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第4章 木曜日
木曜日
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目が覚めると、予感していた通り、隣の布団はもぬけの殻だった。俺は彼が寝ていた場所に這い寄り、わずかに残る彼の香りを探していた。昨夜、指先が触れたあの密やかな固さの感触が、脳裏にこびりついて離れない。
今日は午後から休みを取り、彼の実家と新居の片付けを手伝うことになっている。
市場に出向くと、相変わらずの怒号と潮騒が渦巻いていた。今日こそは、自分の力で彼を見つけ出そうと目を凝らし、耳を澄ます。だが、俺の眼はもう、濁ってしまったのだろうか。いくら探しても、彼は周囲の景色に埋没して、どうしても見つけられない。
彼の母親に午後の段取りを確認しながら、俺は市場の隅に立つ「新しい娘」――あの声の出ない女性の視線を追った。
……いた。
彼女のまっすぐな視線の先に、いつものように元気に立ち働く彼の姿があった。彼女の瞳を介してようやく彼を見つけられたことに、言いようのない敗北感と悔しさが込み上げる。俺は逃げるように、事務所へ続く階段を駆け上がった。
競りが終わると、彼がすぐに迎えに来た。
彼の家族が所有する三台の車に、積み込めるだけの荷物を押し込む。彼と、その両親、あの娘、そして俺の五人で、新居の掃除と整理を開始した。婚約者が車でこちらへ向かっているという。
彼に初めて彼女ができたと聞いたときは、正直信じられなかった。きっと、すぐに振られるだろうと高を括っていた。だが、いざ結婚が決まったときは、心の底から祝福できた。紹介された彼女は本当に素敵な女性で、俺は親友としてその幸せを噛み締めていたのだ。
月曜日、1人海岸で歌っていた時込み上げた感情。自分の本当の気持ちを知るまでは、彼の結婚は俺にとっても純粋な喜びでしかなかった。
なのに、今はどうだ。この胸の内にある、言葉にできない重苦しい感情は何だ。
俺は彼を親友としてだけではなく、体温を持ち、筋肉が躍動し、汗を流す一人の肉体として、一人の男として見てしまっている。心と身体の双方が彼を欲していることを自覚しながら、俺は必死に「いつもの幼馴染」を演じ続けた。
やがて、婚約者の車が到着した。
挨拶を済ませ、例の娘を紹介する。彼の両親も、婚約者も、突然現れた身寄りのない彼女を温かく迎え入れていた。
そのとき、俺は見てしまった。彼が婚約者を見つめる、今までに見たこともないような慈しみに満ちた優しい顔を。
そんな目で、俺を見つめてくれたことなど一度もない。当たり前だ。彼は真っ当な男で、俺はただの親友なのだから。彼は、心の底から幸せそうだった。
だが、その光景を前に、俺ともう一人、あの娘の澄んだ瞳が急速に曇っていくのが分かった。そうだ、彼女だって、言葉を失ってまで彼に会いに来たのかもしれないのだ。
片付けが一段落した頃、注文していた仕出し弁当が届いた。
新居での初めての食事。漁師の夜は早い。早々に食事を済ませると、酒を飲んで寝たがっている父親と母親、そしてあの娘が先に引き上げていった。
「俺、婚約者を送った後、またお前の部屋で先に寝てるからな」
彼は当然のようにそう決めていた。なんだそりゃ、と笑って誤魔化したが、心臓が痛い。
俺はわざと街を徘徊して時間を潰し、夜遅くにアパートへ戻った。
部屋には案の定、熟睡する彼の姿があった。ありがたいと思った。今の俺は、いくら鈍感な彼であっても見抜かれてしまうほど、平静ではいられなかったから。
彼はいつもと同じように、Tシャツとパンツ姿で布団に転がっている。
寝れるわけがない。今日こそ、絶対に彼には触れない。そう誓い、俺は彼が脱ぎ捨てたTシャツとパンツに顔を埋めた。暗闇の中で、彼の寝顔を食い入るように見つめる。
だが、布地から微かに聞こえる呼吸音、彼の生きている音がする。俺の心が、身体が彼を求めているのを止められなかった。人差し指に残る、あの固い感触がフラッシュバックする。
自己嫌悪。やはり、眠れそうにない。昨夜遅くに確認したはずの、あの小さな膨らみは、今はもう影も形もなかった。
俺は一体、何を求めているんだ。馬鹿な自分に呆れ果て、視線を泳がせた。
ふと、枕元のゴミ箱が目に入った。
そこには、何枚も重ねられてから折り畳まれたティッシュが、捨てられていた。
俺はこんな捨て方をしない。そして、大雑把な彼が、こんな風にティッシュを処理する姿も見たことがない。
その謎めいた物体に、異様な興奮が突き上げた。
恐る恐るそれを手に取り、中を確かめる。そこには、彼が確かに、ここに生きている証があった。
