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第5話 ロマンス小説と賭け
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パッと目が覚めた。
俺は隣にある浴室で洗顔を済ませた。愛用の眼鏡をかけて、黒いフードを頭から被る。
まだ空が明けきっていない。窓の外を何気なく見やれば、剣の稽古に励むメルキオールの姿が見えた。
朝食まで間があるので、俺は庭に出た。
メルキオールは俺の存在に気づくと、大きく手を振った。
「おはようございます、ジュスト殿!」
「……おはよ」
「よく眠れましたか?」
「おかげ様で疲れはとれた」
その時、俺のお腹がぐーっと鳴った。俺が顔を赤らめると、メルキオールが微笑んだ。
「厨房に行って、何かつまみますか」
「邪魔にならないか?」
「私もしょっちゅうやるので大丈夫ですよ」
メルキオールは一礼すると、構えていた木剣を下ろした。稽古の際も礼節を重んじるあたり、さすがは近衛騎士といったところか。
肩を並べて厨房へ向かう。
改めて見ると、メルキオールはいい体をしている。上腕は盛り上がっているし、腰回りはたくましい。それなのに顔立ちは甘くて、泣きぼくろが艶っぽい。こんな美男、女性が放っておかないのではないか?
「あんた、モテるだろ」
「私は自分から行きたいタイプなので、相手から迫られるのは苦手です。ところで、ジュスト殿はどうして眼鏡をかけるのですか? 綺麗な目を隠してしまうのは勿体無いのに」
「裸眼だと余計なものが見えちまうからな。……昨日はごめん。あんたの胸に咲いた白薔薇を勝手に刈ろうとした」
「いいのですよ。男に愛を向けられても困るでしょうから」
メルキオールは左胸に手を当てた。
「私には見えませんが、ここに白い薔薇が咲いているのですね」
「まだ蕾だけどな」
「薔薇が開花するように、養分を摂取しなくては。ジュスト殿のことを教えてください」
「俺はただのチンピラだ」
「ご出身はどちらで?」
「サイレス湖の近くだ」
「いいところじゃないですか。私は王都生まれなので、ふるさとがある方が羨ましい」
邪気のない笑顔を向けられ、俺は戸惑った。
メルキオールっていい人すぎないか? こんなに純粋で大丈夫なのだろうか。宮中は陰謀が渦巻く伏魔殿だろうに。
世間の汚れにまみれない無垢な魂の持ち主か。
やっぱり俺とは合わない。俺は占い師として人間の欲望や妄想を嫌と言うほど見てきたからな。
厨房に着くと、メルキオールが料理人たちに声をかけた。
「おはよう、みんな。すまんが、軽くつまめるものをくれ」
「待っていましたよ、大将」
料理長とおぼしき巨漢が、ひと口サンドがのっかった皿をメルキオールに渡した。
「用意していてくれたのか。ありがとう」
「朝の稽古のあとで小腹が空いたでしょう。お客人もどうぞ、ご賞味ください」
「……ありがとうございます」
俺はメルキオールに連れられ、彼の自室に足を踏み入れた。
暖炉の上に、短剣が飾られている。装飾品のたぐいはなく、書架には本が並んでいる。お堅い本の隣に「愛のつぶて」というタイトルのロマンス小説が置かれているのが微笑ましい。俺が口元を緩めると、メルキオールが「あ!」と叫んだ。
「今のジュスト殿の表情。すごく柔和で……綺麗でした」
「そうかい。まだ寝ぼけてるんじゃねぇの」
「あなたは美人だから、懸想をされないように眼鏡をかけたりフードを被ったりして自衛しているのですね」
「あと数年もすれば、顔がたるんできて誰の目も引かなくなるさ」
「……容姿に関するお話はお嫌いでしたか。失礼しました」
「随分と素直に謝るんだな。俺が知ってる騎士は傲慢な奴が多かった」
メルキオールといると、騎士に対するイメージが変わっていく。俺にとって騎士は路地裏に査察に来る、邪魔くさい連中でしかなかった。おまけに、俺の顎を掴んで上を向かせ、キスをしようとした奴もいた。権力をカサに着て威張っている騎士というものが俺は大の苦手だった。
「騎士も、鎧を脱げばただの人間です」
「……あんたって変わってる」
「よく言われます」
俺がロマンス小説「愛のつぶて」をちらちらと見ていると、メルキオールが「お貸ししましょうか?」と言った。本は高価である。俺は断ろうとしたが、好奇心に負けた。恋愛嫌いの俺であるが、恋愛をしたがる人間の心理には職業柄、興味がある。ロマンス小説を読めば、恋愛に関する新たな知見を得られるかもしれない。
「ありがとう。……あんたが不在の時に、従者に返すようにするから」
