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第三章 日常生活の始まり

3 月曜日の朝②

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 あゆみも将生を追うように6時過ぎには出勤した。

 そのあゆみの出勤前に一度、みんなでまみ達の家に戻る。
 あゆみが企業戦士に変身し、玄関から出勤するところを見送ると、まみも先程は急いでいてできなかった日焼け止めや歯磨きなど、身の回りのことを済ますせる。
 瑛斗も、園服への着替えや幼稚園準備を整えると、まみ達3人はまた裏口から将生の家に戻った。

 それから3人はテレビを見たり(日本のNHKか、ディズニーチャンネルが見られる)オモチャで遊んだり、少しのんびりして過ごす。

 8時ちょうどに裏口のブザーをわざわざ鳴らしてくれた後、鍵を使ってリアナさんが入ってきた。

「スラマッパギー」

 リビングに顔を出してくれたリアナさんに、インドネシア語の朝の挨拶を、まみのほうからしてみると、

「パギー」

 と、リアナさんが優しく微笑みながら返してくれた。
 そして、すぐに裏口の鍵をまみに両手で手渡す。彼女は、日本語がわからず、まみもインドネシア語がわからないので、話すことはできないのだが、リアナさんの優しい雰囲気は言葉が無くとも伝わってきて、まみはとてもホッとする。

 リアナさんは、鍵を手渡した後、すぐメイド部屋へ直行すると、荷物を置いて、着替えたようだ。
 そのまま当たり前のように、溜まっていた食器を洗い始めてくれた。

 赤ちゃんが居て、なかなか手が空かない育児者にとって、食べ終わった食器を、食器洗い機に入れる手間すらかけずに、きれいにしてもらえるなんて、夢のようだ。
 人によっては、食器洗い用洗剤の一回に使う量とか、洗い方とか、気に入らないと文句を言う人もいるようだが、まみにとっては、どんな洗い方だったとしても、ありがたいとしか思えない。
 食器洗いが終わると、将生の溜まった洗濯物をお風呂場から集めてきて、洗濯機へ入れていた。
 
 そして洗濯機を回し始めると、今度は掃除だ。

(すごいっ‼︎)

 この家の家事を一切やらずに、瑛斗の準備や晴斗と遊ぶことに、自分の時間を使える。

(これ、同じことが今うちでも行われているんだよね…)

 まみ達の家にも、お手伝いさんが来てくれることになっている。

 やっぱり、あゆみの前任者さんからの引き継ぎで、『マリア』さんという。彼女はキリスト教徒で、英語は日常会話程度、また日本語も少し話せるそうだ。月水金だけのリアナさんと違って、毎日午前中に来てくれる。

 かなりのベテランさんらしく、駐在員の入れ替わりが激しいジャカルタで、もうすでに20年近くあゆみの会社の御用達をしてくれている。

 あゆみも電話で話したことがあるうえ、前任者からのお墨付きで、裏口の合鍵も渡してある。この仕事は、やっぱり信頼関係が大きく、一度でも盗みや無断欠勤などの信頼を損ねることをすれば、2度目は無い。

 マリアさんはこの20年、信頼関係を結び続けているうえ、日本人の好みも熟知していることから、とてもありがたいお手伝いさんである。ということで…お値段もそれなりにお高いようだ。とはいえ、日本での家事代行サービスに比べれば10分の1くらいなのだが。
 
 マリアさんの勤務時間は、一応8時から12時とはなっているが、洗濯や掃除、アイロンがけなど、やるべき仕事が終われば、時間内でも帰って良い。頼めば、日本食も作ってくれる。その際、彼女はキリスト教徒なので、豚肉にも触れ、豚肉料理もお願いできる。

 イスラム教徒にとって、豚は不浄な生き物らしく、イスラム教徒のお手伝いさんの中には、豚肉料理ができない人もいる。日本人は比較的豚肉料理を好むので、この差はけっこう大事かもしれない。

 まみとしては、掃除や洗濯はまだしも、瑛斗やあゆみに食べさせるものは、手作りしたい、という気持ちがある。なので、マリアさんに「食事は作らなくて良い」と伝えてある。でも、晴斗の育児を担当するのなら、食事も作ってもらえたら助かるかもしれない。


(ワンオペしているお母さんからしたら、羨ましい環境だろうなぁ)

 とまみは思う。

 ちなみに、インドネシア生活後に、日本に帰った夫婦が離婚することが多いと聞く。
その理由が『日本に帰ったら、妻が家事を全然やらなくなった』というものがあるのだが…それもわかる気がする。
 このお手伝いさんありきの生活に慣れてしまうと、離婚後の旦那さんいはく『妻がダメになってしまう』のは当たり前ではないだろうか。

 『妻がダメになった』と発想する時点で、旦那さんにはもともと離婚される原因があると、まみなどは思うのだが…。未だ家事は女性中心と考えられがちな日本で、家事から解放される自由を知ってしまった女性が、今までのように家事を全部自分がやる、という生活には、戻れない気がする。


 でも、実際、まみとしては、すぐそばでリアナさんがせっせと働いているのに、こちらがのんびりしている、という状況はなんだか居心地が悪い。かと言って、彼女の仕事を取り上げて、自分がしゃしゃり出るのも違う気がして、どうしようもないザワザワ感を感じる。
 
