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壊れた翼のデータと、嵐の涙
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1
九月。
夏休みが明け、新学期が始まると同時に、季節は急速に秋へと傾き始めていた。
連日の雨。台風の接近。
低気圧が垂れ込める空の下、種子島家のリビングには、湿った重苦しい空気が澱んでいた。
「……ッ、くう……」
微かな呻き声が聞こえ、凛は冷蔵庫へ向かう足を止めた。
ソファで、兄の種子島遼(たねがしま りょう)が膝を抱えている。
彼は無意識のうちに、自身の右膝を強くさすっていた。そこには、手術痕を覆う重厚な医療用サポーターが巻かれている。雨の日は、気圧の変化で埋め込まれたボルトが疼くのだ。
かつて県内最強のエーススパイカーと呼ばれ、空中を歩くように飛んでいたその脚は、今では階段の上り下りさえ不自由な「枷(かせ)」になっていた。
「……痛み止め、まだ飲んでないの」
凛は感情を殺した声で言い、キッチンの薬箱から錠剤を取り出した。
「ああ、悪いな凛。……今日はちょっと、冷えるからな」
兄は申し訳なさそうに笑い、水と一緒に薬を飲み込んだ。
その力のない笑顔が、凛には堪らなく腹立たしかった。
なぜ笑えるのか。あんな理不尽な理由で夢を絶たれたのに。なぜ、世界を呪わないのか。
テーブルの上には、大学から届いた封筒が無造作に置かれていた。中身は見なくても分かる。『スポーツ推薦枠・取消通知』。
バレーボール選手としての未来だけでなく、進路さえも、あの怪我が奪っていった。
「……春高予選、もうすぐだな」
兄が話題を変えるように言った。視線はテレビに映る、過去の春高バレーの録画映像に向けられている。
「お前のところの『新しいリベロ』、調子はどうだ? 日向と言ったか」
「順調よ。レシーブ成功率は先週比で12%向上。……兄さんの時とは違って、私が完璧に管理しているから」
その言葉に棘があることに気づいているのかいないのか、兄は苦笑いした。
「そうか。……でもな、凛」
兄の表情が、ふと真面目なものに変わった。
「あんまり、詰め込みすぎるなよ。お前、最近自分の顔を鏡で見てないだろ。……鬼みたいな顔してるぞ」
「……勝つために必要なことです」
「勝ち負けだけじゃねえだろ。あいつらは機械じゃない。心があるんだ。……俺たちが間違ってたのは『根性』そのものじゃなくて、それを『強制』したことだ。お前が今やってることも、形を変えた強制に見えるぞ」
プツン、と。
凛の中で張り詰めていた何かが切れた。
「……分かったようなこと言わないでッ!!」
凛は叫んでいた。リビングに声が反響する。
兄が驚いて目を見開く。
「『心』? 『気持ち』? そんな不確定なものに頼った結果が、そのザマじゃない! 兄さんは『気持ち』で飛んで、それで膝を壊した! 監督の『飛べ』って命令を、エースの責任感だけで断れなかった!」
脳裏にフラッシュバックする、二年前の記憶。
県大会決勝。
膝の痛みに顔を歪める兄。ベンチから怒鳴り続ける監督。『エースだろ! 根性見せろ! ここで逃げたら一生負け犬だぞ!』
そして、兄は無理をして踏み切り――空中で、ブチリという生々しい音が響いた。
