忍者同心 服部文蔵

大澤伝兵衛

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第三章「田沼の計らい」

第十話「将軍の閨」

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 文蔵が田沼と共に大奥を調査した日から少し経った夜の事である。

 美鈴は将軍に夜伽として召し出され、吉宗の閨を訪れていた。

 将軍は何人もの側室を持てるのだが、決して好き勝手に閨を共にする事は出来ない。様々な手順があり、自由気ままに乱痴気騒ぎという訳にはいかない。

 先ずもって将軍の寝所は大きく分けて中奥と大奥の二か所に存在していた。政務が立て込んでいる時は中奥で寝泊まりする事も増えるし、様々な年中行事により事前に精進潔斎する時は女人と一夜を共にする事を避けるので、自然と大奥には泊まらなくなる。よって、大奥に泊まる場合は事前に伝達する必要がある。大奥側にも準備が必要なのだ。

 そして将軍と肌を合わせるのであるから、もしも側室が良からぬ事を企んでいたのなら一大事である。当代将軍は武芸に優れているが、夜伽の相手が急に刺客と変わったなら流石に対処出来ないだろう。そのため、事前に何か凶器となる物を所持していないか、側室は念入りに点検されるのである。

 更には寝所で将軍と側室が二人きりになるのではない。これは暗殺の危険性も考慮しての事だが、側室の口から何か頼み事がされないか監視するという意味がある。古来唐土の王朝も含めて、寵姫の君主への頼み事により国が滅んだ例は枚挙にいとまがないのである。

 寝所に通された美鈴は、規則通り全身白無垢で、身体検査を受ける事になる。暗殺の凶器となるのを防ぐために簪は用いないし、一度髪を解いて頭髪の中を点検する程の念の入れようだ。いくら将軍の身の安全のためとはいえ、この様な手間のかかることをするのは実に面倒だ。当代の将軍である吉宗は女性に淡白なため、毎晩夜伽を所望する事はないのだが、もしも女好きの将軍であれば毎晩毎晩担当する大奥の者達は苦労するだろう。

 色々と怪しいところの多い美鈴だが、点検しても凶器など怪しい部分は発見できなかった。例え目立つ凶器など持ち込めなくとも、直接肌を合わせるのであるから毒物を塗り込んでおけば自分の死と引き換えに将軍を暗殺する事は可能だ。だが、こちらも寝所に来る前に入浴しているため問題は無い。中臈ともなれば世話をする女中がつくため密かに毒を塗り込むなど不可能に近いはずだ。

「来たか、近う寄れ」

 寝所に入った美鈴に対し、臥所に横たわる吉宗が背を向けたまま言った。

 美鈴は言われるがままに布団に近寄り、静かに膝を着いた。

「呼び出しておいて悪いのだが、昼間に馬を攻めて疲れておってな。少しばかり腰でも揉んでくれ」

 吉宗は背を向けたまま美鈴に声をかけ、近くによって按摩をする様に指示をした。将軍には専属の鍼灸師がついているので、わざわざ中臈に腰を揉ませる必要など本来はない。だが、美鈴は夜伽に訪れる前、御年寄から上様は変わり者なのですぐに事に及ぶことは無いと言い含められていたので、不審に思わずに吉宗のすぐ後ろに腰を下ろした。

 美鈴は無言で吉宗の腰を揉み解し始める。

「ほう。意外と力強いではないか」

 美鈴の手技に、吉宗は感心した声を漏らす。美鈴は元々肉付きの良い体格ではないし、数日間井戸に閉じ込められていたので痩せ細り、筋力は弱まっている。だが、吉宗の感じる限りその様な様子は全くみられない。よく体重が指先まで伝わり、全身の力が余すところなく吉宗に届いている。

 その時だった。

 無言で腰を揉んでいた美鈴が口をぱかりと開け、全身を強く震わせた。すると、喉の奥から千枚通しの様な凶器がぬるりと姿を現し、美鈴の手に納まった。

 この異様な光景、背を向けたままの吉宗からは当然見えないし、監視のためについている奥女中からも美鈴の体が邪魔になって視界に入っていない。いや、それどころか奥女中の一人は夜に弱いのか、目を閉じたままである。様々な危険を排除するための監視なのであるが、実のところ問題が発生する事は極稀である。そのせいで職務に疑問を抱き、規律が弛緩しているのかもしれない。