 そうこうしているうちに、8:20になる。
 瑛斗の新しい幼稚園からのバスのお迎え時刻は8:30だ。そろそろ家を出た方が良いだろう。

 服装はもちろん、幼稚園に必要なものは全て準備されているので、あとはトイレに行けば準備万端だ。

「瑛斗、虫除けスプレーしようか。」

 玄関に行くと、まみの手提げから出した、日本製の虫除けスプレーを瑛斗にかける。
 人肌に優しいという謳い文句の虫除けスプレーだが、インドネシアの蚊は、日本よりも強い、と聞くので、効果がどのくらいなのかは不明だ。

 これは今後の課題でもあるのだが、『人に優しく、虫にも優しい』日本製の虫除けグッズか、『虫はイチコロ、人体にも害有り』インドネシア製の虫除けグッズを使うか。
 
 虫除けしたいなら、人体に害があっても良い、くらいの強いものでないと、こちらの虫には効かない。

 リマウナレジデンス周りは、業者さんのおかげで、かなり強めの薬剤が撒かれている。虫除けの点では安心だが、そこをお散歩する育児者としては、人体への悪影響も気になるところで…。

 とりあえず今は、『お守り』ていどの気持ちで、日本製の虫除けシールも貼る。

 晴斗もしっかり抱っこ紐の中に入る。
 今回はおんぶだ。玄関に、靴を移動させてから、リアナさんに声をかける。

「いってきます。」

 掃除機をかけていたが、リアナさんはこちらに気づき、笑顔で送り出してくれた。



「まみー!こっちだおー!」

 瑛斗がいつの間にそんなに進んでいたのか、先の方から振り返ってまみを呼ぶ。新しい幼稚園へ行くことに、張り切っているようだ。

 これから、幼稚園バスの来るメインゲートへ向かうところだが、昨日あゆみとお散歩して、地理を覚えた瑛斗は早い。
 対して、まみは一度入居の日に将生に連れられて、夜に一度見た知識のみである。

 朝と夜では、印象が全然違う。

 晴れ…てはいるのだろうが、南の海の写真などで見るような『青さ』はない。
 曇っている、というほどどんよりもしておらず、何と表現して良いかわからない。ジャカルタの大気が、排気ガスで汚れているからなのだろうか…。はては、また、スッキリした青空を見れる日が来るのだろうか。

 夜はライトアップが綺麗だったが、今は明るい分、爽やかな感じがする。

 大きなプールがメインであって、その脇を通ってメインゲートへ行くため、瑛斗が落ちてしまうのではないかと、少し心配になる。瑛斗のすぐ近くに居なくては。

「ちょっとそこで待ってて!」

 晴斗をおんぶした状態で走るのは、ちょっときつい。が、頑張って瑛斗に追いつくと、その小さな右手を掴む。 プールが右側にあるので、まみが右側を歩く。

「瑛斗、プールの近くは、私やママと一緒じゃなきゃダメだよ。深いんだから。」

 瑛斗は賢い子なので、話せばわかってくれることが多い。
 でも、やっぱり自分の欲求には正直なので、危なっかしいこともある。3歳児なのだから当たり前だ。

「ごめちゃい。」

 一応謝るのだが、どこまでわかっているのかはわからない。

 『怒ってる女性にはとりあえず謝っておこう』と、宏斗から教わっているのだ。
 でも、今回はきっとわかってくれただろう。

 まみと瑛斗が手を繋いでメインゲートまで行くと、前回と同じようにドアマンがドアを開けて、まみ達をメインゲート用のレセプションに招き入れてくれる。

「パギー」

 ドアマンがまみや瑛斗に向かって挨拶してくれる。まみはもちろん、瑛斗も同じように返す。

 『おはようございます』が『スラマッパギー』なら、『パギー』は『おはよう』みたいなものだ。『パギ』じたいは、『朝』の意味がある。

 瑛斗と同じ制服を着た男の子が、レセプション内を走り回っている。
 近くに母親らしき人の姿は見えないが、痩せたインドネシア人の女性が幼稚園リュックや水筒を持っている。 
 きっとお手伝いさんなのだろう。

 バス待ち場へ行けば、ママ友がすぐできるのかと思っていたまみは、少し肩透かしをくうのだが、まだ初日だし、そんなものかもしれない。と思い直す。

 瑛斗は特に走り回るわけではなく、興味深く周りを見回している。時に立ち上がって、ソファの後ろへ行ったり、窓から外を見たりしている。

 そうこうしているうちに、サクラ幼稚園のバスがメインゲート前に到着する。
 銀色の車体に、ピンク色の桜の花の絵が描かれたバスには、すでに何人もの子どもが乗っていた。
『SAKURA pre school』の文字は赤い。

 スモークガラスになっていて、バスの内部がはっきり見えないが、よーく覗き見ると、目鼻立ちからわかる、日本人の子どもが数人乗っていた。

 先程走り回っていた男の子が先に乗り込む。

「ふじきえいとくん、ですね?」

 園バスに乗っている、女性の先生が、持っているリストを見ながら、瑛斗を確認する。優しそうなインドネシア人だ。

「はい。藤木瑛斗です。今日からよろしくお願いします。」

 まみが答える。

「おかさん、だいじょぶですよー。よろしくおねがいしますねー。」

 つたない日本語を使いながら、瑛斗をバスに乗せてくれた。

「じゃあ、瑛斗、またお迎えにくるね!」

 まみが言うと、バスの中から瑛斗が真面目そうな顔で頷いた。やっぱり少し、緊張しているのだろう。
 まみは軽く手を振って、バスから離れる。

 瑛斗を乗せたバスは、ゆっくりとメインゲートから道路へと出ていった。
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