コートに崩れ落ち、悲鳴を上げる兄。歓声が悲鳴に変わる瞬間。
観客席にいた中学生の凛は、ただ震えて見ていることしかできなかった。
「私は……私は、絶対に同じ間違いはしない! 感情なんていらない。完璧な計算と管理があれば、誰も壊れずに勝てるのよ! それを証明しなきゃ、兄さんの犠牲が無駄になるじゃない!」
「凛……」
兄が痛む脚を引きずって立ち上がろうとする。
「触らないで!」
凛は兄の手を振り払い、自分の部屋へと駆け込んだ。
ドアを叩きつけ、鍵をかける。
ずるずるとその場に座り込む。
心臓が早鐘を打っている。兄の悲しそうな顔が、瞼(まぶた)の裏に焼き付いて離れない。
(……勝ちたい。勝たせなきゃ)
証明しなければならない。
私のやり方が正しいと。
日向先輩を勝たせることで、兄さんを壊した「根性論」を否定してやるんだ。
凛は震える手でタブレットを起動した。
画面の明かりだけが、暗い部屋を照らす。
彼女は涙を拭い、鬼の形相で明日のトレーニングメニューを書き換え始めた。
『休息』の文字を消し、『強化』の文字で埋め尽くしていく。
2
翌日の放課後。
第2体育館の空気は、かつてないほど張り詰めていた。
外は昨夜からの雨が降り続いており、湿度が不快指数を上げている。
「一ノ瀬先輩! サーブの回転数が落ちています! 昨日より100本追加!」
「三雲先輩! トスの軌道が0.5秒遅い! 反復練習!」
「日向先輩! 足が止まってます! 中央実業のスパイクはもっと速いんですよ!」
凛の怒号が体育館に響き渡る。
今日の彼女は、明らかに異常だった。
休憩時間を削り、水分補給の時間さえ惜しむように指示を飛ばす。その目は充血し、肌は病的に白い。持っているタブレットを握る指は白く変色している。
「……おい、凛ちゃん。ちょっとペース早すぎねえか?」
一ノ瀬が膝に手をつき、息を切らして抗議する。
Tシャツは汗で重くなり、床には選手の汗の水たまりができている。
「みんなバテてる。少し休ませてくれ。怪我人が出るぞ」
「甘いです! 相手は待ってくれません!」
凛は聞く耳を持たない。
「私の計算では、この負荷に耐えられないと勝率が50%を切ります。……負けたいんですか? あの黒岩監督の前で、また負け犬になりたいんですか!?」
その言葉に、一ノ瀬が押し黙る。
部員たちは互いに顔を見合わせ、重い空気が流れる。
みんな気づいていた。今の凛を突き動かしているのが「勝利への執念」ではなく、何かに追われるような「恐怖」であることに。
僕はボールを拾い上げ、凛に歩み寄った。
「……凛ちゃん」
「何ですか、先輩。練習に戻ってください」
「顔色が悪いよ。君も少し休もう。……震えてるじゃないか」
僕は彼女の手元を見た。タブレットを持つ手が、小刻みに震えている。
オーバーワークなのは選手だけじゃない。彼女自身も、睡眠時間を削ってデータを分析し、神経をすり減らしている。
「触らないでください! 私は平気です、数値に異常はありません!」
凛は僕の手を振り払った。
その拍子に、彼女が持っていたタブレットが手から滑り落ちそうになる。
「あッ……!」
凛が慌てて拾おうと屈んだ瞬間、彼女の視界がぐにゃりと歪んだ。
平衡感覚の喪失。
地面が迫ってくる。
――ガシャン!!
