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第二章「江戸城の象」
第九話「曲者侵入」
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町入能の午後の部も、午前と同じく盛大に開催された。
何しろ二千五百人の町人がひしめき合っているのである。広い江戸城の中庭といえども狭く感じる。その分将軍と町人達の距離が近く感じられ、将軍は民のための政を再認識し、民も自分達の為政者が誰かを実感する。
考えれば考えるほど、徳川の治世に不可欠な行事である。歴代の将軍たちはこの町入能を重視していたというが、それも頷けると文蔵ですら思った。
そして堅苦しいものではなく、無礼講的な面もあるため町人達から将軍に対して「親分」などの掛け声が飛んだりもする。まるで芝居小屋の様である。将軍の行列が通過するときには頭を下げねばならぬのが嘘の様な光景だ。
そしてこの将軍と町人達の距離が近いと言う事は、この場に居合わせる大名達にも大いに影響を与える。つまり、徳川の治世は安定しているので、お前達が何を企んでも無駄だと言う事をだ。もしも徳川の天下を覆しても、これだけの民の反感を買う事になる。その様な状況で、奪った天下を維持出来るのかと言う事を暗に言っているのだ。
そこまで当代将軍である吉宗が考えているか分からない。元々紀州藩の部屋住みであり、藩を継げる見込みがない分民と交わるのが好きだったからだ。盛大な祭りはそれだけで吉宗好みと言える。
まあ真相は不明であるが、何にしてもこの町入能が徳川の天下を支える重要な行事である事には変わりが無い。重要性を再認識した文蔵はあらためて町入能の光景を見渡した。
その時だ。
町入能の会場である中庭に、駆け込んで来る者が何人か見えた。駆け込んでくると言っても騒がしくは無い。足音は全く立てておらず、気配そのものを発していない。普通の者なら視界に入れたとしても、この人影に気を止める事はあるまい。
その男は昨日文蔵が揉めた百人番所の同心、多羅尾という男達であった。
あの慌て様、只事ではない。
「どうしました? 多羅尾さん」
「服部か、……お前達、先に行ってお伝えしろ。町奉行所のこやつにも言っておかねばならぬ。後で行く」
多羅尾は共に来た朋輩たちを大名幕閣がいる大広間の方へ向かわせ、文蔵にひそひそ話をする様に顔を近づけた。
「良いか。この中に曲者が紛れ込んでいる」
「曲者? 本当ですか?」
「ああ本当だ。招待状を奪って入り込んだらしい。先程奪われた者の家族が届け出に来て分かったのだ」
多羅尾が忌々しげに能を観覧中の町人衆を見回して言った。届け出は一人だけかもしれないが、それだけとは限らない。何人曲者が紛れ込んでいるのか分からないのだ。
この、二千五百人の中から不審者を探すのは、全くもって骨が折れるだろう。そして問題なのはその曲者の目的である。
「目的は分かっているのですか?」
「分からん。が……」
「最悪の場合上様の身に危険が迫る、と言う事ですね」
「その通りだ。それだけは防がねばならん」
将軍の身に何かがあっては、天下が揺らぎかねない。寿命や病死ならともかく、その居城で刺客に殺されたりしてはその威信に傷がつく。威信などと言うと実体のない何処か虚ろなものを感じてしまうのであるが、この威信というものこそが、今の徳川の天下を形作っているのである。決して幕府の武力だけではないのだ。
特に今日この場には、江戸の町の一方の主役である町人衆や、徳川家の藩屛たる大名達がいる。彼らの目の前で幕府に対する不安が広がった場合、天下に大乱が起きかねない。
(どこにいやがる?)