「また会う口実ができたと思ったのですが、ジュスト殿はガードが堅いですね」
メルキオールが苦笑しながら、前髪をかき上げる。何気ない仕草も絵になる男だ。
だからと言って、メルキオールに惚れたりはしないけど。
俺はロマンス小説を受け取った。
「泣ける話ですよ」
「まさか」
「では、この本を読んで落涙したら私に会いに来てください」
「もしも俺が泣かなかったら?」
「逆立ちをしたまま広場を一周してみせましょう」
メルキオールはかなり自信があるらしい。「ジュスト殿の泣き顔が見たいですなあ」とおおらかに微笑んでいる。
……こいつといると、なんだか古なじみの友人と話しているような心地になる。社会的な立場は全然違うけど、年が近いからかな。
ふたりの相性がいいからだとは思いたくなかった。
悪魔のカードが出るほど執着心の強い男との恋愛は遠慮したい。俺にとっては自由が一番大事なのだから。
「朝食の準備が整いました」
従者が呼びに来たので、俺たちは食堂へ向かった。
目玉焼きに厚切りのベーコン。ふかふかのパン。そして新鮮な果物。俺は出されたものをすべて平らげた。
「また遊びに来てください」
「……近日、本を返しに来る。でも、あんたとは会わない」
「そうですか。残念ですが、ジュスト殿のお気持ちが一番ですからね」
メルキオールはそれ以上、しつこく言ってこなかった。
俺は一礼をして、メルキオールの屋敷を辞した。
◇◇◇
メルキオールの屋敷から帰宅したあと、俺の元に仕事の依頼が次々と舞い込んできた。俺は忙殺された。占い師だけでなく、縁切り屋としても活躍した。
一週間が経ち、ようやく時間がとれた。
俺は自室でメルキオールに借りたロマンス小説「愛のつぶて」を読んでみた。
なんだこれは……!?
作者はかなりの手だれなのだろう。情景も登場人物の心境も胸に迫ってくる。目の前に作品世界が見えるかのようだ。言葉だけで綴られた物語とはとても思えない。
しかも、主人公の少年が健気で泣ける……。主人公が不幸な環境にも負けず、相手役の男と結ばれた瞬間、俺は涙を流した。
賭けは俺の負けだった。
メルキオール邸に行く理由ができてしまった。
「ジュストさーん。このあいだはお泊まりだったみたいだね」
同じ長屋に住んでいる娼婦のメリジューヌが俺の部屋に顔を出した。メリジューヌと俺は同郷のよしみで仲良くしている。俺にとっては妹のような存在だ。
「ついに春が来たんだ?」
「いや。たまたま、ふかふかのベッドにありつける機会があっただけだ」
「あれっ? その本、もしかして騎士メルキオールの著書じゃないの?」
「えっ。この本の作者って、メルキオールなのか!?」
中身に気を取られていて、表紙をあまり観察していなかった。確かに、メルキオール・アコーズ作と書いてある。
「もしかして知り合い?」
「先日、こいつの家に泊まった」
「へーっ。手を出されなかった?」
「あいつはそういう奴じゃない」
「そうなの? 娼館で流れてる噂と違うね。最近、メルキオールという名前の騎士がひと晩に何人もの娼婦を抱き潰したって聞いたけどなあ」
あいつも人間だからセックスぐらいするだろう。
そう思ったけれども、俺の心は霧を吸い込んだかのようにモヤモヤと曇った。
ふーん。娼婦と楽しく遊んだんだ。あいつの胸に咲いた白い薔薇はとっくに枯れ果てているのではないか? この目で確かめないと気が済まない。
「ちょっと伝令を頼みに行って来る」
「はーい」
俺はメリジューヌと別れ、外に出た。
俺は隣にある浴室で洗顔を済ませた。愛用の眼鏡をかけて、黒いフードを頭から被る。
まだ空が明けきっていない。窓の外を何気なく見やれば、剣の稽古に励むメルキオールの姿が見えた。
朝食まで間があるので、俺は庭に出た。
メルキオールは俺の存在に気づくと、大きく手を振った。
「おはようございます、ジュスト殿!」
「……おはよ」
「よく眠れましたか?」
「おかげ様で疲れはとれた」
その時、俺のお腹がぐーっと鳴った。俺が顔を赤らめると、メルキオールが微笑んだ。
「厨房に行って、何かつまみますか」
「邪魔にならないか?」
「私もしょっちゅうやるので大丈夫ですよ」
メルキオールは一礼すると、構えていた木剣を下ろした。稽古の際も礼節を重んじるあたり、さすがは近衛騎士といったところか。
肩を並べて厨房へ向かう。
改めて見ると、メルキオールはいい体をしている。上腕は盛り上がっているし、腰回りはたくましい。それなのに顔立ちは甘くて、泣きぼくろが艶っぽい。こんな美男、女性が放っておかないのではないか?
