を出した。
だが。
「……ッ!」
ボールは僕の腕を弾き飛ばし、無情にも壁際まで転がっていった。
重い。
中学時代のボールとは威力が違う。高校生の、それも全国レベルのパワーだ。
『ナイスキー!!』
敵チームの歓声が上がる。
「へっ、やっぱりな。反応が遅ぇよ」
氷室が冷笑する。
その後も、僕は狙われた。
完全に「穴」だと見なされたのだ。サーブも、スパイクも、執拗にリベロである僕の正面、あるいは取りにくい足元へ集められる。
弾く。転ぶ。拾えない。
点差が開いていく。
0-5。0-6。
『なんだ、元県選抜って聞いて警戒したけど、大したことねえじゃん』
『ただのブランク持ちかよ』
敵チームの嘲笑が聞こえる。
ベンチに座る黒岩監督は、腕を組んだまま微動だにしない。その無関心さが、何よりも僕を傷つける。「やはり廃棄物か」と言われている気がする。
呼吸が浅くなる。視界が狭まる。
体育館の照明が、中学時代のあの日の照明と重なって見える。
(……ダメだ。やっぱり、僕には無理なんだ)
(怖い。ボールが怖い。ミスするのが怖い)
(逃げたい。ベンチには楓がいる。あそこに行けば、もう楽になれる……)
僕は無意識にベンチの方を見た。
楓が心配そうに立ち上がっている。目が合えば、すぐにでもタオルを投げて試合を止めてくれるだろう。
その時。
「――先輩!!」
ベンチから、楓ではない、鋭い声が飛んだ。
凛だ。
彼女はタブレットを叩きつけんばかりの勢いで、パイプ椅子の上に立ち上がっていた(行儀が悪い)。
「何をしてるんですか! 3番のスパイクのコース、右肩が下がってましたよ! データ通りじゃないですか!」
「……え」
「ボールを見るな! 『情報』を見ろ!思考停止して怯える暇があったら、脳みそを回せ!」
罵倒。
でも、それは「お前はダメだ」という否定ではなく、「お前ならできるはずだ」という強烈な要求だった。
彼女は僕を信じている。僕のスペックを、僕以上に信じている。
「……くそっ」
僕は自分の頬を両手で叩いた。
パァン! といい音が鳴る。
そうだ。僕はもう、ただ怒られるだけの「中学生の僕」じゃない。
僕には、勝ちたがっている「司令塔(凛)」がいる。
5
次のローテーション。
敵のエース・3番がサーブに回る。強力なジャンプサーブだ。
彼は僕を狙っている。ニヤリと笑ったのが見えた。
(……凛のデータだと、右肩が下がる)
トスが上がる。ジャンプ。インパクトの瞬間。
見えた。
右肩が沈んだ。クロス方向への回転がかかる。
僕は思考するより早く、左へ半歩、重心を移した。
ボールが放たれる。
唸りを上げて僕の左手側へ曲がってくる。
かつてなら、「取れない」と諦めていたコース。
でも、今は――。
そこに、僕はいた。
**バチンッ!!**
完璧なインパクト音。
ボールの勢いを殺し、回転を殺し、セッターの三雲へ、優しい弧を描いて返球する。
「……なっ!?」
エースが目を見開く。氷室の表情が凍りつく。
「三雲、頼む!」
僕は叫んだ。
三雲がニヤリと笑い、トスを上げる。
そこへ飛び込んできたのは、キャプテンの一ノ瀬だ。
「っしゃらあああっ!!」
ドォンッ!!