ボールカゴにぶつかり、ボールが雪崩のように散乱した。
凛はその中に埋もれるように倒れ込んだ。
「凛ちゃん!?」
「おいマネージャー!」
部員たちが駆け寄る。
僕が一番に滑り込み、凛の肩を抱き起こす。
彼女の身体は、火のように熱かった。
「……すみません……エラーが……」
凛は虚ろな目で、宙を彷徨(さまよ)う手を動かした。
「データ……入力しなきゃ……まだ、足りない……。これじゃ、兄さんが……」
うわ言のように呟き、彼女は意識を手放した。
その手には、昨夜兄に突きつけられた「自分の正しさ」への執着が、見えない鎖となって絡みついていた。
3
目が覚めると、そこは薄暗い保健室の天井だった。
消毒液の匂い。雨音が窓を叩く音。額には冷たい感触。氷枕だ。
「……ん」
身体を起こそうとするが、力が入らない。関節が軋むように痛い。
枕元のデジタル時計を見る。時刻は午後九時を回っていた。
「……気がついた?」
ベッドの脇、パイプ椅子に座った人影が動いた。
日向悠真だ。
彼は文庫本を閉じ、ホッとしたように息を吐いた。制服姿だが、ネクタイは緩められている。
「……先輩。私、何を……」
「倒れたんだよ。過労と風邪だ。……一ノ瀬たちは帰した。僕が付き添うって言ったから」
「……不覚です。自己管理(ヘルスケア)を怠るなんて……」
凛は悔しさに唇を噛んだ。
情けない。選手を管理する立場の人間が、一番最初にダウンするなんて。
これでは、感情論で身体を壊した兄さんや、あの無能な監督たちと同じじゃないか。
「……帰ります。まだ、明日のメニューの修正が……」
凛が無理やり立ち上がろうとする。
「寝てろって」
悠真が、凛の肩を優しく、しかし強く押し戻した。
「……離してください。時間がありません。1分無駄にするごとに、勝率が0.01%下がります」
「下がんないよ。君が倒れたら、勝率はゼロになる」
悠真の声は、いつもより低く、落ち着いていた。
その静かな迫力に、凛は口をつぐむ。
「……怖かったんだろ?」
悠真が核心を突いた。
「お兄さんのこと、一ノ瀬から少し聞いたよ。怪我で引退したって」
凛の身体がビクリと跳ねる。
触れられたくない傷口。でも、熱に浮かされた頭では、防衛本能が働かなかった。
「……見てたんです」
ポツリと、凛の口から言葉がこぼれ落ちた。
「兄さんが膝を壊した瞬間を。……ベンチからの『根性を見せろ』って怒鳴り声も、それに従った兄さんの顔も。……ブチリ、って音が聞こえたんです。観客席まで」
天井を見つめる凛の瞳から、涙がツーと横に流れる。
「だから私は誓ったんです。感情なんて不確定なものはいらない。完璧な計算と管理があれば、誰も壊れずに勝てる。……それを証明して、兄さんを否定してやりたかった」
声が震える。
「なのに……私が一番無理をして、身体を壊してどうするんですか。これじゃ……私の理論が間違ってるって、認めるようなものじゃないですか……」
嗚咽が漏れる。
いつも強気で、冷徹で、大人びていた少女が、今はただの迷子の子供のように泣いていた。
彼女の抱えていた重圧。兄への愛と、それゆえの拒絶。
それを一人で背負い込んでいたのだ。
4
悠真は、凛の熱い手をそっと両手で包み込んだ。
冷たい手が、彼女の熱を吸い取っていく。
「……凛ちゃん。君の計算は完璧だよ」
「……気休めは、いりません」
「本当さ。僕たちがここまで強くなれたのは、間違いなく君のおかげだ。君のデータがあったから、僕は氷室の前でも足がすくまなかった」
悠真は、涙で濡れた彼女の前髪を優しく払った。
「でも、一つだけ計算ミスがある」
「……ミス?」
「君は僕たちを『壊れるかもしれない機械』だと思ってる。……でも、僕らは人間だ。君が倒れそうなら支えるし、君が泣いてたら、助けたいと思う」
悠真は凛の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、かつての「死んだ魚のような」色はなく、確かな意志の光が宿っていた。
「マネージャーは選手を管理する。……じゃあ、マネージャーが倒れそうな時は、誰が支えるんだ?」
「そ、それは……」
「リベロの出番だろ」
悠真がニッと笑う。
それは、頼りなかった先輩が、初めて見せた「男」の顔だった。
