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空っぽの鳥籠と、迷子の太陽
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1
九月も半ばを過ぎ、朝夕の風に秋の気配が混じり始めた頃。
僕たち男子バレーボール部は、春高予選に向けて仕上げの段階に入っていた。
「――ナイスレシーブ!」
体育館に、ボールを弾く快音が響く。
僕は床に滑り込み、一ノ瀬の強烈なスパイクを拾い上げた。
ボールは美しい弧を描いてセッターの三雲の元へ返る。
「日向先輩、今の位置取り、完璧です。昨日の修正データ通り、半歩下がったのが正解でした」
コートサイドから、凛がストップウォッチ片手に声をかける。
彼女の表情は真剣そのものだが、以前のような「悲壮感」や「焦り」は消えていた。僕たちは視線を交わし、小さく頷き合う。言葉にしなくても通じ合う、阿吽の呼吸。
あの日、保健室で交わした「リベロの契約」以来、僕と凛はパートナーとして完全に噛み合っていた。
「……よし、一本休憩!」
キャプテンの号令で、選手たちが散開する。
僕は汗を拭おうとベンチへ向かった。
「悠真! お水!」
ベンチから、ピンク色のジャージを着た**霧島楓**が飛び出してきた。
彼女はいつものように、満面の笑みでスポーツドリンクのボトルとタオルを差し出してくる。
「はい、冷えてるよ! 汗拭いてあげるからじっとしてて!」
楓の手が僕の額に伸びてくる。
いつもの光景だ。彼女にされるがまま、汗を拭いてもらい、飲み物を口に運んでもらう。それが僕たちの「日常」だった。
けれど。
「あ、ごめん楓。……今はいいや」
僕は無意識に、彼女の手を避けてしまった。
「え……?」
楓の手が空を切る。
僕はそれに気づかず、ボトルだけを受け取って一口飲み、すぐに凛の方へ向き直った。
「凛ちゃん、さっきのサーブカットの確率、どうだった?」
「右サイドへの反応が0.1秒遅れています。重心の置き方を修正しましょう。映像を見せます」
悠真と凛が、タブレットを覗き込みながら熱心に話し込み始める。
そこには、他人が入り込む隙間などなかった。
楓は、行き場を失ったタオルを握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。
伸ばした指先が、微かに震えている。
「……あ」
私のタオル、使ってくれなかった。
汗、自分で拭いちゃった。
悠真はもう、私が「お世話」をしなくても、自分で自分のことができるんだ。
当たり前のことだ。彼は高校生で、部活に打ち込むアスリートなのだから。
頭では分かっている。喜ぶべきことだ。悠真が立派になったんだから。
なのに。
(……なんで、こんなに胸が苦しいの?)
楓の胸の奥で、黒い靄(もや)のような感情が渦巻いた。
寂しい。悔しい。
そして、悠真の隣で対等に話している凛の背中が、どうしようもなく羨ましかった。
2
練習後。
部室の前で、私は悠真が出てくるのを待っていた。
空は夕焼けに染まり、校舎の影が長く伸びている。
「……よし」
私は自分の頬をパンパンと叩いた。
暗い顔しちゃダメだ。悠真は頑張ってるんだから、私が支えてあげなきゃ。
今日は久しぶりに、悠真の家に行ってご飯を作ってあげよう。ハンバーグがいいかな。悠真の好きなものをたくさん作って、たくさん甘やかしてあげなきゃ。
そうすれば、また「やっぱり楓がいないとダメだ」って、へにゃっと笑ってくれるはず。
ガチャリ。
更衣室のドアが開き、悠真が出てきた。
制服姿だったが、まだ髪が少し濡れている。その横顔は、昔の――私の後ろに隠れていた頃の悠真とは、別人のように精悍だった。
「お待たせ、悠真!」
私は努めて明るく、彼の腕に抱きついた。
「帰ろっか! 今日ね、ハンバーグの材料買ってきたの! 悠真の家で作ってあげる!」
「あ、ごめん楓。……今日は、残るわ」
「え?」
悠真が申し訳なさそうに手を合わせた。
