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35:アンバ山
しおりを挟む「一体、どこまで続くんですか?」
眉間のシワを汗のとおり道にかえ、殿のトキオが言う。
道なき道と呼ぶにふさわしい、楢や杉や橡が林立する傾斜をのぼりはじめて、もうどれくらい経っただろうか?
懐中時計がないせいで時間が分からず、かといってわざわざ人の良い情報屋に金を払って時間を聞くこともはばかられる。
木漏れ日に揺れるぬかるんだ地べたは、三日前の雨の名残り。それが、不慣れな登山に輪を掛けて疲労を倍増させていた。
「チチュン チュン チチュン チチチチ」
どこからかクニオフィンチのさえずりが聞こえるが、姿はどこにも見えなかった。
船が上流付近の〈リバーサイドQ〉に到着したのは、朝焼けが目に染みる時分で、それからサンチャゴのはからいで登山用の装備をととのえている間にすっかり陽がのぼり、すこし仮眠をとってからようやく山の麓に辿り着いたときには、太陽の位置からすでに十一時を回っているだろうと推測できた。
いまは太陽がちょうど頭の真上にあることから、おそらく正午頃で、つまり山に入ってから、すでに一時間ちかく歩いていることになる。
「少し休憩にするか?」
先頭のマクブライトに訊かれ、振り向いてアリスを窺うと、健気にも首を横に振られた。
アリスの正体をいちばん知りたがっているのは、言うまでもなく彼女自身なはず。
その覚悟は見上げたものだが、顔には明らかに疲労の色が浮かんでいる。
「そうだな、少し休もう」
ハナコの決断にうなずいたマクブライトは、すぐに休めそうな場所を見つけ、そこに転がる倒木にハナコとアリスを座らせると、その真向かいにあった苔むす岩に腰をおろしてバックパックから水筒を取りだし、それをハナコに放って渡してきた。その間にトキオもまた、岩を背もたれにして地べたに胡座をかいた。
「とりあえず山頂を目指すべきだと、レーダーマッキーのクソッタレは言っていたが、果たして日没までにそこまでたどり着けるかは、はなはだ疑問だな」
汗を拭って言うマクブライト。
「それに山の中腹あたりでアリスが見たという、〈蝶がいっぱい飛ぶ山道〉というのも、まだ見つかりゃしないしな」
山の麓でいったんレーダーマッキーと連絡をとった際に、アリスが思い出した〈蝶がいっぱい飛ぶ山道〉のことをあらためて伝えると、情報屋に「そこがおそらく研究所への道標となる場所だろう」と、何を根拠にしたのか無責任にも言われた。
「その場所を調べてみる」と言われてそのまま携帯を切られたが、それから一向に音沙汰がない。
とりあえず〈蝶がいっぱい飛ぶ山道〉が山の中腹だという大体の場所は分かっていたから、連絡を待たずしてのぼり始めたが、その決断は確実に失敗だったと言える。
と言うのも、三十分ほど歩いたところでふたたび情報屋に連絡をとろうと携帯を見ると電波の入りが悪く、さらに奥深く分け入った今となっては、それは最悪の状態になっていた。
頼みの綱のレーダーマッキーとは、このアンバ山にいるあいだは、あるかどうかは別として少なくとも電波状態の良い場所を見つけなければ、連絡が取れないことは火を見るよりも明らかである。
「考えただけで空恐ろしくもなるが、下手すりゃハズレの可能性さえあるぞ」
呟くように言うマクブライト。
「だが情報屋を信じるなら、この山に間違いはないんでしょ?」
「どんな人間にも間違いはあるからな。現にあの野郎は、神父が反乱軍とつながっているという、誤った情報をくれやがったしよ」
「どっちにしろここに秘密研究施設があるんなら、あたしたちだけでそれを見つけ出さなきゃいけない。分かっているとは思うけど、今さら戻るなんて選択肢はないんだ」
「まずはやっぱり、〈蝶がいっぱい飛ぶ山道〉ですよねえ」
トキオにうなずき、マクブライトが煙草に火をつける。すると、そこからゆらゆらとか細く立ちのぼる煙の周りを囲むようにして、いくつかの甲虫がまとわりついてきた。
どす黒い甲殻をにぶく光らせて開く、体の背に不釣り合いな六枚の羽を踊らせるそれらは、頭から生やした長い触角を、煙をかき混ぜるようにして盛んに動かしている。
「なんなんだ、この気持ちの悪い虫は?」
言って、マクブライトが顔をしかめると、
「アイエンクソムシです」
珍しくアリスが口を開く。
「煙草の煙だけに反応する虫だそうです」
「クソムシねえ。確かに見た目は似ているが、そんな種類のものは聞いたことがないぞ。第一、クソムシって飛ぶのか?」
マクブライトが怪訝な顔で言う。
「それに、登っているあいだじゅう思っていたんだが、この山には見たこともない生き物が多すぎる」
「バケモノだらけの山だとでも言いたいわけ?」
「いや、そこまで言う気はないが、例えばアレを見ろ」
指されたほうを見ると、少し離れた松の枝に一匹のヘビが絡みついていた。その額の部分には痼りのような、半透明のおおきな突起物がついている。
「背中の斑模様を見たところ、あれはヤマカガシの親戚かなんかなんだろう。ヤマカガシには、目の下部にピット器官っつう、熱を感知することができる器官があるんだが、アレの額に突き出した不自然なコブは、恐らくそれだ」
「……それがなんなの?」
「まずピット器官があんな場所にあること自体が不自然だってことなんだが、まあ、分からないならべつにいい。ああ、それとアレには近づくなよ。ヤマカガシは毒蛇だからな」
言って、湿り気をおびる地べたで煙草をもみ消したマクブライトは、残った煙へたかるアイエンクソムシを手で追い払った。
「バケモノだらけの山だとして、もっと大物と出くわしたりしたらどうするの?」
「そういえば、下の村でもそんなこと言ってましたもんね」
トキオがそれに応え、ため息をついた。
トキオが言うとおり、〈リバーサイドQ〉で妙な噂をハナコたちは耳にしていた。
曰く、「アンバ山には数年前から悪魔が出る」のだとか。
はじめにそれを聞かせてくれた村人に応えるようにして、わらわらと集まってきた他の村人たちの、やれ「一度に十人も食われた」だとか「羽が生えていて空を飛ぶ」などといった、尾ひれがつきまくる噂話をまともに信じる気にはなれないが、それでも火のない所に煙は立たないものなのだと思う。
正直なところ、このアンバ山の生態系がおかしいと言われたところで、今まで九番を出たこともないハナコには、なにが問題なのかは分からなかった。それどころか、眼前の木の枝に巻きつくヤマカガシの親戚とかいうヘビにすら、興味が湧いて仕方がないくらいだ。
暑くて湿っぽくて、おまけに疲れもあるが、それでも登山という慣れない行為を心のどこかで楽しんでいる自分に気づく。
「さて、出発しますか、リーダー」
すこしだけではあるが体力が回復したのを確認してハナコは立ち上がり、アリスの手を引いて立たせてやった。
そしてさっきとおなじ並び順で列をつくり、一行はふたたび山の中腹を目指して、歩きはじめた。
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