鼻を突く、生身の男特有の濃厚な香りが、俺自身の汚れた白い涙を容赦なく誘う。
自分の身体から溢れ出た情動を処理した後、寝る間際になって、俺の眼からは本物の涙が溢れて止まらなくなった。
今日は午後から休みを取り、彼の実家と新居の片付けを手伝うことになっている。
市場に出向くと、相変わらずの怒号と潮騒が渦巻いていた。今日こそは、自分の力で彼を見つけ出そうと目を凝らし、耳を澄ます。だが、俺の眼はもう、濁ってしまったのだろうか。いくら探しても、彼は周囲の景色に埋没して、どうしても見つけられない。
彼の母親に午後の段取りを確認しながら、俺は市場の隅に立つ「新しい娘」――あの声の出ない女性の視線を追った。
……いた。
彼女のまっすぐな視線の先に、いつものように元気に立ち働く彼の姿があった。彼女の瞳を介してようやく彼を見つけられたことに、言いようのない敗北感と悔しさが込み上げる。俺は逃げるように、事務所へ続く階段を駆け上がった。
競りが終わると、彼がすぐに迎えに来た。
彼の家族が所有する三台の車に、積み込めるだけの荷物を押し込む。彼と、その両親、あの娘、そして俺の五人で、新居の掃除と整理を開始した。婚約者が車でこちらへ向かっているという。
彼に初めて彼女ができたと聞いたときは、正直信じられなかった。きっと、すぐに振られるだろうと高を括っていた。だが、いざ結婚が決まったときは、心の底から祝福できた。紹介された彼女は本当に素敵な女性で、俺は親友としてその幸せを噛み締めていたのだ。
月曜日、1人海岸で歌っていた時込み上げた感情。自分の本当の気持ちを知るまでは、彼の結婚は俺にとっても純粋な喜びでしかなかった。
なのに、今はどうだ。この胸の内にある、言葉にできない重苦しい感情は何だ。
俺は彼を親友としてだけではなく、体温を持ち、筋肉が躍動し、汗を流す一人の肉体として、一人の男として見てしまっている。心と身体の双方が彼を欲していることを自覚しながら、俺は必死に「いつもの幼馴染」を演じ続けた。
やがて、婚約者の車が到着した。
挨拶を済ませ、例の娘を紹介する。彼の両親も、婚約者も、突然現れた身寄りのない彼女を温かく迎え入れていた。
そのとき、俺は見てしまった。彼が婚約者を見つめる、今までに見たこともないような慈しみに満ちた優しい顔を。
そんな目で、俺を見つめてくれたことなど一度もない。当たり前だ。彼は真っ当な男で、俺はただの親友なのだから。彼は、心の底から幸せそうだった。
だが、その光景を前に、俺ともう一人、あの娘の澄んだ瞳が急速に曇っていくのが分かった。そうだ、彼女だって、言葉を失ってまで彼に会いに来たのかもしれないのだ。
片付けが一段落した頃、注文していた仕出し弁当が届いた。
新居での初めての食事。漁師の夜は早い。早々に食事を済ませると、酒を飲んで寝たがっている父親と母親、そしてあの娘が先に引き上げていった。
「俺、婚約者を送った後、またお前の部屋で先に寝てるからな」
彼は当然のようにそう決めていた。なんだそりゃ、と笑って誤魔化したが、心臓が痛い。
俺はわざと街を徘徊して時間を潰し、夜遅くにアパートへ戻った。
部屋には案の定、熟睡する彼の姿があった。ありがたいと思った。今の俺は、いくら鈍感な彼であっても見抜かれてしまうほど、平静ではいられなかったから。
彼はいつもと同じように、Tシャツとパンツ姿で布団に転がっている。
寝れるわけがない。今日こそ、絶対に彼には触れない。そう誓い、俺は彼が脱ぎ捨てたTシャツとパンツに顔を埋めた。暗闇の中で、彼の寝顔を食い入るように見つめる。
だが、布地から微かに聞こえる呼吸音、彼の生きている音がする。俺の心が、身体が彼を求めているのを止められなかった。人差し指に残る、あの固い感触がフラッシュバックする。
自己嫌悪。やはり、眠れそうにない。昨夜遅くに確認したはずの、あの小さな膨らみは、今はもう影も形もなかった。
俺は一体、何を求めているんだ。馬鹿な自分に呆れ果て、視線を泳がせた。
ふと、枕元のゴミ箱が目に入った。
そこには、何枚も重ねられてから折り畳まれたティッシュが、捨てられていた。
俺はこんな捨て方をしない。そして、大雑把な彼が、こんな風にティッシュを処理する姿も見たことがない。
その謎めいた物体に、異様な興奮が突き上げた。
恐る恐るそれを手に取り、中を確かめる。そこには、彼が確かに、ここに生きている証があった。
鼻を突く、生身の男特有の濃厚な香りが、俺自身の汚れた白い涙を容赦なく誘う。
自分の身体から溢れ出た情動を処理した後、寝る間際になって、俺の眼からは本物の涙が溢れて止まらなくなった。
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