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弐
しおりを挟むハンナとの生活は、普通に幸せだった。
付き合い始めた後、ハンナが最寄駅近くのホテルや漫画喫茶などを転々としていることを知ると、すぐに同棲を始めた。
そのうち、彼女はドイツから旅行ビザで入国していたため、働くことができず、お金もなかったため、「私も働きたい」と言い出した。
新しく、働くことが可能になるビザを取得するため…結果、俺とすぐに結婚することになった。
「こんなに簡単に結婚しちゃって良いの?」
婚姻届を提出する時になって、ハンナが俺に聞いた。
俺は笑った。
「それ、普通は男から聞くもんじゃない?後悔してないか。とか。」
「後悔なんて無いよ。だって!私は会った時から結婚したいって言ってたでしょ?ノーと言ってたのは、タカの方だよ。」
「そりゃそーか。」
確かに、出会った頃から、ハンナは俺と結婚したいって言ってたな。
思い出すと、やっぱり笑えてきて、俺はまた笑った。
もう、俺の中で、ハンナのいない人生は考えられなかった。
病院で自覚した後にも、俺はどんどんどんどんハンナを好きになっていっていた。
ハンナとなら一生一緒にいたいって思っていた。
…一度も伝えてないけど。
「ねぇ。私と結婚して大丈夫?後悔はない?」
ハンナがまた、不安そうに聞いて来た。
2度目の俺なら言える。
『ハンナを愛してるから、結婚できて嬉しい』
って。
でも、この時の俺は、
「後悔なんてしてないし、これからだって絶対しないよ。」
と言うのが精一杯だった。
日本男児だということを言い訳にしたらいけないけど、簡単に『愛してる』なんて、言えない。
それに、言わなくたって、自分のハンナを愛する気持ちは、ちゃんと伝わってるって思ってた。
俺はハンナを大事にしているつもりだった。
それに、ハンナだって言わなかったけど、俺のことが好きだったんだろう?
だから、俺と結婚したいって初対面から言っていたんだろう?
あの時の俺は、そう信じて疑わなかった。
本当に馬鹿だった。
『結婚したい』🟰『愛してる』っていう図式が、当たり前に存在するって思っていたんだ。
例えそうだったとしても、声に出して言うべきだった。
少なくとも、結婚を決めた時、婚姻届を提出する時、日本男児だったとしても『愛してる』と伝えるチャンスはあったじゃないか。
そんな機会を有耶無耶にして逃したまま、俺とハンナは婚姻届を提出した。
ただ、予定していた日には提出できなかった。
国際結婚が、こんなに面倒なものだとは知らなかったし、証人だって、その辺の人に書いて貰えば良いと思っていた。
俺たちは、その日は役所の人に、『婚姻届の書き方』を伝授してもらい、改めて違う日に提出した。
またそこから、ハンナのビザを入手することも面倒な手続きがいろいろあったのだが…そのあたりは割愛する。
※ ※ ※
ハンナは、良い母親だったと思う。
女の子と男の子を1人ずつ、2歳差で産んでからは、彼女の愛情を惜しみなく与えて育ててくれた。
ハンナが子どもと笑い合っている姿をたくさん見たし、その度に、俺の心は満たされた。
『家族のために頑張ろう』って思えた。
ハンナは、子どもを大事にしていたうえに、俺にも優しかった。
何度も何度も『ハンナと結婚して良かった』って思った。
もちろん、伝えてはいなかったが…。
ハンナは、子ども達が学校で『ハーフ』であることにより、虐められることを、何よりも怖がっていた。
2人の子は、髪の色こそ、俺に似た、どちらかというと黒っぽい茶色の髪色だったが、さすがに目の色は、日本人のそれとは異なっていた。
色の白さや、顔立ちも、どうしても純日本人とはいえない様子で、よく言えば綺麗な子たちだったが、明らかに普通の日本人ではなかった。
ハンナは、日本の社会に溶け込むため、本人も正しい日本語を使うことを心掛けたし、子ども達にドイツ語を教えることもしなかった。
そうすることで、なんとか日本人らしくしていたのだと思う。
その甲斐あってか、子ども達は大きな事件、事故もなく、すくすくと育っていった。