「コートの中だけじゃない。ベンチの君がピンチの時も、僕が拾うよ。……だから、今日はもう休め。これはエース……いや、リベロ命令だ」
凛は目を見開いた。
生意気だ。選手(デバイス)のくせに。
でも、その言葉は、どんな薬よりも深く、痛んだ心に染み渡った。
私が管理して、作ってあげたと思っていたのに。
いつの間にか、私の方が支えられていた。
この人はもう、私が守らなきゃいけない「壊れたおもちゃ」じゃない。
「……生意気です、先輩のくせに」
「ああ」
「……データにないことを、しないでください。心拍数が……下がりません」
凛は悠真の手を強く握り返し、布団を頭まで被った。
シーツの下から、抑えきれない泣き声が聞こえる。
悠真は何も言わず、ただずっと彼女の手を握り続けていた。
外の雨音だけが、優しく響いていた。
5
翌日。雨は上がっていた。
放課後の部室。
マスク姿で現れた凛は、いつも通りタブレットを持っていたが、その表情はどこか憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……おはようございます」
「お、おう。凛ちゃん、大丈夫か?」
一ノ瀬たちが心配そうに声をかける。
「微熱ですが、稼働に問題はありません。……ただし」
凛はホワイトボードのマーカーを手に取り、本日のメニュー欄に大きく書き込んだ。
『水曜:全部員、完全休養日(アクティブレスト)』
「……え?」
全員が目を丸くする。鬼軍曹の辞書に「休み」という文字はないはずだ。
「昨夜、データを再計算しました。現在の疲労度を考慮すると、今日は筋肉の超回復を優先すべきとの結論に至りました。……以上です」
凛は淡々と告げたが、その耳は真っ赤だった。
そして、チラリと悠真の方を見る。
「……日向先輩。貴方は昨日の看病で睡眠時間が不足しています。部室で仮眠を取ってください。……枕なら、私が貸しますから」
ボソッと言い捨てて、彼女は逃げるように部室を出ていった。
「……へえ~」
三雲がニヤニヤしながら悠真を見る。「なんか、随分と手懐けたな?」
「違うって!」
悠真は赤くなって否定したが、その顔は嬉しそうだった。
兄の影を乗り越え、勝利への焦燥を捨てた凛。
彼女のデータバレーに、「信頼」という最強の変数が加わった瞬間だった。
九月。
夏休みが明け、新学期が始まると同時に、季節は急速に秋へと傾き始めていた。
連日の雨。台風の接近。
低気圧が垂れ込める空の下、種子島家のリビングには、湿った重苦しい空気が澱んでいた。
「……ッ、くう……」
微かな呻き声が聞こえ、凛は冷蔵庫へ向かう足を止めた。
ソファで、兄の種子島遼(たねがしま りょう)が膝を抱えている。
彼は無意識のうちに、自身の右膝を強くさすっていた。そこには、手術痕を覆う重厚な医療用サポーターが巻かれている。雨の日は、気圧の変化で埋め込まれたボルトが疼くのだ。
かつて県内最強のエーススパイカーと呼ばれ、空中を歩くように飛んでいたその脚は、今では階段の上り下りさえ不自由な「枷(かせ)」になっていた。
「……痛み止め、まだ飲んでないの」
凛は感情を殺した声で言い、キッチンの薬箱から錠剤を取り出した。
「ああ、悪いな凛。……今日はちょっと、冷えるからな」
兄は申し訳なさそうに笑い、水と一緒に薬を飲み込んだ。
その力のない笑顔が、凛には堪らなく腹立たしかった。
なぜ笑えるのか。あんな理不尽な理由で夢を絶たれたのに。なぜ、世界を呪わないのか。
テーブルの上には、大学から届いた封筒が無造作に置かれていた。中身は見なくても分かる。『スポーツ推薦枠・取消通知』。
バレーボール選手としての未来だけでなく、進路さえも、あの怪我が奪っていった。
「……春高予選、もうすぐだな」
兄が話題を変えるように言った。視線はテレビに映る、過去の春高バレーの録画映像に向けられている。
「お前のところの『新しいリベロ』、調子はどうだ? 日向と言ったか」
「順調よ。レシーブ成功率は先週比で12%向上。……兄さんの時とは違って、私が完璧に管理しているから」
その言葉に棘があることに気づいているのかいないのか、兄は苦笑いした。
「そうか。……でもな、凛」
兄の表情が、ふと真面目なものに変わった。
「あんまり、詰め込みすぎるなよ。お前、最近自分の顔を鏡で見てないだろ。……鬼みたいな顔してるぞ」
