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第二章 妹の企みと護衛の葛藤――巫女を巡る静かな戦い
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夜更け。フィルベルト城の一角にある小さな部屋の扉が、音もなく開いた。
ゼルグラードは眠っていなかった。この任務において、彼はエルミナの警護と監視を兼ねて、隣室に詰めている。ふと、空気の流れが変わった。気配が動く。扉の影に目を凝らすと、そこに白い影がすっと差し込んだ。
(……抜け出したか)
静かに扉を押し開け、音を立てずに外に出る。床に靴音を残さぬよう、歩幅を最小にし月明かりの下を追った。
――エルミナ。
彼女は薄い夜着のまま、ひとり中庭へ向かっていた。風にあおられて揺れる袖口、そして裾。月光がその身に注がれるたび、白く透き通るような肌が、布越しに浮かび上がる。
(……)
一瞬、ゼルグラードの視線が釘付けになった。柔らかな胸のふくらみ。時折露わになる細い肩。そして、布の下に隠されている青い紋章が脳内に浮かぶ。男としての衝動が、鋭い杭のように心に打ち込まれる。そのまま踏み出しかけた足を、彼は無理に止めた。
(何を考えている。俺は……ただの護衛だ)
だがその心の奥で、別の疑念が頭をもたげる。
(まさか――男と落ち合うのでは……?)
理由もなく、胸の奥がざらついた。あの細い肩を、誰かが抱こうとしているのでは――そんな想像に、わずかに拳が震える。
寒風が吹き抜ける初春の中庭。彼女は怯むことなく、一直線に庭の片隅へと進んでいく。そこには、ひとりの老婆が立っていた。
エルミナの姿を見た途端、老婆は駆け寄るようにして彼女の腕を掴む。
「……エルミナ様! こんな寒空の下、夜着のままなんて……」
「ゾーイ、私はね。ただ庭に出て月を見に来ただけなの。誰かに見咎められたなら、そう言うわ」
エルミナは笑って老婆に告げた。
「ならば、……せめて、これを!」
老婆は黒っぽい厚手の外套を差し出した。
「これを纏って……今すぐ、ここから逃げましょう。裏門は今、開いています。あの山道を越えれば……、後のことは全てこの婆やが!」
老婆の声は必死だった。だが、エルミナは静かに首を横に振った。
「……婆や。これは、私が選んだ道なの。グランティアに嫁ぐことは、とても名誉なことですもの。私、嬉しいのよ。もちろん、婆やとの別れは寂しいけれど」
「でも、でも……! あの方は、老神官様は……あなたがいなければ、あの方は……!」
「……知ってるわ。だから、お願い。神官様のこと、婆やが見ていて」そう言って、エルミナはもう一度笑った。ぎこちなく、けれど精一杯に。
老婆は泣きながら、手に持った黒い外套を無理やり彼女の肩にかけた。
「なら、せめてこれだけは……身体を冷やしてはなりません。どうか、どうか、お気をつけて」
「ありがとう。婆やも元気で」
その言葉と共に、エルミナは老婆を抱きしめた。小さな白い手で、痩せた背中をそっと撫でる。
「さあ、行ってちょうだい。誰かに見咎められないうちに早く」エルミナの声には、覚悟の色が宿っていた。老婆は嗚咽をこらえながら、やがてその場を去っていった。
中庭に残されたのは、黒っぽい外套を纏った白い娘ただひとり。
エルミナはその場に膝をついた。外套の中に顔を埋める。黒布に包まれた細い身体が、静かに震えていた。細い足首が、月明かりに照らされて淡く光っている。
(……泣いているのか)
ゼルグラードは、気配を殺したまま彼女を見つめていた。
黒い外套に映える白い肌。まるで、夜に咲く雪の花。
その姿が、彼の胸の奥を激しく打った。
(……この娘を、王のもとへ連れて行かねばならぬのだな)
彼女の弱さ。健気さ。清らかさ。それは男としてのゼルグラードの欲望を駆り立てるものだった。(……いっそ、俺が連れ去ることが出来たなら)
