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第三章「蔭間大名の悲劇」
第六話「大名家の喧嘩」
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「それでは報告を……赤尾は何をしているのです? あんな部屋の隅に居て」
町奉行所との情報交換を終えたせんと美湖が戻って来て千寿に報告をしようと執務室に来たのだが、いつも報告の場に加わっている赤尾が、今日は部屋の隅でひっそりとしている。いつもは軍師面で偉そうに堂々としているのが嘘の様である。
「赤尾さん、こういう時は普通にしていたほうが良いですよ……」
せんが小さな声で赤尾に言った。いつもうるさい位元気な彼女としては実に珍しい事だ。
赤尾は先程、千寿の触れてはならない何かに触れてしまったため、こんなに小さくなっているのだし、せんも美湖もそれを感じ取って大人しくしている。
千寿の様子はいつもと変わりが無い。怒りを露わにしているならともかく、この状態で気を使い過ぎては逆に神経を逆なでする事になりかねない。
怒りに燃えた時の千寿は、いとも容易く悪人を斬殺してのける。まさか失言しただけで首を落とすことはないだろうが、いつも態度が丁寧なだけに底知れぬ恐ろしさがあるのだ。
結局赤尾は恐る恐る膝行し、話の輪に加わった。
この日町奉行所から得られた話は、あまり女奉行所には関係の無い事件ばかりであった。
女奉行所は女人保護がその職務の内容であり、その他の事件は関係の無い事だ。例えそれがどれだけ凶悪な事件であろうと、女人が関わらなければ手を出す事は無い。
女奉行所五十名の手勢は相当な戦力であり、町奉行所としては何とか協力させたいという思惑がある。以前町奉行所や道中奉行は女奉行所の抱える事件を解決するために体よく巻き込まれた事があり、その貸しを返してもらいという事でもある。
人攫いの集団や、違法な高利貸しの集団への捕り物の時など、何度か手を貸した事はあるのだが今回はその類いの事件は無さそうである。
だが、千寿が美湖の報告書の中に、気になる事を見つけた。
「この、井伊家と深畠家の家臣同士の争いとは、一体なんでしょう?」
「はて? 女に関わりの無い事件だったので、特に詳細は聞いておりませんが」
美湖は頭を捻りながら答えた。
「何か気になる事でも?」
「ええ済みません。この前浄円院様が深畠家に挨拶に行きましたし、伊吹家は井伊家と親しいので、少し気になっただけです」
伊吹家は、近江国伊吹山の辺りを本貫地としている。そして井伊家は近江国を領地とする大名である。井伊家の領地にはかつて伊吹家に仕えていた良民が数多くいる。彼らを統治するためにも、井伊家は伊吹家と代々良好な関係を築いている。現当主である井伊掃部頭直惟も千寿の父である伊吹近江守と交流があり、千寿も井伊家の人間には何人も知り合いがいる。もちろん井伊家から深畠家に嫁いだ葦姫とも面識がある。
「江戸勤番の侍が江戸で事件を起こした時、大事にならない様に町奉行所は配慮してうやむやにする事が多いので、町方では深入りせず何も知らないかもしれませんね」
赤尾がこの件に関して感想を述べた。元中町奉行所の与力が言う事である。恐らく彼の予想は正しいはずだ。
各大名家の江戸家老辺りは、江戸勤番の侍が問題を起こしても一定の配慮――悪く言えばうやむやにしてもらうために、定期的に町奉行所に付け届けをするものだ。
何かのっぴきならないものを感じた場合、町奉行所は深入りを避けるだろう。
「そしてこの件と関係があるのか無いのか分かりませんが、最近鎌倉河岸の辺りで侍同士の喧嘩があり、片方が腹を切って果てたとの噂を聞きました。もしや、この事件がその井伊家と深畠家の諍いなのではないでしょうか」
「切腹した? たかが喧嘩で?」
美湖は驚きの声を上げた。まさかその様な大事にまでなっていたとは予想していなかったのだ。
「すみませんが、少し気になります。そもそも深畠吉親様正室の葦姫さまは、井伊家の生まれなのですよ。それなのに何故両家の家臣がそこまで争うのでしょう。女奉行所の役目とは関係ないかもしれませんが、少し調べて貰えますか?」
「はは! この赤尾、一命に代えましてもお役目を果たしてご覧にいれます。次郎吉を使ってもよろしいでしょうか?」
今日の失態を取り戻そうと、赤尾は顔を赤くして必死の気迫で決意を述べた。彼は両町奉行所の与力や同心に知己が多い。町奉行所が事件の詳細を知らずとも、ある程度の情報を仕入れる事は難しくない。
それに次郎吉は女奉行所に奉公に来る前は、渡り中間としてあちこちの大名や旗本の屋敷に勤めていた。中間同士の繋がりも多い。もちろん、井伊家や深畠家に奉公する中間にも親しい者がいる。
次の日の朝、赤尾は次郎吉を連れて報告に現れた。そして驚きの情報を告げたのである。
諍いを起こしたのはやはり井伊家と深畠家の侍であり、深畠家の侍が切腹して果てたのは事実であると。
そして、どういう訳が井伊家は深畠家に怒りを燃やしているらしく、井伊家の上屋敷には武装した家臣たちが詰めており、今にも出陣せんばかりの気勢を上げているというのだ。
この報告を聞いた千寿はすぐに外出の支度を整えた。大名家同士が江戸の町で衝突するなど一大事である。こうなっては女奉行所の管轄かどうかなど考えている余裕はない。それに何かあれば女にも犠牲が出る事は避けられないだろう。