「……勝つために必要なことです」
「勝ち負けだけじゃねえだろ。あいつらは機械じゃない。心があるんだ。……俺たちが間違ってたのは『根性』そのものじゃなくて、それを『強制』したことだ。お前が今やってることも、形を変えた強制に見えるぞ」
プツン、と。
凛の中で張り詰めていた何かが切れた。
「……分かったようなこと言わないでッ!!」
凛は叫んでいた。リビングに声が反響する。
兄が驚いて目を見開く。
「『心』? 『気持ち』? そんな不確定なものに頼った結果が、そのザマじゃない! 兄さんは『気持ち』で飛んで、それで膝を壊した! 監督の『飛べ』って命令を、エースの責任感だけで断れなかった!」
脳裏にフラッシュバックする、二年前の記憶。
県大会決勝。
膝の痛みに顔を歪める兄。ベンチから怒鳴り続ける監督。『エースだろ! 根性見せろ! ここで逃げたら一生負け犬だぞ!』
そして、兄は無理をして踏み切り――空中で、ブチリという生々しい音が響いた。
コートに崩れ落ち、悲鳴を上げる兄。歓声が悲鳴に変わる瞬間。
観客席にいた中学生の凛は、ただ震えて見ていることしかできなかった。
「私は……私は、絶対に同じ間違いはしない! 感情なんていらない。完璧な計算と管理があれば、誰も壊れずに勝てるのよ! それを証明しなきゃ、兄さんの犠牲が無駄になるじゃない!」
「凛……」
兄が痛む脚を引きずって立ち上がろうとする。
「触らないで!」
凛は兄の手を振り払い、自分の部屋へと駆け込んだ。
ドアを叩きつけ、鍵をかける。
ずるずるとその場に座り込む。
心臓が早鐘を打っている。兄の悲しそうな顔が、瞼(まぶた)の裏に焼き付いて離れない。
(……勝ちたい。勝たせなきゃ)
証明しなければならない。
私のやり方が正しいと。
日向先輩を勝たせることで、兄さんを壊した「根性論」を否定してやるんだ。
凛は震える手でタブレットを起動した。
画面の明かりだけが、暗い部屋を照らす。
彼女は涙を拭い、鬼の形相で明日のトレーニングメニューを書き換え始めた。
『休息』の文字を消し、『強化』の文字で埋め尽くしていく。
2
翌日の放課後。
第2体育館の空気は、かつてないほど張り詰めていた。
外は昨夜からの雨が降り続いており、湿度が不快指数を上げている。
「一ノ瀬先輩! サーブの回転数が落ちています! 昨日より100本追加!」
「三雲先輩! トスの軌道が0.5秒遅い! 反復練習!」
「日向先輩! 足が止まってます! 中央実業のスパイクはもっと速いんですよ!」
凛の怒号が体育館に響き渡る。
今日の彼女は、明らかに異常だった。
休憩時間を削り、水分補給の時間さえ惜しむように指示を飛ばす。その目は充血し、肌は病的に白い。持っているタブレットを握る指は白く変色している。
「……おい、凛ちゃん。ちょっとペース早すぎねえか?」
一ノ瀬が膝に手をつき、息を切らして抗議する。
Tシャツは汗で重くなり、床には選手の汗の水たまりができている。
「みんなバテてる。少し休ませてくれ。怪我人が出るぞ」
「甘いです! 相手は待ってくれません!」
凛は聞く耳を持たない。
「私の計算では、この負荷に耐えられないと勝率が50%を切ります。……負けたいんですか? あの黒岩監督の前で、また負け犬になりたいんですか!?」
その言葉に、一ノ瀬が押し黙る。
部員たちは互いに顔を見合わせ、重い空気が流れる。
みんな気づいていた。今の凛を突き動かしているのが「勝利への執念」ではなく、何かに追われるような「恐怖」であることに。
僕はボールを拾い上げ、凛に歩み寄った。
「……凛ちゃん」
「何ですか、先輩。練習に戻ってください」
「顔色が悪いよ。君も少し休もう。……震えてるじゃないか」
僕は彼女の手元を見た。タブレットを持つ手が、小刻みに震えている。
オーバーワークなのは選手だけじゃない。彼女自身も、睡眠時間を削ってデータを分析し、神経をすり減らしている。
「触らないでください! 私は平気です、数値に異常はありません!」
凛は僕の手を振り払った。
その拍子に、彼女が持っていたタブレットが手から滑り落ちそうになる。
「あッ……!」
凛が慌てて拾おうと屈んだ瞬間、彼女の視界がぐにゃりと歪んだ。
平衡感覚の喪失。
地面が迫ってくる。
――ガシャン!!
