死に際まで話していたい

相鵜 絵緒

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 あの日から2日以内に、娘が電子辞書とドイツ語の辞書を差し入れてくれた。

 しかし、俺もハンナも、細かい文字を読むのは、もう辛くなってきているので、スタッフさんにお願いして、翻訳機の音声での翻訳方法を教えてもらった。

 2人で試行錯誤しながら、翻訳機を使った時に、最初にハンナが翻訳した言葉は、意外にも『ごめん』だった。

『なにが?』

『あなたに黙っていた』

『日本語がわからないこと?』

『そうです。』

 ハンナはハンナなりに、思うところはあるらしい。

『俺が気づかなかった。悪い。ごめん。』

 俺も謝ると、ハンナは笑って

『好き』

 と言ってくれた。

 俺は、

『翻訳機に言われても嬉しくない』

 と返した。

 すると、ハンナは、もう一度『好き』という音を翻訳機で聞いてから、

「すき」

 と言ってくれた。

 俺は、照れてしまって、

「…ダンケ」

 と答えるにとどめた。

 そんな意気地なしの俺に、ハンナは、しわくちゃの顔で微笑んでくれた。

※  ※  ※

 1月の寒い日だった。

 ハンナが熱を出して倒れた。

 ハンナは、苦しそうな呼吸をしながら救急車で病院へと運ばれた。

 施設内に、憎きインフルエンザが猛威を振るっているということは聞いていた。

 だから、2人とも手洗いうがいはよくしていたし、何より予防接種だって打っていた。

 例えインフルエンザに罹っていたとしても、タミフルなり、なんなりの薬を飲んで、点滴を少ししたら、また、2人の部屋に帰ってくる。

 俺はそう信じて疑わなかった。

 なのに…

 夜になって、突然俺は呼び出された。

「急いで病院へ行ってください。」

 スタッフの人にそう言われて、俺は取るものもとりあえず、呼んでもらったタクシーに乗って病院へと向かった。

 病院には、すでに息子が来ており、病院の入り口で俺を見つけると、病室まで案内してくれた。

「ハンナも、大袈裟だな。一緒に予防接種したんだから、すぐに治るはずなのにな。」

 俺は、廊下を歩きながら、そう息子に声をかけた。

 しかし、隣を歩く息子は、チラリとこちらを見たきり、何も言わなかった。

 息子は、普通の診察室や病室をどんどんと通り過ぎて行く。

「えらく遠くまで行くんだな。もしかして、個人部屋か?」

 息子は何も言わない。

「集団部屋だと、ハンナは日本語がわからないから、ストレスになるもんな。これから入院するのなら、翻訳機で、欲しいものを聴いてやらないと。」

 その時、俺は、あまりに急ぎ過ぎて、翻訳機を忘れてきたことに気がついた。

「あ!」

 俺はそこで、足を止める。

 俺が止まってしまったので、息子も仕方なく止まってくれた。

 コートのポケットをゴソゴソしながら、俺は言った。

「翻訳機、忘れてきちゃったよ。これじゃ、ハンナの欲しいものがわからない。こりゃ困ったな。今から取りに戻っても良いかな?」

 息子は、そんな俺を、可哀想なものを見るみたいな顔で見ていた。

「なぁ、ハンナが欲しいものを言えないと、可哀想だよな。入院するなら、いろいろと物入りだろ。」

 息子は片手で顔を覆った。
 一度、大きく深呼吸をしてから、

「…翻訳機は…後で届けようよ。」

 絞り出すような声で、息子はそう言った。

「…そうか…。そうだな。まずはハンナの顔を見ないとな。」

 何か喋っていないと、何か大きなものに取り憑かれてしまいそうな気がした。

「そうか、そうだよな…。」

 息子は、再びどんどんと進み始める。

 たぶん、そっちには、重症患者しかいないんじゃないか。

 そんなところに、ハンナがいるわけがないだろう。

 個人部屋で、俺が来るのを待っているんじゃないのか。

 俺はそんな言葉を飲み込んだ。

 怖くて、そんなことはとてもじゃないが聞けなかった。


 そうして、やっと歩みの止まった息子が、入るように促した部屋には…。

 たくさんの管が付けられ、白い顔をしたハンナが横たわっていた。

 ベッド横の椅子には、すでに娘が座っている。

 娘は、俺と息子に気がつくと、憔悴しきった顔でこちらを振り向いた。

「お父さん…。お母さんが…もう、もう…」

 俺は、娘の言葉が耳に入ってこなかった。

 娘が座っていた椅子を避けて、ハンナに近づく。

「ハンナ。俺だよ。会いにきたよ。」

 ハンナが息をするたびに、シューシューと、機械の音がした。

「予防接種したから、大丈夫だよ。薬飲んだらすぐに治るからな。」

 そう言ってから気がついた。

 翻訳機が無い俺の言葉は、ハンナには届かない。

 俺は振り返って、息子に言った。

「やっぱり、翻訳機がいるなぁ。ハンナ、俺の言ってること、わからないと思うんだ。ちょっと、取りに行ってこようかな。」

 俺が、その場を離れようとした時、娘が立ち上がって、大きな声で言った。

「お父さん!もう、時間無いんだって!翻訳機を取りに行ってたら、お父さん、間に合わないよ?」

 怒ったような言い方に、俺は肩をすくめて答える。

「間に合わないって…。そんな、すぐに戻ってくるよ。このまま入院するだろうから、ハンナにはなおさら翻訳機がいるだろう?看護師さんや、お医者さんにも、言いたいことが伝わらないじゃ無いか。」