俺は、家のことは全て、彼女に任せていた。
お茶1つ、満足に淹れられないくらい、家のことは何にもわかっていなかった。
なにしろ、俺の役割は、外で稼いでくることだと思っていたし、家のことはハンナに任せておけば大丈夫だと思っていた。
彼女が人知れず、何かに困っていたとしても、俺は気づきもしなかっただろう。
ハンナは、良き母で、良き妻であったことは間違いないが、俺が良き夫ではなかったことも、間違いない。
だって、俺は何も分かってなかったのだ。
※ ※ ※
70歳も間近になってきたある日、突然、ハンナは家の中で倒れてしまった。
脳梗塞だった。
俺は、共に暮らし、毎日一緒に過ごしていたのに、彼女の異変に全く気が付かなかったのだ。
幸い、仕事も引退して、家に居た俺が気付いて、すぐに救急車を呼ぶことができた。
処置も早く、そこで命を落とすことは無かったのだが、その後から、ハンナはめっきり変わってしまった。
口数が一気に減ってしまったのだ。
もともと、脳梗塞の後遺症に、言語機能の衰えというものはある。
だとしても、あんなに楽しそうに、たくさん話しかけてくれていたハンナが、1日に、一言、二言しか、話さなくなってしまったのだ。
外出も全くしなくなり、家の中だけで過ごすことが多くなった。
運動量が減った彼女の手足は、筋肉が落ちて痩せ細り、日常生活を送ることも苦しくなってしまった。
とはいえ、俺は家事ができないから、たちまち俺とハンナは、荒れた家の中で、生活することになる。
そんな状況をなんとかしなければならないと、2人の子たちとも話し合った結果、俺とハンナは、介護施設に入ることに決めた。
俺の蓄えは充分にあったし、それを使って、2人部屋のある介護施設に入居することが決まった。
しかし、ハンナは、引越しをするその日まで、施設に行くことを嫌がっていた。
素敵なパンフレットを見せても、スタッフさんからの心のこもった手紙を見せても、彼女の顔は曇ったままだ。
でもきっと、入居してしまえば気にいるだろう。
と、俺も子ども達もたかを括っていた。
しかし、入居してから数日で気がついた。
ハンナは俺以外の人と、コミュニケーションを取ることができない。
どうしてコミュニケーションが取れないのとかと、不思議に思って、よくよくハンナを見ていた。
そして、俺は、やっと気がついた。
彼女は、誰とも喋らなかった。
そう言われてみれば、俺とも喋っていない。
喋れなくとも、俺はハンナの1日のルーティンを知っていたし、彼女の言いたいことは、なんとなくわかる。
こちらの問いかけも、毎日大して変わらないから、頷いたり、首を振ったりするだけで、意思の疎通ができていた。
しかし、彼女の話し声を、最近全く聞いていないことに気が付いたのだ。
それから、少しして、俺は重大なことに気が付いた。
それは本当に些細なことから発覚した。
俺が、2人の部屋から少し離れた共有図書室から、本を探して帰ってきた時だ。
2人の部屋に近づくに連れて、久しぶりにハンナの声が聞こえてくることに気が付いた。
だが、しかし、なんとなく違和感を感じる。
俺はその違和感が何かをわからないまま、角を曲がって部屋の前まで来た。
すると、ハンナがとても困った声で、一生懸命に、施設のスタッフに話しかけている様子が見られた。
しかし、スタッフの方もとても困っていて…。
それもそのはずだ。
俺の感じた違和感。
ハンナは、ドイツ語を喋っていたのだ。
俺は急いでハンナの所まで行くと、スタッフに縋り付いていた手を離させる。
「ハンナ、どうした。俺はここにいるよ。」
ハンナは俺の顔を見ると、明らかにホッとした顔をした。
そして、スタッフさんに向かって
「ダンケ」
と言った。
俺は背筋が凍りついた。
なぜ、今、ドイツ語が出てくるのだ。
「ハンナ。ここは日本だよ。日本語じゃないと、スタッフさんに通じないじゃないか。日本語を話してごらん?」
俺がハンナにそう問いかけると、ハンナはニッコリと笑って、頷いた。
そして、何事もなかったかのように、そのまま部屋の中に入って行ってしまったのだ。