浮かんできたその思いを、ゼルグラードは拳を握ることで抑え込んだ。心が揺れてはいけない。任務を忘れてはならない。彼女の存在は、王に捧げられるための“器”――そのが全てだ。
ゼルグラードは感情を抑え込み、ただ護衛の対象としてエルミナを見ようとした。
エルミナは、ゼルグラードが見ていることに気づかぬまま、静かに立ち上がった。夜空に浮かぶ月を見上げ、静かに呟く。「これでいい、これでいいのよ……」その声は、月の光のように儚く揺らいでいた。それから、黒い外套越しに自分の体を抱きしめるようにして、再び部屋へと戻っていった。
ゼルグラードもまた、黙ってその背を見送った。そして、一つ用事を済ませ部屋へ戻った。
その夜、彼は夢を見た。――黒布に包まれ、月に照らされて泣いていた娘。その白い肩を、強く抱きしめた夢を。
* * *
出立の朝。冷えた朝の光が、灰色の石壁を鈍く照らしていた。フィルベルトの王宮、その裏門に二頭の馬が待たされていた。
長身の男が、その馬の傍らに立っていた。ゼルグラード。大国グランティアの王に仕える近衛隊長。漆黒の髪、深く彫られた顔。左の頬には古傷、逞しい胸板と、無駄のない太い腕。その姿には、どんな人間でも一瞥で本能的な“強さ”を感じるだろう。ただの戦士ではない。理性と忠誠を胸に秘め、任務を前に動じることのない、グランティア王グランフェリスの側近だ。
「姫様をお連れいたしました」
侍女の声が響く。濃い青色の衣装を纏った一人の人物。長く裾を引くようなのフィルベルト特有のローブに身を包んだエルミナだ。衣装の裾が風に揺れ、白い足首がちらりと覗く。
「派手すぎる」
ゼルグラードの声は低く、鋼のように硬かった。
侍女が恐る恐る告げる。「王妃様の命令ですわ。大国に嫁ぐのですから、相応の…」
「目的はただ一つ。王に“無事に”届けること。それだけだ。派手な装いは標的になる」
彼は短くそう言うと、エルミナの細い腕を軽く引いた。男の手は温かく、だが容赦なく力強かった。
「着替えろ。もっと目立たぬ外套を着るんだ」
エルミナの黒い瞳が、わずかに揺れた。そして静かに頷いた。彼女の手に、昨夜婆やから渡された黒い外套が抱えられていた。控えめな布、襟元に小さなフィルベルトの刺繍が一つだけ。そして何より手縫いの温かさがあった。
「これを着て、出立致します」
初めて見せた微笑みだった。小さく、かすかなもの。だが、ゼルグラードの中に、何かが強く蠢いた。
(この笑顔を、俺だけのものにしたい)
彼はその感情を、深く沈める。「それでいい。目立たぬ方が都合がいい。俺に一緒に居れば、従者の少年のように思われるだろう……」
口ではそう言いながら、内心では別の声が鳴っていた。
(あの白い肌を知っているのは、俺だけだ)(誰にも見せたくない。触れさせたくない)
男としての独占欲。獣の本能。だがゼルグラードはそれを理性で封じ込めた。この娘は王に捧げる“花”。摘む資格があるのは、彼の主君ただ一人だけなのだから。
「準備は整ったようね」
冷ややかな声が響いた。王妃マルセラだった。その隣には、感情の読めぬ王ロルドの姿があった。彼はただ娘を見つめるだけで、何も言わず小さく咳をしただけだった。
そして、リリエンナ。彼女は高窓の奥から旅立つ姉の姿を見下ろしていた。赤く塗られた唇が、わずかに吊り上がった。
(さあ、守り切れるかしらね? エルミナの純潔を――)
ゼルグラードが手綱を引き、馬にまたがる。エルミナは小柄な体を外套に包み、彼に続いた。
まるで少年のような装い。長身のゼルグラードと共にあれば、外套越しには子供のように見えてしまう。通りがかりの兵ですら、彼女をエルミナとは気づかなかった。
だがゼルグラードは知っていた。その外套の下に、誰にも触れられていない白い肌があることを。まだ一度も契りを交わしていない、清らかな身体があることを。その証を、この目で見た。
(俺が守る。誰にも汚させない)