 俺がそう言って、廊下に出ようとすると、今度は白衣を着た男の人が、俺を呼び止めた。
 様子から見るに、医者だろうか。

「本当に、お時間ありません。後悔なさらないように…。」

 その言葉に、俺はゆっくりと振り返る。

「後悔…。」

 俺は目を閉じた。

 頭の中が、ぐるぐると回る。

 おい、一体どうしたんだ。

 みんな、おかしいぞ。

 ハンナは熱が出て、病院にいるだけじゃないか。

 そう思ったけれど、やっぱり飲み込んだ。

 さすがに、こんなに真っ白で、ピクリとも動かないハンナを見せられて、能天気なことを考えていられるわけがない。

 あぁ…

 夢の中にいるみたいだ。

 本当に、夢ならいいのに。

 そう思って目を開けてみたが、俺の居場所も、目の前のハンナも、先ほど見た時と変わらない。

 俺は一度、大きく深呼吸をした。

「このまま、言葉が通じないことも、どちらにしろ後悔なんだがなぁ…」

 その言葉を聞いた医者が、唇をキツく引き結ぶのが見えた。

 娘や息子の顔を見ても、鎮痛な顔をしていて、『俺がここを離れること』が、彼らにとって『後悔』になるのだろう、と感じ取った。

 ふぅ

 もう一度息を吐いてから、ハンナの近くに戻ることにした。

 娘が先ほどまで座っていた椅子を、ハンナの頭の近くに引き寄せ、俺はそこに座った。

「ハンナ…。もう俺の言葉が届かないのかな…。」

 ハンナは、何も言わない。

 呼吸と共に鳴る機械音だけが、彼女が生きていることを伝えてくれている。

「ハンナ、こうなって、俺は初めて後悔していることがあるよ。」

 俺は両手を強く握りしめた。

「ハンナの国の言葉を、俺はどうして勉強してこなかったのかなぁ。」

 両手にもっと力を入れる。

「ハンナに、言いたかった言葉があるんだけど…俺は、…それを…知らない。」

 ほっぺたが痒い。
 
 何か、水が流れたのだろう。

「ダンケ」

 俺は、唯一知っているドイツ語を言ってみた。

「ダンケ」

「ダンケ」
 
「ダンケ」

「ダンケ」

 ………

 俺は何度も何度も繰り返した。


 そうしてから思う。

「足りないなぁ。何回言っても足りない。」

 こんなに足りないのなら、もっともっとたくさん言っておけば良かった。

「俺の言葉はもうは届かないけど、言わせて欲しい。」

 息子と娘が、後ろで、声を殺して泣いているのがわかった。

「ハンナといられて幸せだった。ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう……」

 感謝の言葉は、やっぱり言い足りなかった。

 それに、俺が本当に言いたかった言葉は、
 
『愛している』

 だ。

「ドイツ語で…なんて…言うのかな…。」

『ピーーーーーッッッ』

 機械音が高く鳴り響き、途端に、周りが騒がしくなる。

 看護師が俺に近寄ってきて、それとなくハンナから離された。

 息子と娘と俺と、3人はいつの間にか部屋の外に出されていた。

「なぁ…。ハンナの方は、俺に何か言いたいことはなかったのかなぁ。」

 愚痴でも、お叱りの言葉でも、何でも良いから、聴くつもりだったのに。