ボールカゴにぶつかり、ボールが雪崩のように散乱した。
凛はその中に埋もれるように倒れ込んだ。
「凛ちゃん!?」
「おいマネージャー!」
部員たちが駆け寄る。
僕が一番に滑り込み、凛の肩を抱き起こす。
彼女の身体は、火のように熱かった。
「……すみません……エラーが……」
凛は虚ろな目で、宙を彷徨(さまよ)う手を動かした。
「データ……入力しなきゃ……まだ、足りない……。これじゃ、兄さんが……」
うわ言のように呟き、彼女は意識を手放した。
その手には、昨夜兄に突きつけられた「自分の正しさ」への執着が、見えない鎖となって絡みついていた。
3
目が覚めると、そこは薄暗い保健室の天井だった。
消毒液の匂い。雨音が窓を叩く音。額には冷たい感触。氷枕だ。
「……ん」
身体を起こそうとするが、力が入らない。関節が軋むように痛い。
枕元のデジタル時計を見る。時刻は午後九時を回っていた。
「……気がついた?」
ベッドの脇、パイプ椅子に座った人影が動いた。
日向悠真だ。
彼は文庫本を閉じ、ホッとしたように息を吐いた。制服姿だが、ネクタイは緩められている。
「……先輩。私、何を……」
「倒れたんだよ。過労と風邪だ。……一ノ瀬たちは帰した。僕が付き添うって言ったから」
「……不覚です。自己管理(ヘルスケア)を怠るなんて……」
凛は悔しさに唇を噛んだ。
情けない。選手を管理する立場の人間が、一番最初にダウンするなんて。
これでは、感情論で身体を壊した兄さんや、あの無能な監督たちと同じじゃないか。
「……帰ります。まだ、明日のメニューの修正が……」
凛が無理やり立ち上がろうとする。
「寝てろって」
悠真が、凛の肩を優しく、しかし強く押し戻した。
「……離してください。時間がありません。1分無駄にするごとに、勝率が0.01%下がります」
「下がんないよ。君が倒れたら、勝率はゼロになる」
悠真の声は、いつもより低く、落ち着いていた。
その静かな迫力に、凛は口をつぐむ。
「……怖かったんだろ?」
悠真が核心を突いた。
「お兄さんのこと、一ノ瀬から少し聞いたよ。怪我で引退したって」
凛の身体がビクリと跳ねる。
触れられたくない傷口。でも、熱に浮かされた頭では、防衛本能が働かなかった。
「……見てたんです」
ポツリと、凛の口から言葉がこぼれ落ちた。
「兄さんが膝を壊した瞬間を。……ベンチからの『根性を見せろ』って怒鳴り声も、それに従った兄さんの顔も。……ブチリ、って音が聞こえたんです。観客席まで」
天井を見つめる凛の瞳から、涙がツーと横に流れる。
「だから私は誓ったんです。感情なんて不確定なものはいらない。完璧な計算と管理があれば、誰も壊れずに勝てる。……それを証明して、兄さんを否定してやりたかった」
声が震える。
「なのに……私が一番無理をして、身体を壊してどうするんですか。これじゃ……私の理論が間違ってるって、認めるようなものじゃないですか……」
嗚咽が漏れる。
いつも強気で、冷徹で、大人びていた少女が、今はただの迷子の子供のように泣いていた。
彼女の抱えていた重圧。兄への愛と、それゆえの拒絶。
それを一人で背負い込んでいたのだ。
4
悠真は、凛の熱い手をそっと両手で包み込んだ。
冷たい手が、彼女の熱を吸い取っていく。
「……凛ちゃん。君の計算は完璧だよ」