 美鈴の手にした凶器は、小柄な美鈴の体のどこに入っていたのかと思えるほど大きく、これで一突きすれば人間を絶命しうるだろう。

 美鈴は凶器を逆手に構え、未だ横たわったままの吉宗の頸部目掛け、一気に振り下ろそうとして……それは果たせなかった。

「そこまでだ。上様を弑逆する事は許さんぞ」

 美鈴の右手首には鎖分銅が絡みついて自由を奪っていた。驚いた美鈴が振り向き、その鎖分銅の先を見やると、奥女中の一人が膝立ちになって鎖分銅の末端を握っている。そして驚くべき事にその声の主は男であった。

「なっ?」

 ここまで無言だった美鈴が、驚きの声を発する。無理もない。大奥は男子禁制である。本来この場に男が居ようはずもない。

「おのれ!」

「おっと危ない」

 美鈴は凶器を左手に持ち替えて、あくまで将軍暗殺を遂行しようとした。だがその瞬間、女装した男が鎖分銅を操り、美鈴の態勢を崩してしまった。凶器の千枚通しは虚しく空を切り、吉宗の体から数寸離れた布団に突き刺さる。

「大人しくしな」

 美鈴の隙を見逃さず、もう一人の奥女中が走り寄って、あっという間に組み伏せた。行燈に照らされたこの顔の主は、大奥に奉公に上がっていた朱音である。

 そして激しく体を動かしたせいで、鎖分銅を操る奥女中の鬘が床に落ちる。

 正体を現した女装の主は、町方同心の服部文蔵であった。

 文蔵は旅芸人時代に軽業を専門としていたためか、その体つきはしなやかだ。その中に鋼の様な剛直さを秘めているのだが、ぱっと見ではほっそりしている様にも見える。夜の寝所は薄暗い。女と見分けがつかなくとも不思議は無い。

「よくぞ余の危機を救ってくれた。礼を言うぞ。服部文蔵よ」

「いや、拙者が手を出すまでもなかったんじゃ……」

「ふふ、さてな」

 文蔵の受け答えは、一介の御家人が将軍に対するものとはとても思えないぞんざいなもので、上司である町奉行の稲生が知ったら腹を切るやもしれぬ。そもそも将軍が一介の同心の名を覚えている事自体が名誉な事極まりないのである。そこに謝辞を述べぬのは、礼を失していると言えよう。これでも文蔵としては丁寧に答えているつもりなのだが、やはり武士としての応答は一朝一夕に身につくものでは無い様だ。

 もっとも、吉宗は特に気にしていない様だが。

「ところで、お主どのようにしてここに入って来た? 美鈴が怪しいので、そちらの朱音とやらが護衛に就く事は知らされていたが、お主が来るとは知らぬ事であったぞ」

 流石の吉宗といえども、大奥に男を待機させる事は中々決断できない。だからこそ黙って文蔵が入り込んで護衛する事にしたのだろうが、どの様にして潜入したのか不思議であった。

 もしも警備に不備があるのであれば、今後更に厳しくしなければなるまい。

「簡単な事ですよ。留守居の伊吹様達と大奥の見回りをした時に、進物の荷物に紛れて隠密に居残ったのです。大奥は入る者や荷物には厳しくても、出て行く者には少しばかり甘いですね」

「そう、それであたしが文蔵にちょっと変装して伊吹様達と出れば、いっちょ上がりってね」

 美鈴を縛り上げながら朱音が答えた。朱音は女性にしては上背がある。しかも旅芸人時代は人手が足りなければ男装して即興劇などを演じたものだ。そして、人数さえ合っていれば、主客である伊吹や女中達に人気の田沼以外には、誰も気を止めないのであった。

「ふむ。大奥に出入りした者は、御庭番に監視させたはずなのだが、まさかそれを掻い潜るとはな。奴らの落ち度なのかお主らが一枚上手だったのか。しかし何故その様な回りくどい事を? 正直に大奥の老女にでも事情を話して、協力を得て潜り込ませて貰えば良かったではないか」

「それは、上様がよくご存じでは?」

「ふふっ、お主も良く分かっている様だな。そう、大奥は言わば伏魔殿よ」

 大奥は幕府において恐るべき権勢を誇っている。権勢を誇っていると言う事は、即ちそれだけ多くの金を握っていると言う事だ。これは吉宗の倹約政策とは対立するものである。粘り強く働きかける事によって次第に従わせて来たのだが、まだまだ完全に心服しているとは言い難い。

