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18:ゆとり特区
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カーチェイスから一時間が過ぎようとしているが、窓の外には未だ、雲が作り出す薄墨色と、荒野の赤色のほかに色がない。
とりあえずの応急処置をしたトキオはあれからずっと無言のままだ。憔悴しているのだろう、顔面が幽鬼のように青ざめている。そのとなりのアリスも、依然として口を真一文字にかたく引き結んでなにも話そうとせず、たまに思い出したようにして、笑い袋を笑わせている。
感情を伴わない笑い声というものが、これほどまで苛立ちに拍車をかけるものだとは思わなかった。それだけならまだしも、お喋りのマクブライトですらも押し黙っているせいで、車内は信じられないくらいの気まずさに包みこまれている。
こういう時、なにか気でも紛れるようなことが言えればいいのだろうが、あいにくとハナコにはそういった機知が絶望的に足らなかった。
もう何度もした、いくつかある仕事中のマヌケな失敗談でも話そうかと逡巡していると、
「すいません、おれのせいで……」
と、項垂れていたトキオが顔を上げて、力なく言った。
「まあ、おれたちの仕事には、こういうトラブルはつきものだ。そんなことより、ケガのほうはどうだ?」
マクブライトに言おうとしていたことを二つとも言われてしまったハナコは、無言のままうしろを振り返り、目を合わせながら小さくうなずいてみせた。トキオは、赤く染まる包帯ごしに傷口のあたりをそっと撫でて、ハナコにうなずき返してきた。
「思ったよりも深い傷ではなかったから、この痛みにさえ慣れれば大丈夫ですよ。それにまあ、傷口はいちおう止めましたからね」
言って、ホッチキスで傷口を留めるジェスチャーをしたトキオが、明らかに空元気ではあるが、ようやく笑顔を見せた。
「まあ、アイツのことはもういい。あんたとのあいだに何があったかも、べつに訊きたくないしな。残念だけど、不幸話は間に合ってる」
「……ええ、そうですね。もう過去のことです」
トキオがなんとか大丈夫そうだと分かりホッとしたが、よく考えるまでもなく、最短ルートを逸れてしまった事実は覆らない。
「で、どうするんだ?」
気を取り直して、マクブライトに訊くハナコ。
「そうだな、この〈ゆとり特区〉にはいくつもの小さなコミュニティーがあるから、今日はそのうちのひとつにでも泊めてもらおう」
「そんなことができるの?」
「ああ、お前もテレビで耳にタコができるほど聴いているだろうが、この地区にはもともと、かつての隣国〈リオ・ロホ〉から大勢の難民が流れてきていてな。事後処理として、政府はここを〈ゆとり特区〉なんてバカげたものにしちまったが、はっきり言って完全には、ここに散らばるコミュニティーの数を把握しきれちゃいない」
「かなり杜撰な対応ですね。知らなかった」
トキオが言う。
「そんなことじゃあ、〈ゆとり特区〉は反乱軍にとって、おあつらえむきの隠れ家になってしまったりしないんですか?」
「まあ、その側面もあるが、もともと流浪民だった連中と〈移住希望申請〉が運良くとおった奴らには、ひとつの大きな相違点があってな。その有無で政府の巡回部隊が対象者を『管理下にある者か否か』って判断しているっつう寸法さ。その対応をするようになって二十年ちかく経つが、そのお陰で〈異分子組〉のほとんどは駆逐されつつあるらしい。後発の〈申請組〉のタレコミなんかも、今じゃあだいぶ上手く機能しているようだからな。それで〈申請組〉の通報によって発見されたコミュニティーにも、もちろん政府の巡回部隊が出向く。そして〈帰化〉か〈連行〉かのどちらかを選ばされるんだ。〈連行〉なら、この〈ゆとり特区〉のどこかにあるという〈強制収容施設〉に収監されるが、〈帰化〉を選択すれば〈申請組〉と同じく、毎月のノルマの農作物や工芸品を収めることを義務づけられて、一応なんのお咎めも無しってかたちになるんだ。だから、ここには今、〈異分子組〉と〈帰化組〉、それに〈申請組〉の三種類のコミュニティーがあることになる」
「つまり〈申請組〉ってのは、実質的に政府のスパイとしてここに送られてくるようなもんなの?」
