いつか世界が眠るまで

紫煙

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一章

#5 ある心優しい少女の物語5

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◆◇◆◇◆◇◆




「ふむ。いや、すまなんだ。またも泣かせる事になろうとは......。同じ轍を踏むとは良く言ったものよな」


 用意していたティーカップを煽りつつ、しかし少し申し訳なさそうに笑う主神を前に、きっと真っ赤になっているのであろう自身の目と顔を伏せて、マリーは何とも言えない気持ちになる。このやり取りは何度目になるのであろうか。


 ......生きていたかった。


 それが、如何に耐え難い苦痛と共にある人生であろうと、決して偽らざる本心なのだろう。と、今更ながらに実感し虚無感と喪失感に襲われる。

 もう二度とあの家には戻れない。その現実がじっとりとマリーの心を鷲掴みにして離さない。

 もう少しだけ、あの優しくて温かい母の腕の中で慈愛を感じ泣き晴らしても良かったのかもしれない。
 もう少しだけ、優しくも朗らかな父に甘え我儘を言って困らせても良かったのかもしれない。
 もう少しだけ、邸の皆と話をして自身の本心を晒しても良かったのかもしれない。

 二度と戻る事の叶わぬ幸せな場所に思いを馳せ、後悔の元に親不孝な身の上をかえりみる。
 そうすると、何処までも蒼い空を仰ぎ見ていた顔は自然と俯き、再び目頭が熱くなってゆくのを感じ力一杯に瞼を強く瞑るのであった。


「......色々思うところがあるようじゃの。そこでじゃ、お主に提案と渡したい物があるのだが受け取ってはくれんかの?」


 慌てて俯いていた顔を上げ、マリーが返答するよりも早く主神の背には豪華な装飾の施された、今まで見た事もない程に大きな書物が唯一無二の存在感を放ち静かに浮かんでいた。


「あ、あの......、そちらの美しく大きな書物は一体?」

「うむ。先ずはお主に渡したい......いや、託したいものを見せようかと思っての。この書物には特に名という名は付けておらぬ。しかして、とても大事な替えの効かぬものでもある。これを《名も無き英霊達の書》とでも名付けようかの」


 未だ神々しく浮かび言い様のない存在感を放つその書物。マリーは瞬きをする事も忘れ、固唾を呑んで見守る事しか出来なかった。


「この書物にはな、お主にも負けず劣らずの悲壮で凄惨な人生を歩みし者達、残酷な運命に命を掛けて立ち向かいし者達、偉業を為し遂げた英雄や勇者とも謳われるそれら全ての者達の生涯が魂と共に記されておるのだ」

「それは......。そんな大切な物は受け取る訳には参りません。私如きにはとてもではありませんが余りに身に余るというものです。しかし、世界にはそれ程に悲しみが溢れておられるのですか?」

「誠に遺憾ながらな。しかし、こればかりは儂にもどうすることも出来んのだ。神の総代であるこの儂が、一人の命にこの手を差し伸べ救ったものならば残り全ての命をも救わなければならなくなる。そうなれば、儂はこの世を己の私情で変革する傲慢な存在へと成り果てよう。それは儂の本意ではないのだ」


 しかし余りにも多すぎる。と、悲しみに満ちた何処かもどかしげな顔を少しだけ俯かせ、マリーの至らぬ様な思いもよらない事を考えているのだろう。

 マリーは口を挟む事をせずにただ黙して主神の言葉を待つことにする。


「確かに、あの世界は儂が他の神々に呼び掛け共により良い世界を創る為に様々なものを産み育ててきた場所じゃ。しかし、世界は既に儂らの手を離れ独自に各々の道を歩む力を持っておる。儂らが手を加えずとも産まれ、育ち、歴史を積み重ねてゆく。其処に、今一度儂ら神々が手を加えようものならばあの世界は間違いなく全ての命が消え失せる事になろう」

「それは......」

「最早それしか手段がないと言うのであればそれもまた致し方なし。と、今の今まで儂は世界を静観し覚悟を決めておったのだが......」


 そこで優しく微笑みを浮かべながらもしっかりと、主神はマリーの瞳を見据えてきた。


「お主が生まれ、この場所へと到る程の存在となった。なれば、お主に一縷の望みを託してみようと思うのは必然というものよな。どうじゃ、この不甲斐ない儂の頼みを聞いてみてはくれまいか?」

「あ、あの......主神様。それは一体どの様な事なのか御伺いしても宜しいでしょうか。私に出来る事ならば、この身の全てを以て事に当たる所存にございます」


 マリーは直感的に主神様の言う処の企みというものに内容を聞く前から、既にきっと受け入れるのだろうという予感を胸に少しだけ強張った身体を律して次の言葉を待つのであった。


「なに、今一度地上に降り立ちお主が生前憧れた世界を周り、様々な迷える魂達の救済をして欲しいのじゃ。勿論、この儂が色々と融通をしよう。どうじゃ、やってみてはくれんかの?」


 主神は嬉しそうに口角を上げ悪巧みをする少年の様な顔をする。ついでと言わんばかりに、少しだけ小首を傾げ片方の目を軽くぱちりと閉じて目の前に座るマリーに語り掛ける。

 主神自らの考える未来図と、とても長い間考え抜いた案件を遂に託せるという思い。そして、今まで苦痛と不自由に耐え続けたマリーがこれから歩むであろう日々を思うと自然と笑みが零れてくる。



 そして、いよいよ世界が動き出す。



 清く真っ直ぐな心を持つ小さな少女と、運命に翻弄ほんろうされる人々と、救われるべき魂達と、死しても尚己を貫く強き魂達と共に......。




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