 それに、吉宗が将軍に就任する際には大奥の意向も大いに影響したため、その時の恩義もある。このため、吉宗擁立に動いた派閥には強く言いづらい事情があるし、対立候補であった尾張派の者達は吉宗の事を疎んじている。この者達を完全に信用する訳にはいかぬのだ。

「恐らく大奥内に協力者がいるはず。美鈴が本物とも限りません」

「それはそうだろうな」

 数日間井戸に落ちていたという事で、その容姿はかなり変わっている。しかも美鈴の実家とやらにも怪しげな雰囲気があるとの調査結果があるのだ。これは、美鈴が入れ替わっていると考えてもおかしくは無い。

「そういう訳で、今頃美鈴の実家には町奉行所の者が手入れに入っているはずです」

「ほう、流石稲生だ。ぬかりは無いらしいな」

 大奥に潜入して吉宗の警護をするのは文蔵の発案であるが、同時に美鈴の実家を手入れするのは奉行である稲生の発意である。稲生はまだ接触もしていない文蔵の事を、同心になる事が決定していると将軍に報告してしまうなど気の早い所があるが、決して粗忽な愚者ではない。世間で評判通りの切れ者である。

「もうそろそろ人を呼ぶから、そこら辺に隠れてな」

 美鈴を縛り終えた朱音が、文蔵に姿を消す様に促した。捕らえた美鈴をこのままにしておくわけにはいかない。人を呼んで、引き渡そうとした。大奥は女の園である。当然自ら警備の要員くらい用意しているのだ。

「隠れるには及ばん、服部よ。余が曲者を捕えるために呼び立てた事にしよう。実際に曲者が捕縛されたのだ。大奥にいる余に反対する者とて文句は言えまい。いや、言わせぬ」

「ははっ。朱音、そういう訳だ。俺も引き渡すまでついている事にしよう」

「あら、そう? なら、捕まえておくのを手伝って。こいつ、相当できるから、少しでも気を抜くと危険よ」

 朱音は女人ながらかなり喧嘩慣れしている。その朱音が言うのであるか、美鈴の腕前の程が伺えるというものだ。

「こら、あまり動くな。うむ、これは?」

 隙を見計らって動こうとする美鈴の腕を強く握った文蔵は、自分の手に何かがこびりついたのを感じた。それは、薄い皮のような者であった。美鈴は自分の腕に皮を張り付けていたのである。それが文蔵に強く握られる事で破れて、剥がれ落ちたのであった。

 そして破れた皮の下にある美鈴の地肌には、猪の目紋が彫り込まれていたのであった。



 町奉行所の手の者が、美鈴の実家である相模屋を捜査した報告が吉宗の元に入ったのは、美鈴に化けた女による暗殺を防いでから一刻程経ってからの事であった。暗殺者を引き渡し、大奥から中奥に移った時に報告を受けたのだ。

 文蔵達の読みの通り、本来の相模屋の人間達とは入れ替わっていたという事である。全くの別人でありながら周囲の取引先に悟られなかったのは、恐るべき変装の技術である。美鈴は風呂に入っても露見しない様な人工の皮膚を使用していた。この一味には同じ様に様々な技術があるのだろう。

 この様な高度な技術を持った連中が将軍暗殺を目論んでいるのだ。これは脅威である。町奉行自ら報告に登城した北町奉行の稲生は、この恐るべき相手に対して、奉行所の総力を挙げて対処すると自信ありげに宣言した。

 裏の犯罪者を相手にした場合、後手に回らざるを得ない町奉行所がどれだけ有効に対処できるかは定かではないが、この様な事態では多少ははったりを利かせた発言をするというのも、周囲を安心させる効果を生む。そして安心しているからこそ、落ち着いて対処できるというものだ。

 その辺りの事を為政者としてよく知っている吉宗は、稲生を労って今後も頼むぞと言った。

 その場には将軍護衛のために大奥からついて来た文蔵もいたのだが、稲生の語る細かい報告事項は頭に入らなかった。

 ただ、相模屋の主たちに化けた連中の手には、猪の目紋が刻まれていたという事だけは、はっきりと聞き取れた。

 文蔵は手甲に覆われた自らの手を強く握りしめている。

 手甲の下の地肌には、子供の頃から消えぬ猪の目紋が、今でもくっきりと残っていた。

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