「ようなもん、じゃなくて、まさにそのために移住者を募っているのさ」
「おおきな相違点ってのはなんなんだよ?」
「簡単に言うと、〈申請組〉と〈帰化組〉は政府軍に監視されているんだ。知らないだろうから教えといてやるが、ここの連中、特に〈申請組〉は、この〈ゆとり特区〉のことを〈開かれた監獄〉って皮肉めいて呼んでる。まあ、そんなことを言っても後の祭りなんだがな。だからおれたちは、できれば〈異分子組〉、最悪でも〈帰化組〉のコミュニティーを目指す。そのほとんどが〈リオ・ロホ〉で信仰されていた旧宗教の信者たちだ。その教義の一つに『汝、何者にも分け隔て無く施し、見返りを求めるなかれ』ってのがあるから、まあ、なんとかなるだろ」
「そんなことまで知ってるのか」
「おれは九番へ堕ちる前は、ここにしばらく厄介になっていたんだよ。まあ、そうは言っても半年くらいのもんだがな。おれが以前、住んでいたコミュニティーは〈連行〉を選択したせいで潰されちまったから、べつのところを探さなきゃならんが、まあ大丈夫だ、いくつか心当たりがある」
恬然として口の端を上げるマクブライト。
その無精髭がまばらに生えた野性的な笑顔を見て、今さらながらに「一体、この男は何者なのだろうか?」とハナコは思う。わざわざ九番に堕ちてきたことを考えると、きっとマクブライトもまた、トキオとおなじく人には言えない過去を持っているのだろう。
九番で生まれ育ったハナコにとっては、あの黒い雨の降る地獄だけが世界のすべてで、本当に最悪で最低な場所にしか思えなかったが、もしかすると、外の世界もそう大差ないのかもしれない。
あのアルビン・ゲイとかいうイカレた男が、ハナコが夢見る平和な外の世界で生まれるなんていうことも、とてもじゃないが信じられない。
ひょっとすると、選択をまちがえたのかもしれない……
ふと過ぎる懸念を振り払うようにかぶりを振って、ふたたび後部座席を覗き込むと、頑として喋らないままのアリスと目がかち合った。
「怖くなかったか?」
なんとはなしに訊ねると、
「……たぶん、わたしは怖いという感情を、よく理解できていないんだと思います」
アリスは淡々と言った。
久しぶりに聞いた、感情のこもらない静かな声に呼応して――
――雨が、そぼ降り始めた。
とりあえずの応急処置をしたトキオはあれからずっと無言のままだ。憔悴しているのだろう、顔面が幽鬼のように青ざめている。そのとなりのアリスも、依然として口を真一文字にかたく引き結んでなにも話そうとせず、たまに思い出したようにして、笑い袋を笑わせている。
感情を伴わない笑い声というものが、これほどまで苛立ちに拍車をかけるものだとは思わなかった。それだけならまだしも、お喋りのマクブライトですらも押し黙っているせいで、車内は信じられないくらいの気まずさに包みこまれている。
こういう時、なにか気でも紛れるようなことが言えればいいのだろうが、あいにくとハナコにはそういった機知が絶望的に足らなかった。
もう何度もした、いくつかある仕事中のマヌケな失敗談でも話そうかと逡巡していると、
「すいません、おれのせいで……」
と、項垂れていたトキオが顔を上げて、力なく言った。
「まあ、おれたちの仕事には、こういうトラブルはつきものだ。そんなことより、ケガのほうはどうだ?」
マクブライトに言おうとしていたことを二つとも言われてしまったハナコは、無言のままうしろを振り返り、目を合わせながら小さくうなずいてみせた。トキオは、赤く染まる包帯ごしに傷口のあたりをそっと撫でて、ハナコにうなずき返してきた。
「思ったよりも深い傷ではなかったから、この痛みにさえ慣れれば大丈夫ですよ。それにまあ、傷口はいちおう止めましたからね」
言って、ホッチキスで傷口を留めるジェスチャーをしたトキオが、明らかに空元気ではあるが、ようやく笑顔を見せた。
「まあ、アイツのことはもういい。あんたとのあいだに何があったかも、べつに訊きたくないしな。残念だけど、不幸話は間に合ってる」
「……ええ、そうですね。もう過去のことです」
トキオがなんとか大丈夫そうだと分かりホッとしたが、よく考えるまでもなく、最短ルートを逸れてしまった事実は覆らない。
「で、どうするんだ?」
気を取り直して、マクブライトに訊くハナコ。