一ノ瀬のスパイクが、ブロックの間を抜き、敵コートに突き刺さった。
決まった。
初めての、ブレイク(得点)。
「よっしゃあああ!! ナイスレシーブ、悠真!!」
一ノ瀬が僕に駆け寄り、ハイタッチを求めてくる。
手が痛い。でも、熱い。
ベンチを見ると、凛が「フン、当然です」という顔でタブレットを操作していた。でも、その口角は少しだけ上がっている。
楓は安堵して、へたり込んでいた。
ギャラリーの雫は、静かに拍手を送っているのが見えた。
そして、黒岩監督。
彼は初めて腕組みを解き、少しだけ身を乗り出して僕を見ていた。その目に、微かな驚きが宿っている。
僕はネット越しに、呆然としている氷室を見た。
そして、小さく息を吐いた。
「……悪いな、氷室。ウォーミングアップは終わりだ」
ここからだ。
リベロ・日向悠真の、本当の試合が始まる。
僕たちはまだ、死んでなんかいない。
日曜日、午前九時。
桜島南高校の校門へと続く長い急勾配――通称『地獄坂』を、一台の大型バスが唸りを上げて登ってきた。
車体には紫と黒のライン。横には『鹿児島中央実業高等学校 バレーボール部』の文字。
県ベスト4の常連であり、あの中学時代の恩師――いや、元凶である黒岩監督が、優秀な選手を送り込み続けている強豪校だ。
「……来たな」
体育館の入り口で、キャプテンの一ノ瀬隼人が腕を組んで呟く。
その横顔はいつになく硬い。
僕、日向悠真は、その隣でごくりと唾を飲み込んだ。喉が渇いて張り付くようだ。
秋晴れの爽やかな空とは裏腹に、胃の底に冷たい鉛が溜まっている。
プシュウゥゥ……。
エアブレーキの音と共にバスが停車し、ドアが開く。
中から、屈強な選手たちが次々と降りてくる。
全員、体格が良い。平均身長で僕たちを10センチは上回っているだろう。そして何より、目つきが鋭い。勝利を義務付けられた集団特有の、ピリついたオーラを纏っている。
最後に降りてきたのは、見覚えのある小柄な選手――氷室透だった。
彼は校舎を見上げ、鼻で笑ったあと、僕を見つけてニヤリと口角を上げた。
「おはようございます、日向先輩。……へえ、本当に逃げなかったんですね」
「……おはよう、氷室」
僕は震えそうになる声を必死に抑えて挨拶を返す。
氷室はチームメイトに目配せし、嘲笑混じりに言った。
「紹介しますよ。この人が、俺がよく話してる『伝説の元・県選抜』です。……メンタルが弱すぎて、県大会の決勝前に逃げ出した」
「プッ、マジかよ」
「優男じゃん。バレーよりモデルやった方がいいんじゃね?」
中央実業の部員たちがクスクスと笑う。
その視線は、僕を対戦相手として見ていない。「壊れたおもちゃ」を見る目だ。
胃が痛くなる。逃げ出したい衝動が足元から這い上がってくる。
その時。
バスのステップから、革靴の重たい音が響いた。
コツン、コツン。
その場の空気が、一瞬で凍りついた。
笑っていた選手たちが直立不動になり、道を空ける。
現れたのは、黒いスーツに身を包んだ、白髪交じりの男だった。
鋭い眼光。深くまで刻まれた眉間の皺。
黒岩巌(くろいわ いわお)。
僕を「リベロ」という名の機械に作り変えようとした男。
「……整列」
低く、腹に響く声。
それだけで、中央実業の選手たちは弾かれたように整列し、一斉に頭を下げた。
軍隊だ。中学時代と何も変わっていない。
黒岩監督はゆっくりと顔を上げ、僕を見た。
心臓が止まるかと思った。
値踏みするような、冷たい目。
「……久しぶりだな、日向」
「……」
「挨拶も忘れたか。まあいい。……聞いたぞ。この弱小校で、またボール遊びを始めたそうだな」
ボール遊び。
彼にとって、自分の管理下以外で行われるバレーは、すべて「遊び」なのだ。
「今日の練習試合、時間の無駄にならんように祈っておくよ。……また途中で泣いて逃げ出さんようにな」
監督は鼻で笑い、僕の横を通り過ぎようとした。
足がすくむ。視界が暗くなる。
何か言わなきゃいけない。僕はもう、あの時の僕じゃない。
でも、喉が痙攣して声が出ない。
「――お待ちください」
凛とした声が、呪縛を切り裂いた。
2
僕の前に、小柄な影が立ち塞がった。
種子島凛だ。
彼女はタブレットを抱え、自分より遥かに背の高い大人たちを、冷徹に見上げていた。
「挨拶は手短にお願いします。練習時間が削れますので」
「……何だ、この子供は」
「当部のマネージャー、種子島です。本日のスケジュール管理を担当しています」