どうしたんだ。
気でも狂ってしまったのだろうか。
俺は、スタッフに一礼すると、すぐにハンナの後を追いかける。
「ハンナ!」
呼びかけると、ハンナは不思議そうな顔をしてこちらを振り向いた。
いつも通りのハンナに安心する。
「ハンナ、ビックリしたよ。そういえば、俺は君のドイツ語を、ちゃんと聞いたことがなかった気がする。」
俺の話を、ニコニコして聴いてくれている。
なんだ。
思い過ごしか。
俺はホッとして、続ける。
「なぁ、ハンナ。突然ドイツ語を話し出したら、みんなビックリするだろう?俺だってそうだ。なんて言っているか、わからないからな。」
ハンナは変わらずニコニコしている。
「ハンナ、ちゃんと日本語を喋ろう?さっき、スタッフさんに何て言っていたんだい?」
ハンナは変わらない。
ニコニコと俺の話を聴いている。
「ハンナ?」
ニコニコ顔のハンナ。
俺は、流石に違和感を拭えない。
「ハンナ。」
俺の呼びかけに、不穏な雰囲気を感じたのだろう。
ハンナはニコニコ笑っていた顔を辞め、目をパチパチする。
「なぁ、ハンナ。怒っているのかい?」
ハンナは相変わらず目をパチパチしていたが、だんだん困ったような顔をし始める。
「ハンナ?」
ハンナは何も答えない。
俺から目を逸らして、両手を閉じたり開いたりしている。
「ハンナ。意地悪するのは辞めてくれ…。」
俺の口の端が震える。
あぁ…なんてことだ…
「ハンナ…君は…」
最後まで、声に出すことができなかった。
俺はそこまで言うと、その場に崩れ落ちた。
ハンナが曖昧な顔をして、俺を見ている。
きっと彼女は俺より先に気がついていた
でも、それを伝えなかったんだ。
そして今、俺がそのことに気がついたことを知ったのだろう。
「…なんでなんだ…」
掠れた声が、涙と共に溢れてきた。
ハンナは、悲しそうな顔をして、俺の側に近寄ってきた。
見上げた俺の顔を、どうして良いかわからない、といった顔で、両手を握りしめている。
「いつからだ?」
返事はない。
「ハンナ、いつからわからないんだ?」
俺の問いかけに、ハンナは泣きそうな顔でフルフルと首を振っている。
俺の必死な問いかけに答えない。
それは、ハンナが意地悪をしているわけではなくて…。
ハンナは日本語を喋れない
そう。
俺の最愛の妻は、日本語を忘れてしまっていたのだ。
※ ※ ※
俺からの連絡で、子ども2人は、その日の夜に慌てて施設まで来てくれた。
息子の方は、来る途中で調べたらしく、数枚のコピー用紙を持っていた。
「急いでいたから、これしか調べられなかったけど…」
そう言って渡された用紙には、『人間、終末期には、第一言語しか残らない』『バイリンガルの人達が認知症になった場合、後から覚えた言語を忘れて母国語しか喋れなくなる』というような内容が、書かれていた。
あんなに流暢に日本語を喋っていたのに。ドイツ語なんて、ここ50年くらい、一度も喋っていなかったのに…。
彼女が脳梗塞の後、突然口数が減ったのは、後遺症はもちろんのこと、日本語がわからなくなっていたからではないだろうか。
ハンナは、それでもなんとか、俺と2人だけの生活なら、日本語がわからないことも隠して生活できるのではないかと思ったのかもしれない。
…どちらにしろ、推測だ。
ハンナが何を考えていたのか、どうしたいのか、もう俺にはわからないからだ。
ハンナは、突然現れた子ども達に、最初は困ったような顔をしていたが、途中からは、嬉しそうに笑っている。
「とりあえず、ドイツ語の辞書や、翻訳機能付きの電子辞書なんかを、近いうちに持ってくるね。」
娘は、現実的な提案をすると、『もう遅いから』と言って、息子と共に帰って行った。
俺は、どうしたら良い。
今日の今日まで、俺の言葉が、ハンナに伝わってなかったとは思わなかったのだ。
明日から…今から、俺はどうしたらいい。
そう思っても、俺はこの気持ちをハンナに伝えることができなかった。
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