戦場で培った勘が働いた。エルミナに向けられる、“視線”。誰かが、この娘を狙っている。
(この旅は、ただの護送ではない。これは戦いだ)
ゼルグラードは無言でその大きな体を盾のように傾けた。エルミナの身体を、視線から遠ざけるように。
二頭の馬が、静かに王宮を発った。朝の霧の中へと、姿を消していく。
* * *
王宮を出て一刻ほど経った頃、ゼルグラードは馬上で隣を見た。
思いのほか、彼女は馬を巧みに操っていた。身体は小さい。だが、鞍の上での姿勢はまっすぐに伸び、揺れにもうまく馴染んでいる。風に靡く黒髪も、凛としていた。
「……乗り慣れているな。姫君とは思えん」
ゼルグラードの声に、エルミナはふとこちらを見た。
そして、どこか遠くを見るような目で、小さく微笑んだ。
「フィルベルトの民ですから。……馬車は、山道に向かないのです」
その言葉に、ゼルグラードは短く頷いた。
確かに、ヴィエンリンガの山裾にあるこの小国では、馬こそが最良の移動手段だ。この娘は、かつて王宮ではなく神殿にいた。王女というよりも、巫女。王族としての贅沢を与えられずに育ったことが、むしろ今の旅には都合が良かった。
ふと、馬の足が自然に緩んだ。視線の先、遠くの山の稜線に向けて、エルミナが目を凝らしていた。――神殿のある方角だった。
ゼルグラードは声をかけなかった。ただ、彼女の静かな横顔を見つめた。少女は黙ったまま、何かを胸の内に飲み込んでいた。
「……グランティアからでも、手紙は送ることができる」
ゼルグラードの声が静かに耳に届く。驚いたように、エルミナが彼を見る。「……本当、ですか?」
「必要なら、文を預かってやろう」
彼女は息を飲み、それからほんのわずかに目を潤ませた。
「それなら……婆やと、神官様に。わたくしは元気ですと、幸せに暮らしていますと……そう伝えます」
その言葉には、精一杯の虚勢が込められていた。誰も不幸にならないように。誰も心配しないように。そのためだけに、少女は強くあろうとしていた。
ゼルグラードは何も言わずに頷いた。男の横顔を見つめながら、エルミナはふと思った。
(なぜ、この方は……わたくしが手紙を出したいと、分かったのだろう?)
それは、謁見の間での出来事を思い出させた。あの場でも、誰よりも先に彼は動き、ローブをはだけさせたわたくしに優しく接してくれた。無理に触れもせず。ただ、その目だけで、すべてを見届けてくれた。
――この方は、ただの使者ではないのかもしれない。“護衛”ではなく、“人”として。
「……ありがとうございます。ご親切、忘れません」
エルミナは丁寧に礼を述べた。ゼルグラードは目を伏せ、軽く頷いた。そして、次の瞬間には、鋭く声を低めた。
「いいか、ここから先は外の世界だ。声は極力出すな。フードも被っておけ、少年のように振る舞うんだ。特に――男には気を許すな」
少し強い語気に、エルミナは驚いたように目を見開いた。
「……なぜ、ですか? なぜ女性と気づかれてはいけないのです? 顔を隠さなければならない理由は……?」
ゼルグラードは、馬上でわずかに眉を動かした。だが、ため息をつくように視線をそらした。
(……無自覚すぎる)
――あれほどの美しさ。白い肌、胸元の印、伏し目がちの瞳。男なら、誰もが奪いたくなるだろう。だが、この娘はそれに気づいていない。自分がどれほど“価値ある存在”であるかを。
けれど、その危うさがまた、男の庇護欲を掻き立てた。
「理由など、いずれ知る。今は――俺の言うことを守れ」
その言葉は、護衛としての命令だった。だが同時に、ゼルグラードの独占欲の表れでもあった。
(俺以外の誰にも、お前の声を聞かせるな)(俺以外の誰にも、お前の顔を見せるな)
エルミナは少しの沈黙のあと、小さく頷いた。
「……分かりました。お言葉、守ります」
そしてまた、前を向いた。その背を見つめながら、ゼルグラードは手綱を握り直す。
(俺が守る。誰にも渡さない――)