凛は黒岩監督の威圧感に一歩も引かない。
むしろ、彼女の瞳には明確な敵意――「非効率」と「感情論」に対する嫌悪が燃えていた。
「それに、あまり油断しない方がいいですよ、黒岩監督。貴方たちのデータは、去年の春高予選のビデオから全て解析済みです」
彼女はタブレットを操作し、画面を監督に見せつけた。
「特にエースの3番さん。クロスへのスパイク時に右肩が下がる癖、まだ直ってませんね? 確率82%でコースが読めます」
「あ?」
指摘された3番の選手がギクリとする。
黒岩監督の目が細められた。
「……面白い。データバレーか」
「ええ。貴方のような『根性論』とは対極にあるものです」
「小賢しい。……コートの上で、その理屈がいつまで通用するか見ものだな」
監督は不愉快そうに鼻を鳴らし、体育館へと歩き出した。
中央実業の選手たちが続く。
氷室がすれ違いざまに、僕に肩をぶつけてきた。
「……女に守ってもらって、情けないですね先輩」
捨て台詞を残して去っていく背中。
僕は拳を握りしめた。
情けない。本当にその通りだ。また凛に助けられた。
「……先輩」
凛が振り返る。
その顔は少し青ざめていた。彼女とて、あの監督と対峙するのは怖かったはずだ。兄を壊した元凶の一人なのだから。
それでも、彼女は気丈に振る舞っていた。
「私の計算では、勝率は45%。……決して、勝てない相手ではありません」
「……ああ」
「証明しましょう。私たちのやり方が、彼らよりも優れていることを」
彼女の震える手が、僕のジャージの袖を掴んだ。
僕はこの手を、二度と裏切ってはいけないと思った。
3
試合会場は、女子バレー部が遠征で不在のため、第1体育館を使用することになった。
ウォーミングアップが始まる。
スパイク練習の音が響く。ドォン! ドォン! という中央実業の打球音は重く、床板が悲鳴を上げているようだ。
対する桜島南は、人数も少なく、身長も低い。どう見ても勝負にならないように見える。
僕はリベロのユニフォーム(違う背番号の上からテープで『L』と貼った急造品)を着て、ベンチで靴紐を結び直していた。
指先が冷たい。蝶結びが上手く作れない。
「……貸して」
横から温かい手が伸びてきた。
霧島楓だ。
彼女はジャージ姿(マネージャー補佐)で膝をつき、僕の代わりにギュッと紐を締め上げてくれた。
「……楓」
「大丈夫。悠真の足、震えてないよ」
楓は顔を上げ、ニッコリと笑った。
それはいつもの「過保護な笑顔」ではなく、どこか覚悟を決めたような、力強い笑顔だった。
「もし怖くなったら、ベンチを見て」
彼女は小声で囁く。
「私がいる。水筒もタオルも持ってる。……いつでも『ここ』に帰ってきていいんだからね」
それは「逃げていいよ」という甘やかしであり、同時に「私が受け止めるから、思い切りやってこい」という激励でもあった。
靴紐が結ばれる。それは僕をコートに縛り付ける鎖であり、同時に命綱でもあった。
「……ありがとう、楓」
「ん。いってらっしゃい!」
彼女に背中を叩かれ、僕は立ち上がる。
ふと、二階のギャラリー(観覧席)を見上げる。
誰もいないはずの暗がり。しかし、柱の陰に、黒髪の少女の姿が見えた。
神宮司雫だ。
彼女は手すりに頬杖をつき、退屈そうに、しかし真っ直ぐに僕を見下ろしている。手にはスケッチブック。
*『壊れてもいいのよ。私が拾ってあげるから』*
先日の美術室での言葉が脳裏をよぎる。
彼女は、僕が美しく散るのを待っている。あるいは、泥だらけで足掻く姿を期待している。
どちらにせよ、僕の全てを見ていてくれる。
楓の「避難所」。
凛の「司令室」。
雫の「墓場」。
三つの帰る場所がある。
こんなに贅沢な保険をかけられた選手は、世界中探しても僕だけだろう。
だから、僕は前だけを見ていればいい。
4
『ピーッ!!』
審判の笛が鳴り響く。
整列。挨拶。
ネット越しに、氷室と目が合う。彼はリベロなので、僕と直接マッチアップすることはないが、ローテーションの合間に嫌でも顔を合わせることになる。
「……見せてくださいよ、先輩。今のザマを」
すれ違いざま、氷室が吐き捨てるように囁いた。
試合開始。
桜島南のサーブからスタートするが、あっさりと中央実業にレシーブされ、攻撃に転じられる。
敵のセッターがトスを上げる。
レフトから、エース(凛に癖を指摘された3番)が助走に入った。
高い。
ブロックの上から打ってくる気だ。
(……来る!)
ドォンッ!!
