【完結】サボテンになれない俺は、愛の蜜に溺れたい

古井重箱

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 仕事を終えてアパートに帰るまでのあいだ、随分と雨を浴びてしまった。
 陽翔は濡れたTシャツを脱ぎ捨てて、シャワーで体を清めた。
 湯上がりにプロ野球に関する動画を眺めるのが陽翔のルーティンだ。でも、今夜は店長からの宿題がある。野沢の調理スキルを伸ばすため、陽翔はもっと教え上手にならないといけない。
 「仕事、教え方」というキーワードでネットを検索したところ、コーチングという言葉に出会った。
 陽翔は自室のベッドの上で、コーチングについて解説した動画を視聴した。
 傾聴、フィードバックといった耳慣れない単語が出てきた。
 もっと詳しく知りたいと思っていると、動画の終わりにコーチングに関する書籍が紹介された。「実践コーチング入門」というタイトルの本を読めばコーチングについてより詳しくなれるらしい。
 明日は定休日だ。
 陽翔は書店に行くことにした。


◆◆◆


 初めて訪れた七階建ての大型書店は迷宮のようだった。
 見渡す限り本が並んでいて、どこにコーチングの本が置いてあるかさっぱり分からない。フロアにいるのは客ばかりで、スタッフの姿を見つけることができなかった。
 店の奥にあるレジには多くの人が並んでいる。忙しそうなレジ担当スタッフに質問をするのはためらわれた。
 無数の本に囲まれていると、トラウマがよみがえってきた。
 高校時代、友人の愛読書を借りたことがある。有名な作家が書いた恋愛小説だった。
 だが、陽翔はその小説の主人公の心情を理解することができなかった。配偶者がいるのに昔の恋人に頻繁に会おうとする主人公の行動に疑問を持った。率直な感想を友人に伝えると、「陽翔は文学音痴だなあ」と呆れられた。
 友人いわく、現実世界の倫理観を小説に当てはめるのはナンセンスらしい。イマジネーションを駆使してリアルから羽ばたくのが小説の醍醐味だと言われた。陽翔は自分の想像力のなさを恥じた。
 それ以来、小説というものを避けている。ネットやテレビでベストセラー小説が取り上げられても、買って読んだりはしない。陽翔にとって小説を読むことは娯楽ではなく、想像力の有無を問われるテストのように感じられる。
 それに、本というメディアはとても不親切だと陽翔は思う。
 動画は音声や映像で物事を分かりやすく伝えてくれる。でも本は自分で活字を追いかけて、内容を噛み砕いていかないといけない。
 店内をさまよっているうちに、気分が悪くなってきた。本の背表紙を眺めているだけで、文字に酔ってしまったらしい。
 青い顔をしてトイレへと歩き出す。
 トイレの個室に入ったが、吐くまでには至らなかった。
 手を洗ってトイレをあとにする。
 さて、どうしたものか。
 売り場の片隅で立ち尽くしていると、ほっそりとした長身の男性に声をかけられた。

「顔色が優れないようですが、大丈夫ですか?」
「はい……」

 男性は色白で、鼻筋の通ったイケメンだった。切れ長の目に理知的な光が宿っている。書店が似合う、賢そうな人だ。
 陽翔は男性に尋ねた。

「あの、コーチングに関する本って、どこにありますか?」
「ビジネス書コーナーですね。一緒に行きましょうか」
「いいんですか。お時間、取らせちゃいますけど」
「気にしないで。僕もちょうど行くところだったから」
 
 男性は二階にあるビジネス書コーナーに陽翔を案内してくれた。

「あった! これです」

 面陳された新刊書の群れのなかに、探していた本「実践コーチング入門」を見つけた。
 目当ての本が見つかって心が晴れた。案内してくれた男性のおかげだ。
 陽翔が笑顔を向けると、男性が目を細めた。

「ありがとうございます。親切にしていただいて」
「いえ。お役に立てて嬉しいです」
「あの……よかったら、俺が働いてる店のサービス券を受け取ってくれませんか?」

 財布のカード入れから赤銅色の紙片を取り出し、男性に渡す。

「バー<クロスファイア>? クロスファイアって野球用語ですよね。スポーツバーですか」

 陽翔は己の失敗を悟り、青くなった。
 バー<クロスファイア>は新宿二丁目にある、自分と同じ性的指向の男性が集う店だ。ショップカードの色が円福飯店のサービス券と似ているから間違えてしまった。

「失礼しました! お渡ししたいのは、こっちです」

 陽翔は円福飯店のチャーハン無料券を差し出した。
 男性は優しい笑みを浮かべて、チャーハン無料券を受け取ってくれた。

「俺、町中華で働いてて。味には自信があります。ぜひ来てみてください」
「××駅から徒歩三分ですか。ビジネス街のど真ん中ですね」
「ランチは十一時半からです。ちょっと並ぶかもしれないですけど」
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「それじゃあ、僕はこれで」

 爽やかな微笑みを残して、男性は本の森に消えていった。
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