千寿はせんと次郎吉を連れて井伊家上屋敷に向かった。
町奉行所との情報交換を終えたせんと美湖が戻って来て千寿に報告をしようと執務室に来たのだが、いつも報告の場に加わっている赤尾が、今日は部屋の隅でひっそりとしている。いつもは軍師面で偉そうに堂々としているのが嘘の様である。
「赤尾さん、こういう時は普通にしていたほうが良いですよ……」
せんが小さな声で赤尾に言った。いつもうるさい位元気な彼女としては実に珍しい事だ。
赤尾は先程、千寿の触れてはならない何かに触れてしまったため、こんなに小さくなっているのだし、せんも美湖もそれを感じ取って大人しくしている。
千寿の様子はいつもと変わりが無い。怒りを露わにしているならともかく、この状態で気を使い過ぎては逆に神経を逆なでする事になりかねない。
怒りに燃えた時の千寿は、いとも容易く悪人を斬殺してのける。まさか失言しただけで首を落とすことはないだろうが、いつも態度が丁寧なだけに底知れぬ恐ろしさがあるのだ。
結局赤尾は恐る恐る膝行し、話の輪に加わった。
この日町奉行所から得られた話は、あまり女奉行所には関係の無い事件ばかりであった。
女奉行所は女人保護がその職務の内容であり、その他の事件は関係の無い事だ。例えそれがどれだけ凶悪な事件であろうと、女人が関わらなければ手を出す事は無い。
女奉行所五十名の手勢は相当な戦力であり、町奉行所としては何とか協力させたいという思惑がある。以前町奉行所や道中奉行は女奉行所の抱える事件を解決するために体よく巻き込まれた事があり、その貸しを返してもらいという事でもある。
人攫いの集団や、違法な高利貸しの集団への捕り物の時など、何度か手を貸した事はあるのだが今回はその類いの事件は無さそうである。
だが、千寿が美湖の報告書の中に、気になる事を見つけた。
「この、井伊家と深畠家の家臣同士の争いとは、一体なんでしょう?」
「はて? 女に関わりの無い事件だったので、特に詳細は聞いておりませんが」
美湖は頭を捻りながら答えた。
「何か気になる事でも?」
「ええ済みません。この前浄円院様が深畠家に挨拶に行きましたし、伊吹家は井伊家と親しいので、少し気になっただけです」
伊吹家は、近江国伊吹山の辺りを本貫地としている。そして井伊家は近江国を領地とする大名である。井伊家の領地にはかつて伊吹家に仕えていた良民が数多くいる。彼らを統治するためにも、井伊家は伊吹家と代々良好な関係を築いている。現当主である井伊掃部頭直惟も千寿の父である伊吹近江守と交流があり、千寿も井伊家の人間には何人も知り合いがいる。もちろん井伊家から深畠家に嫁いだ葦姫とも面識がある。
「江戸勤番の侍が江戸で事件を起こした時、大事にならない様に町奉行所は配慮してうやむやにする事が多いので、町方では深入りせず何も知らないかもしれませんね」
赤尾がこの件に関して感想を述べた。元中町奉行所の与力が言う事である。恐らく彼の予想は正しいはずだ。
各大名家の江戸家老辺りは、江戸勤番の侍が問題を起こしても一定の配慮――悪く言えばうやむやにしてもらうために、定期的に町奉行所に付け届けをするものだ。
何かのっぴきならないものを感じた場合、町奉行所は深入りを避けるだろう。
「そしてこの件と関係があるのか無いのか分かりませんが、最近鎌倉河岸の辺りで侍同士の喧嘩があり、片方が腹を切って果てたとの噂を聞きました。もしや、この事件がその井伊家と深畠家の諍いなのではないでしょうか」
「切腹した? たかが喧嘩で?」
美湖は驚きの声を上げた。まさかその様な大事にまでなっていたとは予想していなかったのだ。
「すみませんが、少し気になります。そもそも深畠吉親様正室の葦姫さまは、井伊家の生まれなのですよ。それなのに何故両家の家臣がそこまで争うのでしょう。女奉行所の役目とは関係ないかもしれませんが、少し調べて貰えますか?」
「はは! この赤尾、一命に代えましてもお役目を果たしてご覧にいれます。次郎吉を使ってもよろしいでしょうか?」
今日の失態を取り戻そうと、赤尾は顔を赤くして必死の気迫で決意を述べた。彼は両町奉行所の与力や同心に知己が多い。町奉行所が事件の詳細を知らずとも、ある程度の情報を仕入れる事は難しくない。
それに次郎吉は女奉行所に奉公に来る前は、渡り中間としてあちこちの大名や旗本の屋敷に勤めていた。中間同士の繋がりも多い。もちろん、井伊家や深畠家に奉公する中間にも親しい者がいる。
次の日の朝、赤尾は次郎吉を連れて報告に現れた。そして驚きの情報を告げたのである。
諍いを起こしたのはやはり井伊家と深畠家の侍であり、深畠家の侍が切腹して果てたのは事実であると。
そして、どういう訳が井伊家は深畠家に怒りを燃やしているらしく、井伊家の上屋敷には武装した家臣たちが詰めており、今にも出陣せんばかりの気勢を上げているというのだ。
この報告を聞いた千寿はすぐに外出の支度を整えた。大名家同士が江戸の町で衝突するなど一大事である。こうなっては女奉行所の管轄かどうかなど考えている余裕はない。それに何かあれば女にも犠牲が出る事は避けられないだろう。
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