「凛ちゃんと、来週の対戦相手のビデオ分析することになったんだ。データ室(凛の家)に行くから、遅くなると思う」
「……え、凛ちゃんの家?」
「うん。あそこなら機材が揃ってるし、効率がいいからって」
悠真は、私の腕をそっと解いた。
「だから、今日は先帰ってて。……ごめんな、楓」
ごめんな。
その優しさが、今はナイフみたいに胸に刺さる。
彼は私を「邪魔者」にはしない。けれど、「必要」ともしていない。
ただ、「心配させたくない相手」として、遠ざけようとしている。
「……また、凛ちゃんなの?」
つい、低い声が出た。
抑え込んでいた黒い感情が、口から漏れ出す。
「え?」
「最近、ずっとそうじゃん! 凛ちゃんとデータ、凛ちゃんと分析……。私のこと、放ったらかしで!」
「そ、そうかな? でも今は春高予選前だし、勝つためには――」
「勝たなくていいよ!!」
叫んでしまった。
校舎裏に、私の声が甲高く響く。
悠真が驚いて目を丸くする。
「……楓?」
「……あ」
違う。言いたかったのは、そんなことじゃない。
悠真の努力を否定したいわけじゃない。
ただ、私を見てほしかっただけなのに。
私を「必要だ」と言ってほしかっただけなのに。
「……なんでもない。ごめん」
私は逃げるように背を向け、走り出した。
悠真が「楓!」と呼ぶ声が聞こえたけれど、振り返れなかった。
今、どんなに醜い顔をしているか、自分でも分からなかったから。
3
息を切らして辿り着いたのは、悠真と昔よく遊んだ、高台の公園だった。
眼下には、夕日に染まる錦江湾と、対岸の鹿児島市街地が見える。
私は錆びついたブランコに座り、膝を抱えた。
「……バカ悠真」
ポツリと呟く。
目から、熱いものがこぼれ落ちて止まらない。
分かってる。悠真は悪くない。
彼は前に進んでいるだけだ。トラウマを乗り越えて、自分の足で立とうとしている。それは幼馴染として、一番に喜ぶべきことだ。
なのに、どうして私はこんなに苦しいんだろう。
悠真が弱かったから、私は「守る人」でいられた。
悠真が選べないから、私は「選んであげる人」になれた。
悠真がダメな子でいてくれる限り、私は彼の「特別」でいられた。
私の価値は全部、「悠真が一人では生きられないこと」に依存していたんだ。
「……いらない子になっちゃった」
悠真はもう、ネクタイくらい自分で結べる。
ジュースくらい自分で選べる。
私が守らなくても、凛ちゃんが背中を押してくれる。
雫ちゃんが居場所を作ってくれる。
私に残されたのは、空っぽになった鳥籠だけ。
太陽だなんて呼ばれていたけれど、悠真がいなければ、私はただの燃え尽きた石っころだ。
「……ずるいよ、悠真。置いていかないでよ……」
涙で滲む視界の端、公園の入り口に人影が見えた。
悠真かと思って顔を上げる。
でも、そこに立っていたのは――黒い日傘を閉じた、**神宮司 雫**だった。
4
「……あら。随分と惨めな顔をしているわね、太陽さん」
雫は冷ややかな瞳で私を見下ろしていた。
黒いワンピースが、夕闇に溶け込んでいる。
いつもなら「うるさか!」と言い返すけど、今は声が出ない。図星を突かれたからだ。
「……なんの用け」
「通りがかっただけよ。……泣き声が聞こえたから」
雫はゆっくりと近づき、私の隣のブランコに腰掛けた。
キィ、と錆びた鎖が鳴る。
彼女は海の方を見つめたまま、独り言のように話し始めた。
「……君は、悠真くんが変わっていくのが怖いのよ」
「ッ……」
「彼が強くなればなるほど、君の『おままごと』が終わってしまうから。……『守ってあげる』なんて優しい呪文で、君は彼を縛り付けていただけ。違う?」
残酷な正論。
私の心の奥底にあった、一番認めたくなかった真実。
私は悠真のためじゃなく、自分のために彼を弱くしておきたかったんだ。
「……うるさい。あんたに何が分かるの」
「分かるわよ」
雫の声が、ふっと柔らかくなった。
見ると、彼女は寂しげに目を細めていた。
「……私も同じだから」
え?