「……気休めは、いりません」
「本当さ。僕たちがここまで強くなれたのは、間違いなく君のおかげだ。君のデータがあったから、僕は氷室の前でも足がすくまなかった」
悠真は、涙で濡れた彼女の前髪を優しく払った。
「でも、一つだけ計算ミスがある」
「……ミス?」
「君は僕たちを『壊れるかもしれない機械』だと思ってる。……でも、僕らは人間だ。君が倒れそうなら支えるし、君が泣いてたら、助けたいと思う」
悠真は凛の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、かつての「死んだ魚のような」色はなく、確かな意志の光が宿っていた。
「マネージャーは選手を管理する。……じゃあ、マネージャーが倒れそうな時は、誰が支えるんだ?」
「そ、それは……」
「リベロの出番だろ」
悠真がニッと笑う。
それは、頼りなかった先輩が、初めて見せた「男」の顔だった。
「コートの中だけじゃない。ベンチの君がピンチの時も、僕が拾うよ。……だから、今日はもう休め。これはエース……いや、リベロ命令だ」
凛は目を見開いた。
生意気だ。選手(デバイス)のくせに。
でも、その言葉は、どんな薬よりも深く、痛んだ心に染み渡った。
私が管理して、作ってあげたと思っていたのに。
いつの間にか、私の方が支えられていた。
この人はもう、私が守らなきゃいけない「壊れたおもちゃ」じゃない。
「……生意気です、先輩のくせに」
「ああ」
「……データにないことを、しないでください。心拍数が……下がりません」
凛は悠真の手を強く握り返し、布団を頭まで被った。
シーツの下から、抑えきれない泣き声が聞こえる。
悠真は何も言わず、ただずっと彼女の手を握り続けていた。
外の雨音だけが、優しく響いていた。
5
翌日。雨は上がっていた。
放課後の部室。
マスク姿で現れた凛は、いつも通りタブレットを持っていたが、その表情はどこか憑き物が落ちたように穏やかだった。
「……おはようございます」
「お、おう。凛ちゃん、大丈夫か?」
一ノ瀬たちが心配そうに声をかける。
「微熱ですが、稼働に問題はありません。……ただし」
凛はホワイトボードのマーカーを手に取り、本日のメニュー欄に大きく書き込んだ。
『水曜:全部員、完全休養日(アクティブレスト)』
「……え?」
全員が目を丸くする。鬼軍曹の辞書に「休み」という文字はないはずだ。
「昨夜、データを再計算しました。現在の疲労度を考慮すると、今日は筋肉の超回復を優先すべきとの結論に至りました。……以上です」
凛は淡々と告げたが、その耳は真っ赤だった。
そして、チラリと悠真の方を見る。
「……日向先輩。貴方は昨日の看病で睡眠時間が不足しています。部室で仮眠を取ってください。……枕なら、私が貸しますから」
ボソッと言い捨てて、彼女は逃げるように部室を出ていった。
「……へえ~」
三雲がニヤニヤしながら悠真を見る。「なんか、随分と手懐けたな?」
「違うって!」
悠真は赤くなって否定したが、その顔は嬉しそうだった。
兄の影を乗り越え、勝利への焦燥を捨てた凛。
彼女のデータバレーに、「信頼」という最強の変数が加わった瞬間だった。
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