「そうだな、この〈ゆとり特区〉にはいくつもの小さなコミュニティーがあるから、今日はそのうちのひとつにでも泊めてもらおう」
「そんなことができるの?」
「ああ、お前もテレビで耳にタコができるほど聴いているだろうが、この地区にはもともと、かつての隣国〈リオ・ロホ〉から大勢の難民が流れてきていてな。事後処理として、政府はここを〈ゆとり特区〉なんてバカげたものにしちまったが、はっきり言って完全には、ここに散らばるコミュニティーの数を把握しきれちゃいない」
「かなり杜撰な対応ですね。知らなかった」
トキオが言う。
「そんなことじゃあ、〈ゆとり特区〉は反乱軍にとって、おあつらえむきの隠れ家になってしまったりしないんですか?」
「まあ、その側面もあるが、もともと流浪民だった連中と〈移住希望申請〉が運良くとおった奴らには、ひとつの大きな相違点があってな。その有無で政府の巡回部隊が対象者を『管理下にある者か否か』って判断しているっつう寸法さ。その対応をするようになって二十年ちかく経つが、そのお陰で〈異分子組〉のほとんどは駆逐されつつあるらしい。後発の〈申請組〉のタレコミなんかも、今じゃあだいぶ上手く機能しているようだからな。それで〈申請組〉の通報によって発見されたコミュニティーにも、もちろん政府の巡回部隊が出向く。そして〈帰化〉か〈連行〉かのどちらかを選ばされるんだ。〈連行〉なら、この〈ゆとり特区〉のどこかにあるという〈強制収容施設〉に収監されるが、〈帰化〉を選択すれば〈申請組〉と同じく、毎月のノルマの農作物や工芸品を収めることを義務づけられて、一応なんのお咎めも無しってかたちになるんだ。だから、ここには今、〈異分子組〉と〈帰化組〉、それに〈申請組〉の三種類のコミュニティーがあることになる」
「つまり〈申請組〉ってのは、実質的に政府のスパイとしてここに送られてくるようなもんなの?」
「ようなもん、じゃなくて、まさにそのために移住者を募っているのさ」
「おおきな相違点ってのはなんなんだよ?」
「簡単に言うと、〈申請組〉と〈帰化組〉は政府軍に監視されているんだ。知らないだろうから教えといてやるが、ここの連中、特に〈申請組〉は、この〈ゆとり特区〉のことを〈開かれた監獄〉って皮肉めいて呼んでる。まあ、そんなことを言っても後の祭りなんだがな。だからおれたちは、できれば〈異分子組〉、最悪でも〈帰化組〉のコミュニティーを目指す。そのほとんどが〈リオ・ロホ〉で信仰されていた旧宗教の信者たちだ。その教義の一つに『汝、何者にも分け隔て無く施し、見返りを求めるなかれ』ってのがあるから、まあ、なんとかなるだろ」
「そんなことまで知ってるのか」
「おれは九番へ堕ちる前は、ここにしばらく厄介になっていたんだよ。まあ、そうは言っても半年くらいのもんだがな。おれが以前、住んでいたコミュニティーは〈連行〉を選択したせいで潰されちまったから、べつのところを探さなきゃならんが、まあ大丈夫だ、いくつか心当たりがある」
恬然として口の端を上げるマクブライト。
その無精髭がまばらに生えた野性的な笑顔を見て、今さらながらに「一体、この男は何者なのだろうか?」とハナコは思う。わざわざ九番に堕ちてきたことを考えると、きっとマクブライトもまた、トキオとおなじく人には言えない過去を持っているのだろう。
九番で生まれ育ったハナコにとっては、あの黒い雨の降る地獄だけが世界のすべてで、本当に最悪で最低な場所にしか思えなかったが、もしかすると、外の世界もそう大差ないのかもしれない。
あのアルビン・ゲイとかいうイカレた男が、ハナコが夢見る平和な外の世界で生まれるなんていうことも、とてもじゃないが信じられない。
ひょっとすると、選択をまちがえたのかもしれない……
ふと過ぎる懸念を振り払うようにかぶりを振って、ふたたび後部座席を覗き込むと、頑として喋らないままのアリスと目がかち合った。
「怖くなかったか?」
なんとはなしに訊ねると、
「……たぶん、わたしは怖いという感情を、よく理解できていないんだと思います」
アリスは淡々と言った。
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――雨が、そぼ降り始めた。
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