私は驚いて顔を上げた。
「彼が光の中へ行けば行くほど、私の『闇』も用済みになる。……私のキャンバスからも、彼ははみ出してしまったわ」
雫は自嘲気味に笑った。
彼女もまた、悠真の「変化」に戸惑い、置いていかれる痛みを感じていたのだ。
でも、彼女は私よりずっと強かった。あるいは、諦めが良かった。
「私たちは、彼が飛び立つための滑走路でしかなかったのかもしれないわね」
「……滑走路?」
「ええ。飛び立ってしまった飛行機は、もう地面には戻らない。……見送るしかないのよ、私たちは」
雫の言葉は冷たかったけれど、不思議と心地よかった。
私と同じ、「置いていかれる側」の匂いがしたから。
一人ぼっちじゃない。この痛みを分かってくれる人が、隣にいる。
「……でも、ウチは嫌だ」
私は涙を拭った。カーディガンの袖が濡れる。
「見送るなんてできない。……悠真は、私の生きがいなんだもん」
「そう。……なら、どうするの?」
雫が試すような目で私を見る。
「鎖で繋ぐ? それとも、翼を折る?」
「……そんなこと、しない」
私は首を振った。
悠真が傷つくのは嫌だ。悠真が悲しむ顔は見たくない。
私が望んでいるのは、「ダメな悠真」じゃない。「笑っている悠真」だ。
たとえその笑顔が、私に向けられたものじゃなくても。
「……そうね。君ならそう言うと思ったわ」
雫は立ち上がり、日傘を開いた。
もう日は沈み、空には一番星が光っている。
「帰りなさい。……彼、きっと探しているわよ」
「え?」
「さっき、血相を変えて走っていくのを見たわ。……君の『飼い主』は、君が思っているほど薄情じゃないみたいね」
雫はそう言い残して、闇の中へ消えていった。
悠真が、探してる?
私を?
私は慌ててスマホを取り出した。
画面には、悠真からの着信履歴とLINEが、数え切れないほど並んでいた。
『ごめん、言いすぎた』
『どこにいるの?』
『今からそっち行く』
……バカだ、私。
悠真は変わったかもしれない。強くなったかもしれない。
でも、悠真は悠真だ。
私が泣いていたら、放っておけない優しい幼馴染のままだ。
私は立ち上がった。
空っぽになった鳥籠の扉は、最初から開いていたのだ。
そこから出るかどうかは、私次第だったんだ。
「……待ってて、悠真」
私は走り出した。
公園の出口へ。彼が待っているはずの場所へ。
もう、「守る」なんて言わない。
これからは、「並んで走る」ために。
九月も半ばを過ぎ、朝夕の風に秋の気配が混じり始めた頃。
僕たち男子バレーボール部は、春高予選に向けて仕上げの段階に入っていた。
「――ナイスレシーブ!」
体育館に、ボールを弾く快音が響く。
僕は床に滑り込み、一ノ瀬の強烈なスパイクを拾い上げた。
ボールは美しい弧を描いてセッターの三雲の元へ返る。
「日向先輩、今の位置取り、完璧です。昨日の修正データ通り、半歩下がったのが正解でした」
コートサイドから、凛がストップウォッチ片手に声をかける。
彼女の表情は真剣そのものだが、以前のような「悲壮感」や「焦り」は消えていた。僕たちは視線を交わし、小さく頷き合う。言葉にしなくても通じ合う、阿吽の呼吸。
あの日、保健室で交わした「リベロの契約」以来、僕と凛はパートナーとして完全に噛み合っていた。
「……よし、一本休憩!」
キャプテンの号令で、選手たちが散開する。
僕は汗を拭おうとベンチへ向かった。
「悠真! お水!」
ベンチから、ピンク色のジャージを着た**霧島楓**が飛び出してきた。
彼女はいつものように、満面の笑みでスポーツドリンクのボトルとタオルを差し出してくる。
「はい、冷えてるよ! 汗拭いてあげるからじっとしてて!」
楓の手が僕の額に伸びてくる。
いつもの光景だ。彼女にされるがまま、汗を拭いてもらい、飲み物を口に運んでもらう。それが僕たちの「日常」だった。
けれど。
「あ、ごめん楓。……今はいいや」
僕は無意識に、彼女の手を避けてしまった。
「え……?」
楓の手が空を切る。
僕はそれに気づかず、ボトルだけを受け取って一口飲み、すぐに凛の方へ向き直った。
「凛ちゃん、さっきのサーブカットの確率、どうだった?」
「右サイドへの反応が0.1秒遅れています。重心の置き方を修正しましょう。映像を見せます」
悠真と凛が、タブレットを覗き込みながら熱心に話し込み始める。
そこには、他人が入り込む隙間などなかった。
楓は、行き場を失ったタオルを握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。
伸ばした指先が、微かに震えている。
「……あ」
私のタオル、使ってくれなかった。
汗、自分で拭いちゃった。
悠真はもう、私が「お世話」をしなくても、自分で自分のことができるんだ。
当たり前のことだ。彼は高校生で、部活に打ち込むアスリートなのだから。
頭では分かっている。喜ぶべきことだ。悠真が立派になったんだから。
なのに。
(……なんで、こんなに胸が苦しいの?)
