【完結】最初で最後の男が、地味で平凡な俺でいいんですか？

12

　手早く栄養を摂取できるゼリー飲料とスポーツドリンクを携えて、俺は雨情の仕事場を訪れた。

「晴久……。久しぶり」

　玄関口に現れた雨情は、頬がこけていた。無精ひげによって、顔色がくすんでいるように感じられる。
　俺は靴を脱いだ。雨情のあとを追いかけて、仕事部屋に入る。
　雨情の机の上には、ドクロウの絵が何枚も広げられていた。

「キャラクターを殺すのは今回が初めてじゃない。でも、ドクロウは勝手が違った。生きたい、死にたくないって、俺に訴えかけてくるんだ」
「……雨情」
「俺、情けないよな。テメェが選んだ道なのに、責任の大きさにビビって晴久を呼んで」

　漫画には多くの人の希望が託されている。『ヨミガエリ・ビリー』のような大ヒット作ともなれば、さまざまな意見や要望が寄せられることだろう。

「これ、飲んで」
「……ありがと」

　雨情がゼリー飲料を吸う。
　クールだとばかり思っていた男の目には、泣いた跡があった。

「晴久。俺、もう続き描けないかもしれない」
「怖くなったのか？　ＳＮＳの反応とか、前のおまえなら気にしなかっただろう」
「連載が進むにつれて、『ヨミエガエリ・ビリー』が俺だけのものじゃなくなった」

　雨情はスポーツドリンクに口をつけると、息を吐いた。

「漫画家って最高。多くの人を乗せて旅する宇宙船の船長みたいだって思ってたけど、今の俺はどうだ？　ドクロウを葬り去った鬼畜だよ。もう誰も作品を読んでくれないかもしれない」
「雨情。おまえはおまえの信じた道を行け」

　俺はペン立てから油性ペンを拝借した。そして、雨情の手の甲に角が生えた猫のキャラクターを描いた。幼い頃に俺が考えたキャラクター、ニャンスケだ。

「ニャンスケか。懐かしいな」
「昔を思い出せ。おまえは自由だった。描きたいものを描いて、漫画を愛してた。ニャンスケの絵が手の甲から消えるまで、元気を取り戻せよ」
「晴久ってやっぱり兄貴だよな。年は一緒でも」

　雨情は手の甲に描かれたニャンスケのイラストを愛おしそうに撫でた。

「原稿が修羅場の時、晴久のことを思い出すんだ。おまえは会社員として堅実な人生を歩んでいる。連載が終われば無職の俺とは違う。晴久は……俺のヒーローなんだ」
「俺みたいな地味キャラがヒーローでいいのか？」
「今日だってすぐに駆けつけてくれたじゃないか。晴久は自分が思っている以上にカッコいいよ」

　クールな雨情から熱っぽい言葉を送られて、俺は照れた。俺たちは正反対の人生を選んだけれども、こうやって相手の力になることができる。

「雨情、もう大丈夫だな？」
「うん。ありがとう」
「じゃあ、俺は戻るよ」
「晴久、好きな人ができた？」
「……まあな」
「今度はその人とここに遊びに来てよ」

　雨情が玄関口まで見送ってくれた。
　俺たちは視線を交わした。雨情の目は光を湛えていて、迷いはもう感じられなかった。

「忘れるなよ？　おまえは独りじゃないから」
「晴久が俺の兄貴でよかった」
「俺も……雨情が弟でよかったよ」

　拳と拳を合わせる。
　俺は雨情の仕事場をあとにした。