漁港 第1巻 人魚姫

努利沈思男

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第3章 水曜日

水曜日

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朝、畳んで鞄に詰め込んだ彼の服を抱え、俺はいつも通り魚市場の事務所へと出勤した。
早朝の市場は、競りの準備に追われる男たちの怒号と、運び込まれる魚介の跳ねる音で騒がしい。だが、何かが決定的に違っていた。
おかしい。今日も、彼の姿が見つからない。
これまでは、どんなに人が多くても、どれほど喧騒が激しくても、俺は群衆の中に紛れる彼の背中を瞬時に見つけ出すことができた。それなのに、二日連続で彼の居場所が分からない。視線を巡らせても、彼特有の小柄でがっしりとした輪郭が、風景の中に溶け込んでしまっている。
俺は市場の真ん中で立ち止まり、必死に彼の姿を探した。彼の野太い声を、聞き慣れた笑い声を。何も変わらないはずの市場の中で、俺だけが彼を見失っていた。
「あら、おはよう。早いのね」
声をかけてきたのは、彼の母親だった。この狭い町で、彼と父親は漁師として海に出、母親もまたこの市場で長年働いている。
彼女は、まるで新しい娘ができたかのように顔を綻ばせ、昨日からの出来事を話し始めた。あの声の出ない女性を一人で家に置いておくわけにもいかず、自分の若い頃の服を着せて市場に連れてきているのだという。
ふと見ると、例の彼女が楽しそうに市場の中を歩いていた。母親たちと談笑しながらも、俺の視線は無意識に彼女の瞳を追う。彼女のまっすぐな視線の先には、やはり彼がいるのだと、その瞳の輝きだけで理解できた。
それなのに、俺にはやはり彼が見えない。今まで、誰よりも先に彼を見つけられていたはずの俺が。
会話を早々に切り上げ、俺は逃げるように事務所に上がった。
頭の中が白く濁り、何も考えられないまま、淡々と伝票を処理する。
競りが終わる頃、彼がひょっこりと事務所に現れた。俺は預かっていた服の入った鞄を渡し、昨日の様子を聞く。だが、話の内容など、もはやどうでもよくなっていた。
彼の指は、こんなに太かっただろうか。言葉を発する彼の唇はこんなに厚かったか。
毎日見ているはずの彼のパーツ一つ一つが迫ってくる。俺は今、彼を肉体として見ている。
彼は、母親の仕事が終わるまで町を案内するのだと言って、鞄を抱えて出ていった。漁師である彼の仕事が一番早く終わり、次に市場で働く母親、そして最後に事務職の俺。その時間差が、今は酷くもどかしい。
午後の仕事が終わりに近づいた頃、彼から電話が入った。
「悪い、今夜も泊めてくれ。日曜日には式だってのに、知らない女を家に泊めてるのがバレたら外聞が悪いって、母ちゃんに追い出されちまってさ」
新居に泊まればいいじゃないかと言う俺に、彼は「港と逆方向だし、明日婚約者の荷物が届いてからにしたいんだ」と、要領を得ない理由を並べた。そして、「先に部屋で寝てるから」と一方的に告げて電話を切った。
彼が泊まりに来るのは、昔からのことだ。合鍵だって渡してある。
なのに、なぜかすぐに部屋へ戻る気になれなかった。わざと遠回りをして、ゆっくりと夕食を済ませ、夜が深まってからアパートの扉を開けた。
室内には、彼が熟睡している静かな寝息が満ちていた。
起こさないよう、明かりをつけずに忍び込む。月明かりに照らされた彼の寝顔は、起きている時の豪胆さとは裏腹に、驚くほど無防備で可愛い。
一昨日の夜、海岸でこの唇に触れた感触が、唇の裏側の粘膜まで蘇る。
Tシャツとパンツ一枚で布団を蹴飛ばしている彼の身体を、俺は食い入るように眺めた。太くなった腕、盛り上がった大きな胸筋、そして逞しく発達した両脚。
だが、その太腿の間にあるはずの膨らみは無い。
今の俺は、彼をただの友人ではなく、欲望の対象――剥き出しの肉体として見つめている。風呂場で見たあの大人の身体と、相反するような彼の一部を思い出し、脳が痺れる。眠れるはずがなかった。
俺は、彼が脱ぎ捨てたTシャツとパンツを洗濯機に運ぼうとした。その瞬間、彼の匂いが鼻を突いた。
海で濡れた服とも、昨日抱きしめた乾いた服とも違う、生々しい「個」の匂い。彼は今、間違いなくここで生きている。Tシャツからは潮の香りと混じり合った男の汗の臭いがし、下着からは、大人になりきれない男特有の、独得の匂いを感じとった。
熟睡している彼のすぐ横で、俺は自分の汚れた欲望を、音を立てずに絞り出した。
果てた後も、俺は彼の身体を眺め続けた。
すると、さっきまで平坦だったはずの彼の股間に、先ほどまでは無かった小さな膨らみが、確かに形作られていた。
絶対に触れない。そう心に決めていたのに。
布団から覗く、小さな膨らみが、俺の理性を静かに削り取っていく。
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