バラバラ女

ノコギリマン

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6:失恋大樹とたそがれ坂

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「ねえ、誰か知ってる人の名前、あったの?」
「う、うん。あ、ううん、勘違いだったみたい」
「なんだ……つまんないな」
「や、やっぱり言ったとおりでしょ」
「でも今から誰かがここに来て、名前を書くかもよ」
「そんなの、分からないじゃん」
「だからさ、アッチに隠れて見張るってどう?」

 奈緒子が生け垣の穴を指して言う。

「え?」
「だから——」
「い、言ってることは分かるけど、それ本気?」
「うん。どうせヒマでしょ?」
「そういうことじゃなくて」
「いいからいいから」

 慎吾の言葉を聞き流して四つん這いで穴を抜けはじめた奈緒子は、めくれたスカートからチラリと見える白い太ももを気にもかけなかった。

 目のやり場に困りながら、慎吾は穴を越えるのをためらった。

「どうしたの? 早く来て。誰か来ちゃうよ」
「来るわけないじゃん……」

 小さくつぶやいて穴を抜けた慎吾は、奈緒子のとなりにしゃがみこんだ。

「でもホント、誰も来ないと思うよ」
「わかんないじゃん。誰かひとりくらいフラれてるでしょ、さすがに」
「さすがにって……」
「あ、ほら誰か来たよ」
「あ、うん」

 失恋大樹へ近づいてくる人影を気もそぞろに見つめながら、慎吾は〈瀬戸正次〉の文字に考えを巡らせた。

 いつ、誰が、なんで、〈瀬戸正次〉と書いたのだろう?

 この『失恋大樹』に名前を書き込むのには、ふたとおりの理由がある。「フッたアイツのことが憎いから、名前を書いてやれ」と、「好きな人の好きなアイツが憎いから、名前を書いてやれ」だ。つまり、書いてあるのが男の名前だからといって書いたのが女とは限らないし、その逆もまた然り。結果として容疑者の数は格段に増し、だからこそ罪悪感が薄まって、みんな軽い気持ちで憎い相手の名前を書き込めるのだ。人間は「バレなければ大丈夫」という悪魔の声にしばしば耳を傾けてしまう弱い生き物で、それをよく理解して作られたウマイ都市伝説なんだな、と今さらながらに思う。

「――ほらあれ、ワチコちゃんじゃない?」

 奈緒子の言葉で我に返った慎吾は、失恋大樹の文字をつぶさに見ていく謎の人物を生垣越しに見た。赤いランドセルにショートヘアをなびかせる、薄桃色のTシャツに黄色い短パン姿の、小汚いシューズを履いた少女。その右ふくらはぎについた小さなL字型の古傷に見覚えがあった。

「ワチコだ」

 声に気づいたのかとつぜん振り向いたのは、たしかにクラス一の変わり者だった。

「誰かいるのか?」

 辺りを見渡したワチコが、鼻を鳴らしてまた失恋大樹に視線を戻す。

「なにしてんだろ?」
「さあ。ワチコちゃん、フられたのかもよ」
「なんで、ちょっと嬉しそうなのさ」
「誰かの名前を書き込むのを、見られるかもしれないじゃん」
「なに……言ってるんだよ。もしそうなら、ぼくはワチコを止めるよ」
「いいから、黙ってて」
「なんだよ、それ」

 奈緒子の命令に逆らえないふがいなさにヤキモキしながらワチコを観察すると、どうやら誰かの名前を書き込むつもりはなく、その道具すら持っていないようだった。

 しばらく失恋大樹を見ていたワチコは、飽きたのか古傷を二度かいてからさっさと神社を出て行った。

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