「あんた、モテるだろ」
「私は自分から行きたいタイプなので、相手から迫られるのは苦手です。ところで、ジュスト殿はどうして眼鏡をかけるのですか? 綺麗な目を隠してしまうのは勿体無いのに」
「裸眼だと余計なものが見えちまうからな。……昨日はごめん。あんたの胸に咲いた白薔薇を勝手に刈ろうとした」
「いいのですよ。男に愛を向けられても困るでしょうから」
メルキオールは左胸に手を当てた。
「私には見えませんが、ここに白い薔薇が咲いているのですね」
「まだ蕾だけどな」
「薔薇が開花するように、養分を摂取しなくては。ジュスト殿のことを教えてください」
「俺はただのチンピラだ」
「ご出身はどちらで?」
「サイレス湖の近くだ」
「いいところじゃないですか。私は王都生まれなので、ふるさとがある方が羨ましい」
邪気のない笑顔を向けられ、俺は戸惑った。
メルキオールっていい人すぎないか? こんなに純粋で大丈夫なのだろうか。宮中は陰謀が渦巻く伏魔殿だろうに。
世間の汚れにまみれない無垢な魂の持ち主か。
やっぱり俺とは合わない。俺は占い師として人間の欲望や妄想を嫌と言うほど見てきたからな。
厨房に着くと、メルキオールが料理人たちに声をかけた。
「おはよう、みんな。すまんが、軽くつまめるものをくれ」
「待っていましたよ、大将」
料理長とおぼしき巨漢が、ひと口サンドがのっかった皿をメルキオールに渡した。
「用意していてくれたのか。ありがとう」
「朝の稽古のあとで小腹が空いたでしょう。お客人もどうぞ、ご賞味ください」
「……ありがとうございます」
俺はメルキオールに連れられ、彼の自室に足を踏み入れた。
暖炉の上に、短剣が飾られている。装飾品のたぐいはなく、書架には本が並んでいる。お堅い本の隣に「愛のつぶて」というタイトルのロマンス小説が置かれているのが微笑ましい。俺が口元を緩めると、メルキオールが「あ!」と叫んだ。
「今のジュスト殿の表情。すごく柔和で……綺麗でした」
「そうかい。まだ寝ぼけてるんじゃねぇの」
「あなたは美人だから、懸想をされないように眼鏡をかけたりフードを被ったりして自衛しているのですね」
「あと数年もすれば、顔がたるんできて誰の目も引かなくなるさ」
「……容姿に関するお話はお嫌いでしたか。失礼しました」
「随分と素直に謝るんだな。俺が知ってる騎士は傲慢な奴が多かった」
メルキオールといると、騎士に対するイメージが変わっていく。俺にとって騎士は路地裏に査察に来る、邪魔くさい連中でしかなかった。おまけに、俺の顎を掴んで上を向かせ、キスをしようとした奴もいた。権力をカサに着て威張っている騎士というものが俺は大の苦手だった。
「騎士も、鎧を脱げばただの人間です」
「……あんたって変わってる」
「よく言われます」
俺がロマンス小説「愛のつぶて」をちらちらと見ていると、メルキオールが「お貸ししましょうか?」と言った。本は高価である。俺は断ろうとしたが、好奇心に負けた。恋愛嫌いの俺であるが、恋愛をしたがる人間の心理には職業柄、興味がある。ロマンス小説を読めば、恋愛に関する新たな知見を得られるかもしれない。
「ありがとう。……あんたが不在の時に、従者に返すようにするから」
「また会う口実ができたと思ったのですが、ジュスト殿はガードが堅いですね」
メルキオールが苦笑しながら、前髪をかき上げる。何気ない仕草も絵になる男だ。
