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第二章「当世妖怪捕物帳」
第三話「南町奉行鳥居耀蔵」
しおりを挟む 南町奉行鳥居耀蔵の執務室に案内される間、夢野は緊張するのを止める事が出来なかった。自分で言うのも何であるが、夢野は己を度胸のある方だと思っている。それは決して自信過剰な訳ではない。これまで困っている者達を見かけたならば、即座に助ける判断をして来た。それが例え凶暴なヤクザ者と対峙する事になってもである。
夢野一人の力では解決できない事もあったが、それでも夢野の強い意思が無ければ解決に向けて皆が動く事すらなかっただろう。
そうではあるが、流石に江戸でも酷吏として名が知れた鳥居耀蔵と面と向かって退治するのは、動揺を止める事が出来ないのだ。
鳥居耀蔵はまだ南町奉行となって日が浅く、北町奉行の遠山景元と比べれば江戸の町を取り仕切った期間は短い。だが、江戸の町人達に与えた影響、印象としては過去のどんな町奉行を上回っているだろう。名奉行として名を残した大岡越前守すら凌ぐだろう。
彼は大儒として知られる林家の生まれであるが、その生まれに違わず幼い頃から学問に励み、秀才として名を知られていた。そして、鳥居家に婿養子して入り幕府に仕える身となった。
幕府に出仕してからは秀才としての前評判に違わぬ働きをした。目付などの数々の役職で辣腕を振るい、時の権力者である老中水野忠邦の懐刀としてその名を知られるようになったのだ。そして水野忠邦が改革に乗り出し、自らの信じる政策を打ち出した時、その政策の実行者として鳥居耀蔵に白羽の矢が立ったのである。
水野忠邦の政策は町民を強く縛るものである。実行すれば町人達の反発も強く、それまで町人と持ちつ持たれつで江戸の町を差配してきた町奉行所の役人も抵抗を感じるものである。現に北町奉行の遠山は政策を徹底する様にとの老中の矢の催促をのらりくらりと躱しているらしいし、真っ向から反発した前南町奉行の矢部は解任されたのである。だからこそ老中の意思を体現する者として町奉行所に送り込まれてきた鳥居耀蔵の存在は大きい。
町人達からは嫌われに嫌われ、その名と甲斐守の官職をもじって妖怪などと陰口を叩かれている。
町奉行に就任して以来、鳥居耀蔵は精力的に陣頭指揮を執った。そのため、贅沢品と見なした物の没収や、出版の取り締まりなど、誰もやりたがらない汚れ仕事を次々と実行していったのだ。夢野も以前その政策に巻き込まれ、執筆した読本がお上に対して不届きであるとされ、牢に入れられてお𠮟りを受けている。当然ながら南町奉行所のお白州でその判決を下したのは他でもない鳥居耀蔵である。
夢野としては自分がかつて異世界転生侍を書いた事を後悔していないし、間違った内容であるとは微塵も思っていない。であるが、流石に鳥居耀蔵とまた顔を合わせるのは御免こうむりたいのである。
しかも、今日は絶版になった異世界転生侍の次回作である当世妖怪捕物帳の内容についてお𠮟りを受けたばかりだ。お叱りの内容は、妖怪の読本を書くのは南町奉行たる鳥居耀蔵への当てつけであるというものである。
どう考えても言いがかりである。
それは町奉行所の役人も重々承知していたのだろう。先ずもって、これは正式なお沙汰ではない。与力による内々での警告である。元より今月の月番は南町奉行所ではない。流石にこの様な馬鹿げた判決を公式に下すのは町奉行所の沽券に関わると常識的な判断があったのだろう。
ならば、何も文句などつけなければ良いのにと夢野は思うのであるが、世の中には表には出せない諸々の事情が沢山ある事も夢野は承知している。
自分は宮仕えなどしなくて良かったとつくづく感じたのであった。
「お奉行様、戯作者の夢野枕辺を連れてきました」
「入らせろ。夢野だけで構わん」
夢野を案内した鍵崎が、辿り着いた部屋の襖の外から声をかけると中から返事がした。当然の事ながらその声の主は南町奉行鳥居耀蔵その人であろう。町人達の暮らしを省みぬ酷薄な政策や、妖怪などと言う悪名から想像していた様な声ではなく、意外にも涼やかな印象を感じさせる声であった。
少々驚いた夢野であったが、鍵崎に促されて鳥居耀蔵の執務室に一人入って行く。
「戯作者の、夢野枕辺でございます」
作法に適った要領で襖を開けて部屋に入った夢野は、深々と頭を下げて名を名乗った。正直言って嫌いな相手ではあるが、だからと言ってそれを表には出さぬのが処世術というものだ。反骨精神も結構ではあるが、それを発揮する場はわきまえておかねばそれは匹夫の勇と同じである。
この場で、わざわざ町奉行に喧嘩を売る理由は無い。
「面を上げよ。今日はお前に礼を言おうと思って呼び出したのだ」
「礼……でございますか?」
意外な言葉に夢野は驚いた。今日は鳥居耀蔵のあだ名を理由に、言わば言いがかりをつけられて呼び出されてきたのである。その帰りに更なる呼び出しを奉行本人から受けたのだ。当然お𠮟りの追い討ちを食らうものと思っていた。