文蔵は目を凝らして町人衆を見回した。誰もが能に見入っている様であり、怪しい動きをする者は見つけられない。能楽者の台詞や、鼓の音だけがその場に響いている。
そうこうしている内に、曲者侵入の報が届けられたのだろう。幕閣が慌ただしく動き始めた。その動きはあからさまで、何か異変が起きましたと言っている様であるが、それでも反応しないよりはましである。もう少しすれば、要人は避難を開始するだろう。
本丸御殿の奥に引き込んでしまえば、精鋭達が警備している難攻不落の江戸城である。曲者が何人いようと将軍らに危険が及ぶ心配は無い。
曲者が誰かは判別できないが、このまま監視を続ければ文蔵達の価値である。
だが、その時それは起きた。
「いよっ、天下一!」
「最高っ!」
突然町人衆の誰かが立ち上がり、声援を送りながら手を叩いた。それに釣られた者が同じように立ち上がって手を叩く。
この流れが連鎖的に広がり、町人衆が皆立ち上がってしまった。こうなっては誰が怪しい動きをしているのか分からない。
本来今の演目では、まだ拍手をする場面ではない。その事を知っている町人の何人かは怪訝な顔をしているが、流れとは恐ろしいものだ。誰もが盛大な拍手を送っている。
誰もが怪しく、誰もが怪しくない様に見えて来る。これでは曲者を発見して捕縛するのは不可能に近い。
どうすべきか。
何しろ二千五百人の町人がひしめき合っているのである。広い江戸城の中庭といえども狭く感じる。その分将軍と町人達の距離が近く感じられ、将軍は民のための政を再認識し、民も自分達の為政者が誰かを実感する。
考えれば考えるほど、徳川の治世に不可欠な行事である。歴代の将軍たちはこの町入能を重視していたというが、それも頷けると文蔵ですら思った。
そして堅苦しいものではなく、無礼講的な面もあるため町人達から将軍に対して「親分」などの掛け声が飛んだりもする。まるで芝居小屋の様である。将軍の行列が通過するときには頭を下げねばならぬのが嘘の様な光景だ。
そしてこの将軍と町人達の距離が近いと言う事は、この場に居合わせる大名達にも大いに影響を与える。つまり、徳川の治世は安定しているので、お前達が何を企んでも無駄だと言う事をだ。もしも徳川の天下を覆しても、これだけの民の反感を買う事になる。その様な状況で、奪った天下を維持出来るのかと言う事を暗に言っているのだ。
そこまで当代将軍である吉宗が考えているか分からない。元々紀州藩の部屋住みであり、藩を継げる見込みがない分民と交わるのが好きだったからだ。盛大な祭りはそれだけで吉宗好みと言える。
まあ真相は不明であるが、何にしてもこの町入能が徳川の天下を支える重要な行事である事には変わりが無い。重要性を再認識した文蔵はあらためて町入能の光景を見渡した。
その時だ。
町入能の会場である中庭に、駆け込んで来る者が何人か見えた。駆け込んでくると言っても騒がしくは無い。足音は全く立てておらず、気配そのものを発していない。普通の者なら視界に入れたとしても、この人影に気を止める事はあるまい。
その男は昨日文蔵が揉めた百人番所の同心、多羅尾という男達であった。
あの慌て様、只事ではない。
「どうしました? 多羅尾さん」
「服部か、……お前達、先に行ってお伝えしろ。町奉行所のこやつにも言っておかねばならぬ。後で行く」
多羅尾は共に来た朋輩たちを大名幕閣がいる大広間の方へ向かわせ、文蔵にひそひそ話をする様に顔を近づけた。
「良いか。この中に曲者が紛れ込んでいる」
「曲者? 本当ですか?」
「ああ本当だ。招待状を奪って入り込んだらしい。先程奪われた者の家族が届け出に来て分かったのだ」
多羅尾が忌々しげに能を観覧中の町人衆を見回して言った。届け出は一人だけかもしれないが、それだけとは限らない。何人曲者が紛れ込んでいるのか分からないのだ。
この、二千五百人の中から不審者を探すのは、全くもって骨が折れるだろう。そして問題なのはその曲者の目的である。
「目的は分かっているのですか?」
「分からん。が……」
「最悪の場合上様の身に危険が迫る、と言う事ですね」
「その通りだ。それだけは防がねばならん」
将軍の身に何かがあっては、天下が揺らぎかねない。寿命や病死ならともかく、その居城で刺客に殺されたりしてはその威信に傷がつく。威信などと言うと実体のない何処か虚ろなものを感じてしまうのであるが、この威信というものこそが、今の徳川の天下を形作っているのである。決して幕府の武力だけではないのだ。
特に今日この場には、江戸の町の一方の主役である町人衆や、徳川家の藩屛たる大名達がいる。彼らの目の前で幕府に対する不安が広がった場合、天下に大乱が起きかねない。
(どこにいやがる?)
文蔵は目を凝らして町人衆を見回した。誰もが能に見入っている様であり、怪しい動きをする者は見つけられない。能楽者の台詞や、鼓の音だけがその場に響いている。
そうこうしている内に、曲者侵入の報が届けられたのだろう。幕閣が慌ただしく動き始めた。その動きはあからさまで、何か異変が起きましたと言っている様であるが、それでも反応しないよりはましである。もう少しすれば、要人は避難を開始するだろう。
本丸御殿の奥に引き込んでしまえば、精鋭達が警備している難攻不落の江戸城である。曲者が何人いようと将軍らに危険が及ぶ心配は無い。
曲者が誰かは判別できないが、このまま監視を続ければ文蔵達の価値である。
だが、その時それは起きた。
「いよっ、天下一!」
「最高っ!」
突然町人衆の誰かが立ち上がり、声援を送りながら手を叩いた。それに釣られた者が同じように立ち上がって手を叩く。
この流れが連鎖的に広がり、町人衆が皆立ち上がってしまった。こうなっては誰が怪しい動きをしているのか分からない。
本来今の演目では、まだ拍手をする場面ではない。その事を知っている町人の何人かは怪訝な顔をしているが、流れとは恐ろしいものだ。誰もが盛大な拍手を送っている。
誰もが怪しく、誰もが怪しくない様に見えて来る。これでは曲者を発見して捕縛するのは不可能に近い。
どうすべきか。
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