風が、黒外套の裾を巻き上げた。少女の細い足首が、ひと瞬きだけ風に晒された。
それを見たゼルグラードの喉が、ごくりと鳴った。だが、視線をすぐに前へ戻す。
理性の火は、消してはならないものなのだ。
ゼルグラードは眠っていなかった。この任務において、彼はエルミナの警護と監視を兼ねて、隣室に詰めている。ふと、空気の流れが変わった。気配が動く。扉の影に目を凝らすと、そこに白い影がすっと差し込んだ。
(……抜け出したか)
静かに扉を押し開け、音を立てずに外に出る。床に靴音を残さぬよう、歩幅を最小にし月明かりの下を追った。
――エルミナ。
彼女は薄い夜着のまま、ひとり中庭へ向かっていた。風にあおられて揺れる袖口、そして裾。月光がその身に注がれるたび、白く透き通るような肌が、布越しに浮かび上がる。
(……)
一瞬、ゼルグラードの視線が釘付けになった。柔らかな胸のふくらみ。時折露わになる細い肩。そして、布の下に隠されている青い紋章が脳内に浮かぶ。男としての衝動が、鋭い杭のように心に打ち込まれる。そのまま踏み出しかけた足を、彼は無理に止めた。
(何を考えている。俺は……ただの護衛だ)
だがその心の奥で、別の疑念が頭をもたげる。
(まさか――男と落ち合うのでは……?)
理由もなく、胸の奥がざらついた。あの細い肩を、誰かが抱こうとしているのでは――そんな想像に、わずかに拳が震える。
寒風が吹き抜ける初春の中庭。彼女は怯むことなく、一直線に庭の片隅へと進んでいく。そこには、ひとりの老婆が立っていた。
エルミナの姿を見た途端、老婆は駆け寄るようにして彼女の腕を掴む。
「……エルミナ様! こんな寒空の下、夜着のままなんて……」
「ゾーイ、私はね。ただ庭に出て月を見に来ただけなの。誰かに見咎められたなら、そう言うわ」
エルミナは笑って老婆に告げた。
「ならば、……せめて、これを!」
老婆は黒っぽい厚手の外套を差し出した。
「これを纏って……今すぐ、ここから逃げましょう。裏門は今、開いています。あの山道を越えれば……、後のことは全てこの婆やが!」
老婆の声は必死だった。だが、エルミナは静かに首を横に振った。
「……婆や。これは、私が選んだ道なの。グランティアに嫁ぐことは、とても名誉なことですもの。私、嬉しいのよ。もちろん、婆やとの別れは寂しいけれど」
「でも、でも……! あの方は、老神官様は……あなたがいなければ、あの方は……!」
「……知ってるわ。だから、お願い。神官様のこと、婆やが見ていて」そう言って、エルミナはもう一度笑った。ぎこちなく、けれど精一杯に。
老婆は泣きながら、手に持った黒い外套を無理やり彼女の肩にかけた。
「なら、せめてこれだけは……身体を冷やしてはなりません。どうか、どうか、お気をつけて」
「ありがとう。婆やも元気で」
その言葉と共に、エルミナは老婆を抱きしめた。小さな白い手で、痩せた背中をそっと撫でる。
「さあ、行ってちょうだい。誰かに見咎められないうちに早く」エルミナの声には、覚悟の色が宿っていた。老婆は嗚咽をこらえながら、やがてその場を去っていった。
中庭に残されたのは、黒っぽい外套を纏った白い娘ただひとり。
エルミナはその場に膝をついた。外套の中に顔を埋める。黒布に包まれた細い身体が、静かに震えていた。細い足首が、月明かりに照らされて淡く光っている。
(……泣いているのか)
ゼルグラードは、気配を殺したまま彼女を見つめていた。
黒い外套に映える白い肌。まるで、夜に咲く雪の花。
その姿が、彼の胸の奥を激しく打った。
(……この娘を、王のもとへ連れて行かねばならぬのだな)
彼女の弱さ。健気さ。清らかさ。それは男としてのゼルグラードの欲望を駆り立てるものだった。(……いっそ、俺が連れ去ることが出来たなら)
浮かんできたその思いを、ゼルグラードは拳を握ることで抑え込んだ。心が揺れてはいけない。任務を忘れてはならない。彼女の存在は、王に捧げられるための“器”――そのが全てだ。