鳥居耀蔵は蝮の異名も持っており、執念深い人物だと噂されている。夢野に対する嫌がらせは与力に任せていたが、やはり自分からも面罵したくなったとしても、誰も不思議に思わないであろう。
それが礼とは如何なることであろう。夢野はあっけにとられたのであった。
夢野一人の力では解決できない事もあったが、それでも夢野の強い意思が無ければ解決に向けて皆が動く事すらなかっただろう。
そうではあるが、流石に江戸でも酷吏として名が知れた鳥居耀蔵と面と向かって退治するのは、動揺を止める事が出来ないのだ。
鳥居耀蔵はまだ南町奉行となって日が浅く、北町奉行の遠山景元と比べれば江戸の町を取り仕切った期間は短い。だが、江戸の町人達に与えた影響、印象としては過去のどんな町奉行を上回っているだろう。名奉行として名を残した大岡越前守すら凌ぐだろう。
彼は大儒として知られる林家の生まれであるが、その生まれに違わず幼い頃から学問に励み、秀才として名を知られていた。そして、鳥居家に婿養子して入り幕府に仕える身となった。
幕府に出仕してからは秀才としての前評判に違わぬ働きをした。目付などの数々の役職で辣腕を振るい、時の権力者である老中水野忠邦の懐刀としてその名を知られるようになったのだ。そして水野忠邦が改革に乗り出し、自らの信じる政策を打ち出した時、その政策の実行者として鳥居耀蔵に白羽の矢が立ったのである。
水野忠邦の政策は町民を強く縛るものである。実行すれば町人達の反発も強く、それまで町人と持ちつ持たれつで江戸の町を差配してきた町奉行所の役人も抵抗を感じるものである。現に北町奉行の遠山は政策を徹底する様にとの老中の矢の催促をのらりくらりと躱しているらしいし、真っ向から反発した前南町奉行の矢部は解任されたのである。だからこそ老中の意思を体現する者として町奉行所に送り込まれてきた鳥居耀蔵の存在は大きい。
町人達からは嫌われに嫌われ、その名と甲斐守の官職をもじって妖怪などと陰口を叩かれている。
町奉行に就任して以来、鳥居耀蔵は精力的に陣頭指揮を執った。そのため、贅沢品と見なした物の没収や、出版の取り締まりなど、誰もやりたがらない汚れ仕事を次々と実行していったのだ。夢野も以前その政策に巻き込まれ、執筆した読本がお上に対して不届きであるとされ、牢に入れられてお𠮟りを受けている。当然ながら南町奉行所のお白州でその判決を下したのは他でもない鳥居耀蔵である。
夢野としては自分がかつて異世界転生侍を書いた事を後悔していないし、間違った内容であるとは微塵も思っていない。であるが、流石に鳥居耀蔵とまた顔を合わせるのは御免こうむりたいのである。
しかも、今日は絶版になった異世界転生侍の次回作である当世妖怪捕物帳の内容についてお𠮟りを受けたばかりだ。お叱りの内容は、妖怪の読本を書くのは南町奉行たる鳥居耀蔵への当てつけであるというものである。
どう考えても言いがかりである。
それは町奉行所の役人も重々承知していたのだろう。先ずもって、これは正式なお沙汰ではない。与力による内々での警告である。元より今月の月番は南町奉行所ではない。流石にこの様な馬鹿げた判決を公式に下すのは町奉行所の沽券に関わると常識的な判断があったのだろう。
ならば、何も文句などつけなければ良いのにと夢野は思うのであるが、世の中には表には出せない諸々の事情が沢山ある事も夢野は承知している。
自分は宮仕えなどしなくて良かったとつくづく感じたのであった。
「お奉行様、戯作者の夢野枕辺を連れてきました」
「入らせろ。夢野だけで構わん」
夢野を案内した鍵崎が、辿り着いた部屋の襖の外から声をかけると中から返事がした。当然の事ながらその声の主は南町奉行鳥居耀蔵その人であろう。町人達の暮らしを省みぬ酷薄な政策や、妖怪などと言う悪名から想像していた様な声ではなく、意外にも涼やかな印象を感じさせる声であった。
少々驚いた夢野であったが、鍵崎に促されて鳥居耀蔵の執務室に一人入って行く。
「戯作者の、夢野枕辺でございます」
作法に適った要領で襖を開けて部屋に入った夢野は、深々と頭を下げて名を名乗った。正直言って嫌いな相手ではあるが、だからと言ってそれを表には出さぬのが処世術というものだ。反骨精神も結構ではあるが、それを発揮する場はわきまえておかねばそれは匹夫の勇と同じである。
この場で、わざわざ町奉行に喧嘩を売る理由は無い。
「面を上げよ。今日はお前に礼を言おうと思って呼び出したのだ」
「礼……でございますか?」
意外な言葉に夢野は驚いた。今日は鳥居耀蔵のあだ名を理由に、言わば言いがかりをつけられて呼び出されてきたのである。その帰りに更なる呼び出しを奉行本人から受けたのだ。当然お𠮟りの追い討ちを食らうものと思っていた。
鳥居耀蔵は蝮の異名も持っており、執念深い人物だと噂されている。夢野に対する嫌がらせは与力に任せていたが、やはり自分からも面罵したくなったとしても、誰も不思議に思わないであろう。
それが礼とは如何なることであろう。夢野はあっけにとられたのであった。
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