 ハンカチを押し当てて泣いてる娘も、硬く握った拳を鼻の下に当てている息子も、その問いに答えてはくれなかった。

 俺は、そんなにすぐには泣けなかった。

 とはいえ、さっきからずっと瞼から下のほっぺが痒いのだが、これは勝手に流れているもので、俺の心とは関係がない。

 だって、まだ受け入れられない。

 ハンナとの人生が、ここで終わりだなんて、俺には、まだ…

 到底受け入れられることはできないんだ。

「言いたいことが…言いたいことが、まだまだたくさんあるんだよ…」

 誰も答えてはくれないため、独り言になってしまう。

 ハンナなら、こういう時、なんて言ってくれるんだろう。

 もう、しばらく翻訳機越しの声しか聴いていない。

 あぁ…ハンナ…

 ハンナ…


※  ※  ※
 

 ハンナが居なくなってから、俺は1人部屋に移された。

 ハンナのいない毎日は、全くもって味気なくって、早くハンナが迎えにきてくれないか、ということばかり考えていた。

 ハンナが居なくなった冬の次の夏、あまりに毎日が暑過ぎて、エアコン漬けになっていた。
 そんな毎日は、いつのまにか俺から食欲をも奪っていたようだ。

 2ヶ月に1度くらいの割合で、会いにきてくれる娘と息子の両方に、痩せたことを指摘されてしまった。

 心配させないよう、ちゃんと食べなくてはいけないな。

 俺はそう思ったはずだった。
 

 夜中にふと頭痛を感じて目が覚めた。

 身体を起こそうとして気がついた。

 手足が痺れている。

 たしか、『熱中症』の症状に、頭痛や手足の痺れがあったように思われる。

 こんな時のために、ナースコールがあるはずなのに、一度も使ったことがない俺には、どこにあるのかがわからなかった。

 目を閉じてみると、目の奥で天井が回るかのような不快感が襲ってくる。

 誰かを呼ばなくては…

 そうは思っても、動くことができなかった。

 頭の中がぐーるぐーると回っている。

 もう、目を開けているのか、閉じているのかもわからない。

 あぁ…

 俺はこのまま死んでしまうのか…

 そう考えても、全く恐怖心は湧いてこなかった。

 むしろ、ハンナに会えるかと思うと、気が休まるくらいだ。

 ハンナ…

 そちらには、翻訳機はあるかい?

 俺と、話してくれるかな。

 今度こそ、ちゃんとドイツ語を学ぶから、ちょっとずつ、俺に教えてくれないか?

 ぐーるぐーると回り続ける世界。

 少し、気持ちが悪くなり、吐き気を感じる。

 ぐーるぐーる…

 ぐーるぐーる…

 回る回る…

 このままどこまでも回る回る…

 ぐーるぐーる…

 ぐーるぐーる…


『ピピピピピピピッッッ』

 はっと目覚めた俺は、身体が軽いことに気がついた。

 頭痛も消えている。

 おそるおそる身体を起こしてみてから、俺は周りの景色に唖然とする。

「…こ…ここは…」

 俺が寝ていたのは、施設のベッドなどではなく、数十年前に住んでいた、あの、1人で寂しく暮らしていたアパートであった。

 
 







 

 
 

 



 
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