楓の胸の奥で、黒い靄(もや)のような感情が渦巻いた。
寂しい。悔しい。
そして、悠真の隣で対等に話している凛の背中が、どうしようもなく羨ましかった。
2
練習後。
部室の前で、私は悠真が出てくるのを待っていた。
空は夕焼けに染まり、校舎の影が長く伸びている。
「……よし」
私は自分の頬をパンパンと叩いた。
暗い顔しちゃダメだ。悠真は頑張ってるんだから、私が支えてあげなきゃ。
今日は久しぶりに、悠真の家に行ってご飯を作ってあげよう。ハンバーグがいいかな。悠真の好きなものをたくさん作って、たくさん甘やかしてあげなきゃ。
そうすれば、また「やっぱり楓がいないとダメだ」って、へにゃっと笑ってくれるはず。
ガチャリ。
更衣室のドアが開き、悠真が出てきた。
制服姿だったが、まだ髪が少し濡れている。その横顔は、昔の――私の後ろに隠れていた頃の悠真とは、別人のように精悍だった。
「お待たせ、悠真!」
私は努めて明るく、彼の腕に抱きついた。
「帰ろっか! 今日ね、ハンバーグの材料買ってきたの! 悠真の家で作ってあげる!」
「あ、ごめん楓。……今日は、残るわ」
「え?」
悠真が申し訳なさそうに手を合わせた。
「凛ちゃんと、来週の対戦相手のビデオ分析することになったんだ。データ室(凛の家)に行くから、遅くなると思う」
「……え、凛ちゃんの家?」
「うん。あそこなら機材が揃ってるし、効率がいいからって」
悠真は、私の腕をそっと解いた。
「だから、今日は先帰ってて。……ごめんな、楓」
ごめんな。
その優しさが、今はナイフみたいに胸に刺さる。
彼は私を「邪魔者」にはしない。けれど、「必要」ともしていない。
ただ、「心配させたくない相手」として、遠ざけようとしている。
「……また、凛ちゃんなの?」
つい、低い声が出た。
抑え込んでいた黒い感情が、口から漏れ出す。
「え?」
「最近、ずっとそうじゃん! 凛ちゃんとデータ、凛ちゃんと分析……。私のこと、放ったらかしで!」
「そ、そうかな? でも今は春高予選前だし、勝つためには――」
「勝たなくていいよ!!」
叫んでしまった。
校舎裏に、私の声が甲高く響く。
悠真が驚いて目を丸くする。
「……楓?」
「……あ」
違う。言いたかったのは、そんなことじゃない。
悠真の努力を否定したいわけじゃない。
ただ、私を見てほしかっただけなのに。
私を「必要だ」と言ってほしかっただけなのに。
「……なんでもない。ごめん」
私は逃げるように背を向け、走り出した。
悠真が「楓!」と呼ぶ声が聞こえたけれど、振り返れなかった。
今、どんなに醜い顔をしているか、自分でも分からなかったから。
3
息を切らして辿り着いたのは、悠真と昔よく遊んだ、高台の公園だった。
眼下には、夕日に染まる錦江湾と、対岸の鹿児島市街地が見える。
私は錆びついたブランコに座り、膝を抱えた。
「……バカ悠真」
ポツリと呟く。
目から、熱いものがこぼれ落ちて止まらない。
分かってる。悠真は悪くない。
彼は前に進んでいるだけだ。トラウマを乗り越えて、自分の足で立とうとしている。それは幼馴染として、一番に喜ぶべきことだ。
なのに、どうして私はこんなに苦しいんだろう。
悠真が弱かったから、私は「守る人」でいられた。
悠真が選べないから、私は「選んであげる人」になれた。
悠真がダメな子でいてくれる限り、私は彼の「特別」でいられた。
私の価値は全部、「悠真が一人では生きられないこと」に依存していたんだ。
「……いらない子になっちゃった」
悠真はもう、ネクタイくらい自分で結べる。
ジュースくらい自分で選べる。
私が守らなくても、凛ちゃんが背中を押してくれる。
雫ちゃんが居場所を作ってくれる。
私に残されたのは、空っぽになった鳥籠だけ。
太陽だなんて呼ばれていたけれど、悠真がいなければ、私はただの燃え尽きた石っころだ。