強烈なスパイク音が炸裂する。
ボールはブロックを弾き飛ばし、コートの後方へ。
僕は反応した。足を出した。
だが。
「……ッ!」
ボールは僕の腕を弾き飛ばし、無情にも壁際まで転がっていった。
重い。
中学時代のボールとは威力が違う。高校生の、それも全国レベルのパワーだ。
『ナイスキー!!』
敵チームの歓声が上がる。
「へっ、やっぱりな。反応が遅ぇよ」
氷室が冷笑する。
その後も、僕は狙われた。
完全に「穴」だと見なされたのだ。サーブも、スパイクも、執拗にリベロである僕の正面、あるいは取りにくい足元へ集められる。
弾く。転ぶ。拾えない。
点差が開いていく。
0-5。0-6。
『なんだ、元県選抜って聞いて警戒したけど、大したことねえじゃん』
『ただのブランク持ちかよ』
敵チームの嘲笑が聞こえる。
ベンチに座る黒岩監督は、腕を組んだまま微動だにしない。その無関心さが、何よりも僕を傷つける。「やはり廃棄物か」と言われている気がする。
呼吸が浅くなる。視界が狭まる。
体育館の照明が、中学時代のあの日の照明と重なって見える。
(……ダメだ。やっぱり、僕には無理なんだ)
(怖い。ボールが怖い。ミスするのが怖い)
(逃げたい。ベンチには楓がいる。あそこに行けば、もう楽になれる……)
僕は無意識にベンチの方を見た。
楓が心配そうに立ち上がっている。目が合えば、すぐにでもタオルを投げて試合を止めてくれるだろう。
その時。
「――先輩!!」
ベンチから、楓ではない、鋭い声が飛んだ。
凛だ。
彼女はタブレットを叩きつけんばかりの勢いで、パイプ椅子の上に立ち上がっていた(行儀が悪い)。
「何をしてるんですか! 3番のスパイクのコース、右肩が下がってましたよ! データ通りじゃないですか!」
「……え」
「ボールを見るな! 『情報』を見ろ!思考停止して怯える暇があったら、脳みそを回せ!」
罵倒。
でも、それは「お前はダメだ」という否定ではなく、「お前ならできるはずだ」という強烈な要求だった。
彼女は僕を信じている。僕のスペックを、僕以上に信じている。
「……くそっ」
僕は自分の頬を両手で叩いた。
パァン! といい音が鳴る。
そうだ。僕はもう、ただ怒られるだけの「中学生の僕」じゃない。
僕には、勝ちたがっている「司令塔(凛)」がいる。
5
次のローテーション。
敵のエース・3番がサーブに回る。強力なジャンプサーブだ。
彼は僕を狙っている。ニヤリと笑ったのが見えた。
(……凛のデータだと、右肩が下がる)
トスが上がる。ジャンプ。インパクトの瞬間。
見えた。
右肩が沈んだ。クロス方向への回転がかかる。
僕は思考するより早く、左へ半歩、重心を移した。
ボールが放たれる。
唸りを上げて僕の左手側へ曲がってくる。
かつてなら、「取れない」と諦めていたコース。
でも、今は――。
そこに、僕はいた。
**バチンッ!!**
完璧なインパクト音。
ボールの勢いを殺し、回転を殺し、セッターの三雲へ、優しい弧を描いて返球する。
「……なっ!?」
エースが目を見開く。氷室の表情が凍りつく。
「三雲、頼む!」
僕は叫んだ。
三雲がニヤリと笑い、トスを上げる。
そこへ飛び込んできたのは、キャプテンの一ノ瀬だ。
「っしゃらあああっ!!」
ドォンッ!!
一ノ瀬のスパイクが、ブロックの間を抜き、敵コートに突き刺さった。
決まった。
初めての、ブレイク(得点)。
「よっしゃあああ!! ナイスレシーブ、悠真!!」
一ノ瀬が僕に駆け寄り、ハイタッチを求めてくる。
手が痛い。でも、熱い。
ベンチを見ると、凛が「フン、当然です」という顔でタブレットを操作していた。でも、その口角は少しだけ上がっている。
楓は安堵して、へたり込んでいた。
ギャラリーの雫は、静かに拍手を送っているのが見えた。
そして、黒岩監督。
彼は初めて腕組みを解き、少しだけ身を乗り出して僕を見ていた。その目に、微かな驚きが宿っている。
僕はネット越しに、呆然としている氷室を見た。
そして、小さく息を吐いた。
「……悪いな、氷室。ウォーミングアップは終わりだ」
ここからだ。
リベロ・日向悠真の、本当の試合が始まる。
僕たちはまだ、死んでなんかいない。
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それ以来、八杉裕一(やすぎ・ゆういち)は誓った。「高校では恋愛なんて面倒なものとは無縁の、平穏なオタク生活を送る」と。
だが、入学した紫水高校には《楽園の世代》と呼ばれる四人のSSS級美少女――通称《四皇》が君臨していた。
• 距離感バグり気味の金髪幼馴染・神行胱。
• 圧倒的カリスマで「恋の沼」に突き落とす銀髪美少女・銀咲明日香。
• 無自覚に男たちの初恋を奪う、おっとりした「女神」・足立模。
• オタクにも優しい一万年に一人の最高ギャル・川瀬優里。
恋愛から距離を置きたい裕一の願いも虚しく、彼女たちはなぜか彼にだけ、見え見えな好意を寄せ始める。
教室での「あーん」に、放課後のアニメイトでの遭遇、さらには女神からの「一緒にホラー漫画を買いに行かない?」というお誘いまで。
「俺の身にもなれ! 荷が重すぎるんだよ!」
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