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第二章 それぞれの誤解
6 涙
しおりを挟む将生が裏口の鍵を開けてすぐに、ドアノブが回り、まみが息を切らせて飛び込んできた。
将生は、相変わらず晴斗が泣き喚いているのにもかかわらず、まみの顔を見ると安心した。
そのまみが、将生の顔を見てぎょっとした表情になり、将生から目を逸らしてから、慌てて話しかける。
「よっ、夜泣きって、つらいですよねっ⁉︎」
その一言に、確かに夜泣きは大変だが、そんなに慌ててどうしたのだろう。と、不思議な感じがした。もちろん、晴斗を心配して走って来てくれたのだろうが…
まみは、将生の返答を待たずに、将生が両腕で抱き締めている晴斗に向けて手を広げると、
「だっこ!晴斗くんの抱っこ代わります!」
と、半ば強引に、晴斗を抱っこしようと手を伸ばしてくる。将生はその剣幕におされて、抱っこ紐を外そうと、まず首の後ろのバックルを外す。
まみは、ノロノロとしている将生に少し焦れながらも、バックルが外れた瞬間、抱っこ紐ごと晴斗を抱きしめようとする。背中のバックルは外したものの、まだ腰紐も付いたままだし、なにより肩紐が両肩にかかっている。
身長差もあるので、まみが晴斗を引っ張った拍子に、将生は前のめりになり、たたらを踏んだ。
育児者としての使命感に燃えているまみは、全く構わず、早く晴斗を渡して欲しいと、将生の方を見ずに晴斗を抱きしめようとする。
「肩紐も外してください!」
晴斗をなおも自分の胸に抱えようとするまみの勢いに、将生はまたまた転びそうになり、そのまままみごと抱き抱えることになる。
至近距離にまみの頭、晴斗を挟んでいるとはいえ、まみの柔らかい体を抱きしめることになり、将生は少なからず動揺した。
「やっ…矢野さん、…ちょっ、ちょっと落ち着いて…」
言われてまみは、ハッとして顔を上げる。間近に将生の顔があることに、ビクッと肩を揺する。
が、その後右手をそっと上げる。
まみが顔を上げたことにより、触れそうに近い柔らかな唇を、将生は、否応なく意識してしまった。まみの吐息が自分の唇に当たる。
(今唇同士が当たってしまったら、それは事故として片付けられるんじゃないか…)
といやに冷静な考えが頭をよぎる。
将生が、今好意を向けているまみと、これほど近くに顔を寄せられるチャンスなんて、そう無いだろう。
よくわからないが、今キスをしても、誰にも責められない気がする。
まみの唇を意識しながら、一瞬の間に、将生の頭の中で目まぐるしい考えが浮かんでは消える。
(もう、これは役得と思って!)
と、精神的に不安定な将生が短絡的な結論を出し、本当にキスをしようと目を閉じ始めたその時、
ふわっ
とあたたかいものが、左目の下に当たった。まみの右手親指が、将生の目の下をさわったのだ。
目を閉じるのをやめて、むしろ目を見開くと、まみの真剣な瞳とぶつかる。
「…夜泣き…よくあることですよ…」
まみの、優しい優しい声が聞こえてくる。
(……ヤッバ‼︎)
全くよくわからないが、自分の『キスしてもいいんじゃないか』というバカな考えを瞬時に否定する。
(ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ!)
将生は自分の頬を思いっきり引っ叩きたいくらい恥ずかしくなる。が、晴斗を抱っこしている手前、両手を自由に使うことはできない。
まみは、将生の頬から手を離し、晴斗へ目をやり、
「急がせてすみません。」
と、謝罪しながら、将生の肩紐も外すために将生の肩へ手を伸ばす。ゆっくりと肩紐を外す手伝いをしながら、
「ゆっくりで良いです。晴斗くん、抱っこさせてくださいね。」
と、やっぱり優しい声で将生に告げる。
将生は、まみに怒られこそすれ、優しくされるその意味がよくわからなかったが、まみの言うとおりに、晴斗をまみに渡す。抱っこ紐は、いまだに将生の腰からダランと垂れ下がっており、まみは晴斗のみを受けとると、ぎゅっと抱きしめる。
いつの間にか、晴斗はもう泣き喚いておらず、まみの胸の中に入ると、それはそれは嬉しそうな顔をした。
そんな晴斗の様子に、まみも笑顔になると、
「えっと、よそ様のおうちで申し訳ないのですが、リビングに入らせてもらっても良いでしょうか?」
と、将生に提案する。
それもそうだ。夜中に家の裏口でごちゃごちゃしてる場合ではない。隣の家と距離はあるものの、廊下で騒いでいたら、近所迷惑でもある。
「どっ、どうぞ、どうぞ‼︎」
将生が裏口へ続く狭いランドリールームの中で、身を壁によせる。できた隙間を、まみがペコっと一礼してから、リビングの方へ歩いて行った。
その後ろ姿を見送りながら、不埒な考えを起こしてしまった自分に罪悪感を感じる。そして、やっと自由になった右手で、おでこを叩くようにして押さえる。…と、その手のひらに、水滴が付いた。
「?」
と思いながら、その手を下に滑らせていくと、水滴の量が増えていく。
「……あっっっ‼︎」
先程まで自分が泣いていたことを思い出す。
自分でも意図したことではなかったため、意識にのぼらなかったのだが、頬の痒さからいって、かなり涙を流した気がする。しかも、両手で晴斗を抱き締めていたため、涙を拭うことをすっかり忘れていた。