「……ずるいよ、悠真。置いていかないでよ……」
涙で滲む視界の端、公園の入り口に人影が見えた。
悠真かと思って顔を上げる。
でも、そこに立っていたのは――黒い日傘を閉じた、**神宮司 雫**だった。
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「……あら。随分と惨めな顔をしているわね、太陽さん」
雫は冷ややかな瞳で私を見下ろしていた。
黒いワンピースが、夕闇に溶け込んでいる。
いつもなら「うるさか!」と言い返すけど、今は声が出ない。図星を突かれたからだ。
「……なんの用け」
「通りがかっただけよ。……泣き声が聞こえたから」
雫はゆっくりと近づき、私の隣のブランコに腰掛けた。
キィ、と錆びた鎖が鳴る。
彼女は海の方を見つめたまま、独り言のように話し始めた。
「……君は、悠真くんが変わっていくのが怖いのよ」
「ッ……」
「彼が強くなればなるほど、君の『おままごと』が終わってしまうから。……『守ってあげる』なんて優しい呪文で、君は彼を縛り付けていただけ。違う?」
残酷な正論。
私の心の奥底にあった、一番認めたくなかった真実。
私は悠真のためじゃなく、自分のために彼を弱くしておきたかったんだ。
「……うるさい。あんたに何が分かるの」
「分かるわよ」
雫の声が、ふっと柔らかくなった。
見ると、彼女は寂しげに目を細めていた。
「……私も同じだから」
え?
私は驚いて顔を上げた。
「彼が光の中へ行けば行くほど、私の『闇』も用済みになる。……私のキャンバスからも、彼ははみ出してしまったわ」
雫は自嘲気味に笑った。
彼女もまた、悠真の「変化」に戸惑い、置いていかれる痛みを感じていたのだ。
でも、彼女は私よりずっと強かった。あるいは、諦めが良かった。
「私たちは、彼が飛び立つための滑走路でしかなかったのかもしれないわね」
「……滑走路?」
「ええ。飛び立ってしまった飛行機は、もう地面には戻らない。……見送るしかないのよ、私たちは」
雫の言葉は冷たかったけれど、不思議と心地よかった。
私と同じ、「置いていかれる側」の匂いがしたから。
一人ぼっちじゃない。この痛みを分かってくれる人が、隣にいる。
「……でも、ウチは嫌だ」
私は涙を拭った。カーディガンの袖が濡れる。
「見送るなんてできない。……悠真は、私の生きがいなんだもん」
「そう。……なら、どうするの?」
雫が試すような目で私を見る。
「鎖で繋ぐ? それとも、翼を折る?」
「……そんなこと、しない」
私は首を振った。
悠真が傷つくのは嫌だ。悠真が悲しむ顔は見たくない。
私が望んでいるのは、「ダメな悠真」じゃない。「笑っている悠真」だ。
たとえその笑顔が、私に向けられたものじゃなくても。
「……そうね。君ならそう言うと思ったわ」
雫は立ち上がり、日傘を開いた。
もう日は沈み、空には一番星が光っている。
「帰りなさい。……彼、きっと探しているわよ」
「え?」
「さっき、血相を変えて走っていくのを見たわ。……君の『飼い主』は、君が思っているほど薄情じゃないみたいね」
雫はそう言い残して、闇の中へ消えていった。
悠真が、探してる?
私を?
私は慌ててスマホを取り出した。
画面には、悠真からの着信履歴とLINEが、数え切れないほど並んでいた。
『ごめん、言いすぎた』
『どこにいるの?』
『今からそっち行く』
……バカだ、私。
悠真は変わったかもしれない。強くなったかもしれない。
でも、悠真は悠真だ。
私が泣いていたら、放っておけない優しい幼馴染のままだ。
私は立ち上がった。
空っぽになった鳥籠の扉は、最初から開いていたのだ。
そこから出るかどうかは、私次第だったんだ。
「……待ってて、悠真」
私は走り出した。
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