ゼルグラードは感情を抑え込み、ただ護衛の対象としてエルミナを見ようとした。
エルミナは、ゼルグラードが見ていることに気づかぬまま、静かに立ち上がった。夜空に浮かぶ月を見上げ、静かに呟く。「これでいい、これでいいのよ……」その声は、月の光のように儚く揺らいでいた。それから、黒い外套越しに自分の体を抱きしめるようにして、再び部屋へと戻っていった。
ゼルグラードもまた、黙ってその背を見送った。そして、一つ用事を済ませ部屋へ戻った。
その夜、彼は夢を見た。――黒布に包まれ、月に照らされて泣いていた娘。その白い肩を、強く抱きしめた夢を。
* * *
出立の朝。冷えた朝の光が、灰色の石壁を鈍く照らしていた。フィルベルトの王宮、その裏門に二頭の馬が待たされていた。
長身の男が、その馬の傍らに立っていた。ゼルグラード。大国グランティアの王に仕える近衛隊長。漆黒の髪、深く彫られた顔。左の頬には古傷、逞しい胸板と、無駄のない太い腕。その姿には、どんな人間でも一瞥で本能的な“強さ”を感じるだろう。ただの戦士ではない。理性と忠誠を胸に秘め、任務を前に動じることのない、グランティア王グランフェリスの側近だ。
「姫様をお連れいたしました」
侍女の声が響く。濃い青色の衣装を纏った一人の人物。長く裾を引くようなのフィルベルト特有のローブに身を包んだエルミナだ。衣装の裾が風に揺れ、白い足首がちらりと覗く。
「派手すぎる」
ゼルグラードの声は低く、鋼のように硬かった。
侍女が恐る恐る告げる。「王妃様の命令ですわ。大国に嫁ぐのですから、相応の…」
「目的はただ一つ。王に“無事に”届けること。それだけだ。派手な装いは標的になる」
彼は短くそう言うと、エルミナの細い腕を軽く引いた。男の手は温かく、だが容赦なく力強かった。
「着替えろ。もっと目立たぬ外套を着るんだ」
エルミナの黒い瞳が、わずかに揺れた。そして静かに頷いた。彼女の手に、昨夜婆やから渡された黒い外套が抱えられていた。控えめな布、襟元に小さなフィルベルトの刺繍が一つだけ。そして何より手縫いの温かさがあった。
「これを着て、出立致します」
初めて見せた微笑みだった。小さく、かすかなもの。だが、ゼルグラードの中に、何かが強く蠢いた。
(この笑顔を、俺だけのものにしたい)
彼はその感情を、深く沈める。「それでいい。目立たぬ方が都合がいい。俺に一緒に居れば、従者の少年のように思われるだろう……」
口ではそう言いながら、内心では別の声が鳴っていた。
(あの白い肌を知っているのは、俺だけだ)(誰にも見せたくない。触れさせたくない)
男としての独占欲。獣の本能。だがゼルグラードはそれを理性で封じ込めた。この娘は王に捧げる“花”。摘む資格があるのは、彼の主君ただ一人だけなのだから。
「準備は整ったようね」
冷ややかな声が響いた。王妃マルセラだった。その隣には、感情の読めぬ王ロルドの姿があった。彼はただ娘を見つめるだけで、何も言わず小さく咳をしただけだった。
そして、リリエンナ。彼女は高窓の奥から旅立つ姉の姿を見下ろしていた。赤く塗られた唇が、わずかに吊り上がった。
(さあ、守り切れるかしらね? エルミナの純潔を――)
ゼルグラードが手綱を引き、馬にまたがる。エルミナは小柄な体を外套に包み、彼に続いた。
まるで少年のような装い。長身のゼルグラードと共にあれば、外套越しには子供のように見えてしまう。通りがかりの兵ですら、彼女をエルミナとは気づかなかった。
だがゼルグラードは知っていた。その外套の下に、誰にも触れられていない白い肌があることを。まだ一度も契りを交わしていない、清らかな身体があることを。その証を、この目で見た。
(俺が守る。誰にも汚させない)
戦場で培った勘が働いた。エルミナに向けられる、“視線”。誰かが、この娘を狙っている。
(この旅は、ただの護送ではない。これは戦いだ)