心なしか、鼻水も垂れている気がする…。
将生は急いでランドリールームから出ると、玄関近くに設置してある鏡に己を写してみる。
そこには、鼻を赤くし、鼻水を垂らしながら、なんともみっともない顔をした男がしっかりと写っていた。
(ぼ…僕はこの泣き顔をさらしていたのか…⁉︎)
そういえば、まみは裏口から入ってすぐに、自分の顔を見てからぎょっとした顔をしていなかっただろうか。
キスしそうになった時、目の下を触られたが、あれはきっと目の下の涙を拭われたのでは…。
鏡の中の男が、みるみる赤くなっていく。それまでもみっともない表情だったが、もっと情けない顔に変わった。
(矢野さんの前で、この顔は情けなさすぎる…)
気になる年下の女の子の前で、鼻水垂らして涙を流している三十路手前の男…。
穴があったら入りたい、とはこのことだ。
仕事でも、プライベートでも、あまり失敗をしたことがない将生にとって、今回の出来事はかなりなトラウマになりそうだ。
と、将生の背後で、晴斗の嬉しそうな笑い声が聞こえた。
自分のことばかり考えていてはいけない、と将生は気を取り直して、もう一度、今度は両手で顔を覆うと、下に引き下ろし、鏡を睨んだ。
「よしっ」
恥ずかしい顔を見られてしまったことは、しかたない。後でしっかり反省しよう。それよりも、今は、晴斗の寝かしつけだ。
気持ちを切り替えて、後ろを振り向いた。
涙の跡をつけて将生が自分を出迎えた時は、とてもビックリしたけれど、そう言えば、まみ自身も、瑛斗がうまく寝てくれない時は、泣きたくなったものだ。
翌日に仕事を控えているあゆみや、母を、平日の夜中に起こすことは躊躇われたし、そういう夜泣きのためにまみがいるのに、「できない」とか「少し代わってて欲しい」なんて言えなかった。
「夜泣きするなんて、日中の過ごし方が悪いんじゃないか」とか、「夜泣きさせちゃうなんて、自分はなんてダメなんだ」とか、夜はどんどんマイナス思考に陥っていく。
その時の辛い気持ちが思い出されて、慣れない将生がどれだけ辛かったのか、想像すると悲しくなった。「夜泣きは当たり前によくあること」と伝えたかったが、うまく伝わっただろうか。
(泣くほど辛かったんだろうな…)
大の大人の、しかも男の人が泣いているところなんて見たことなかったまみとしては、実際に涙の跡をつけている将生に衝撃を受けた。
だが、辛い時に自分を頼ってくれたことが嬉しく感じたことと、…泣き顔を可愛く思えたことは、なんとなく内緒にしておいた方が良い気がしている。
晴斗は、抱っこされながら、お気に入りの二の腕を見つけて、またウトウトし始めた。抱っこ紐が将生の元にあるので、まみはしばらくリビングや子ども部屋で抱っこしながら歩き回り、最終的に昨日のマットレスの上に晴斗を横たえた。もちろん自分も一緒に横になる。
すると、子ども部屋の入り口から、将生がそーーっと顔を覗かせていることに気が付いた。その顔が、とても心配そうで…というか、まみには「ご迷惑をおかけして申し訳ない」と言っているように見えて、思わず微笑んでしまう。
『だいじょうぶですよ』
将生にむかって、音が出ないように口だけを動かしてそう言うと、将生の肩から少し力が抜けたように見えた。
そして、案の定・・・晴斗がグッスリ眠りにつく頃には、まみも共に寝落ちしていた。
もともとどこでもよく眠ってしまうまみである。布団の上で、赤ちゃんみたいな柔らかくてあたたかいものと一緒にいて、どうして起きていられると思ったのだろう。
今回は、顔が良く見える方向でまみが眠っていたため、将生はマットレスを回り込むことなく、部屋に入ってすぐに、まみの睡眠を確認することができた。
大の男が一緒にいる家の中で、なんとも無防備な、と将生は注意の一つもしたいくらいだったが、元はと言えば、夜中に呼び出したのは自分である。感謝こそすれ、文句を言う権利はない。
しかも、とっても安らかで可愛い寝顔を見せてもらって、将生にとっては嬉しいことばかりなのは、言うまでもない。
このまま、ここでずーっとまみを見ていたい気持ちはあるが、無意識のうちに手が出てしまう可能性も否定できない。そう思うと、将生は急いで自分の部屋に入った。
そして、気づいた。
本来なら、兄の状態にもっと頭を悩ませ続けていてもおかしくなかったのに、この2日間、ほとんど気に病む時間がなかった。
それは、晴斗の育児が頭を占めていたからと、まみといることが楽しかったからに他ならない。
兄の命がかかっている時に、不謹慎ではあるが、だからと言って、鬱々と過ごしていたとしたら、将生の方こそ体を壊しかねない。
できれば、このまま晴斗のつつがない成長と、まみとの良好な関係を続けていきたい。そもそも、まみ無しでは、晴斗のつつがない成長は無理なんじゃないか、とも思う。
今の将生にとって、まみは育児面で必要不可欠な人間だ。それは間違いない。だが、育児面だけではなく…もっと心の深いところにも関係しているだろうことを、将生は認識し始めていた。
久しぶりの、『人を想うこと』の甘い感覚に、将生は心地良さを感じていた。
そう、その翌日、まみに恋人がいると判明するまでは。
応援ありがとうございます!
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