だからと言って、メルキオールに惚れたりはしないけど。
俺はロマンス小説を受け取った。
「泣ける話ですよ」
「まさか」
「では、この本を読んで落涙したら私に会いに来てください」
「もしも俺が泣かなかったら?」
「逆立ちをしたまま広場を一周してみせましょう」
メルキオールはかなり自信があるらしい。「ジュスト殿の泣き顔が見たいですなあ」とおおらかに微笑んでいる。
……こいつといると、なんだか古なじみの友人と話しているような心地になる。社会的な立場は全然違うけど、年が近いからかな。
ふたりの相性がいいからだとは思いたくなかった。
悪魔のカードが出るほど執着心の強い男との恋愛は遠慮したい。俺にとっては自由が一番大事なのだから。
「朝食の準備が整いました」
従者が呼びに来たので、俺たちは食堂へ向かった。
目玉焼きに厚切りのベーコン。ふかふかのパン。そして新鮮な果物。俺は出されたものをすべて平らげた。
「また遊びに来てください」
「……近日、本を返しに来る。でも、あんたとは会わない」
「そうですか。残念ですが、ジュスト殿のお気持ちが一番ですからね」
メルキオールはそれ以上、しつこく言ってこなかった。
俺は一礼をして、メルキオールの屋敷を辞した。
◇◇◇
メルキオールの屋敷から帰宅したあと、俺の元に仕事の依頼が次々と舞い込んできた。俺は忙殺された。占い師だけでなく、縁切り屋としても活躍した。
一週間が経ち、ようやく時間がとれた。
俺は自室でメルキオールに借りたロマンス小説「愛のつぶて」を読んでみた。
なんだこれは……!?
作者はかなりの手だれなのだろう。情景も登場人物の心境も胸に迫ってくる。目の前に作品世界が見えるかのようだ。言葉だけで綴られた物語とはとても思えない。
しかも、主人公の少年が健気で泣ける……。主人公が不幸な環境にも負けず、相手役の男と結ばれた瞬間、俺は涙を流した。
賭けは俺の負けだった。
メルキオール邸に行く理由ができてしまった。
「ジュストさーん。このあいだはお泊まりだったみたいだね」
同じ長屋に住んでいる娼婦のメリジューヌが俺の部屋に顔を出した。メリジューヌと俺は同郷のよしみで仲良くしている。俺にとっては妹のような存在だ。
「ついに春が来たんだ?」
「いや。たまたま、ふかふかのベッドにありつける機会があっただけだ」
「あれっ? その本、もしかして騎士メルキオールの著書じゃないの?」
「えっ。この本の作者って、メルキオールなのか!?」
中身に気を取られていて、表紙をあまり観察していなかった。確かに、メルキオール・アコーズ作と書いてある。
「もしかして知り合い?」
「先日、こいつの家に泊まった」
「へーっ。手を出されなかった?」
「あいつはそういう奴じゃない」
「そうなの? 娼館で流れてる噂と違うね。最近、メルキオールという名前の騎士がひと晩に何人もの娼婦を抱き潰したって聞いたけどなあ」
あいつも人間だからセックスぐらいするだろう。
そう思ったけれども、俺の心は霧を吸い込んだかのようにモヤモヤと曇った。
ふーん。娼婦と楽しく遊んだんだ。あいつの胸に咲いた白い薔薇はとっくに枯れ果てているのではないか? この目で確かめないと気が済まない。
「ちょっと伝令を頼みに行って来る」
「はーい」
俺はメリジューヌと別れ、外に出た。
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