ゼルグラードは無言でその大きな体を盾のように傾けた。エルミナの身体を、視線から遠ざけるように。
二頭の馬が、静かに王宮を発った。朝の霧の中へと、姿を消していく。
* * *
王宮を出て一刻ほど経った頃、ゼルグラードは馬上で隣を見た。
思いのほか、彼女は馬を巧みに操っていた。身体は小さい。だが、鞍の上での姿勢はまっすぐに伸び、揺れにもうまく馴染んでいる。風に靡く黒髪も、凛としていた。
「……乗り慣れているな。姫君とは思えん」
ゼルグラードの声に、エルミナはふとこちらを見た。
そして、どこか遠くを見るような目で、小さく微笑んだ。
「フィルベルトの民ですから。……馬車は、山道に向かないのです」
その言葉に、ゼルグラードは短く頷いた。
確かに、ヴィエンリンガの山裾にあるこの小国では、馬こそが最良の移動手段だ。この娘は、かつて王宮ではなく神殿にいた。王女というよりも、巫女。王族としての贅沢を与えられずに育ったことが、むしろ今の旅には都合が良かった。
ふと、馬の足が自然に緩んだ。視線の先、遠くの山の稜線に向けて、エルミナが目を凝らしていた。――神殿のある方角だった。
ゼルグラードは声をかけなかった。ただ、彼女の静かな横顔を見つめた。少女は黙ったまま、何かを胸の内に飲み込んでいた。
「……グランティアからでも、手紙は送ることができる」
ゼルグラードの声が静かに耳に届く。驚いたように、エルミナが彼を見る。「……本当、ですか?」
「必要なら、文を預かってやろう」
彼女は息を飲み、それからほんのわずかに目を潤ませた。
「それなら……婆やと、神官様に。わたくしは元気ですと、幸せに暮らしていますと……そう伝えます」
その言葉には、精一杯の虚勢が込められていた。誰も不幸にならないように。誰も心配しないように。そのためだけに、少女は強くあろうとしていた。
ゼルグラードは何も言わずに頷いた。男の横顔を見つめながら、エルミナはふと思った。
(なぜ、この方は……わたくしが手紙を出したいと、分かったのだろう?)
それは、謁見の間での出来事を思い出させた。あの場でも、誰よりも先に彼は動き、ローブをはだけさせたわたくしに優しく接してくれた。無理に触れもせず。ただ、その目だけで、すべてを見届けてくれた。
――この方は、ただの使者ではないのかもしれない。“護衛”ではなく、“人”として。
「……ありがとうございます。ご親切、忘れません」
エルミナは丁寧に礼を述べた。ゼルグラードは目を伏せ、軽く頷いた。そして、次の瞬間には、鋭く声を低めた。
「いいか、ここから先は外の世界だ。声は極力出すな。フードも被っておけ、少年のように振る舞うんだ。特に――男には気を許すな」
少し強い語気に、エルミナは驚いたように目を見開いた。
「……なぜ、ですか? なぜ女性と気づかれてはいけないのです? 顔を隠さなければならない理由は……?」
ゼルグラードは、馬上でわずかに眉を動かした。だが、ため息をつくように視線をそらした。
(……無自覚すぎる)
――あれほどの美しさ。白い肌、胸元の印、伏し目がちの瞳。男なら、誰もが奪いたくなるだろう。だが、この娘はそれに気づいていない。自分がどれほど“価値ある存在”であるかを。
けれど、その危うさがまた、男の庇護欲を掻き立てた。
「理由など、いずれ知る。今は――俺の言うことを守れ」
その言葉は、護衛としての命令だった。だが同時に、ゼルグラードの独占欲の表れでもあった。
(俺以外の誰にも、お前の声を聞かせるな)(俺以外の誰にも、お前の顔を見せるな)
エルミナは少しの沈黙のあと、小さく頷いた。
「……分かりました。お言葉、守ります」
そしてまた、前を向いた。その背を見つめながら、ゼルグラードは手綱を握り直す。
(俺が守る。誰にも渡さない――)
風が、黒外套の裾を巻き上げた。少女の細い足首が、ひと瞬きだけ風に晒された。
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