純潔巫女姫 × 無骨護衛――触れたくて触れられない、儚い距離の境界

土井中 未子

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第八章 捧げる相手

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ようやく笑いを収めたジルダは、ふと静かになった。エルミナの頬に手を伸ばし、そっと指先でなぞる。その仕草は、まるで壊れやすい宝物を扱うかのように優しかった。

「ジルダさん……?」

声をかけようとしたエルミナに、ジルダはいつもの冗談めかした調子で応じた。

「こんな時に悪いんだけど、エルミナちゃん。あなた、私から情報を買ってくれないかしら?」

「……情報、ですか?」

ジルダは唇の端を上げ、どこか含みのある笑みを浮かべる。

「そう、情報。あなたの“ゼル様”についてなんだけどね」

“ゼル様”のところで一瞬吹き出しそうになったが、なんとか堪えた。

エルミナはほんの少し顔を赤らめながら、それでも迷うことなく荷物の中から皮袋を取り出し、ジルダに差し出す。中には金貨がたっぷり入っていた。

ジルダはそれを手に取るも、すぐに渋い顔をして首をかしげた。

「あら、足りないみたい」

その言葉に、エルミナは驚きつつも何かを決意した様子で、自分の持ち物の中から、小さな木箱を取り出す。

そして中から――

ブルーサファイアの嵌った銀の腕輪を差し出した。

「……これは、亡き母の形見です。これで足りますか?」

ジルダは一瞬言葉を失い、それから満面の笑みを浮かべて腕輪を受け取った。

「もちろん。ありがとう、エルミナちゃん。取引成立ね」

ジルダは腕輪の宝石を光にかざしながら、さらりとこう告げた。

「じゃあ、情報を……ゼルグラードは、あなたに惚れてるわ」

時が止まったように、エルミナは黙り込んだ。その顔には、困惑と戸惑いと信じられないという感情が入り混じっていた。

ジルダは再び口を開く。

「よく聞いて。ゼルグラードは、あなたのことが好きよ。間違いないわ」

ようやく声を取り戻したエルミナが、震える唇で言った。

「……その情報、間違ってます。ゼル様は私を……」

ジルダの笑みが消える。真剣な眼差しで、エルミナをまっすぐに見据えた。

「馬鹿にしないでちょうだい、エルミナ」

鋭く、厳しい口調に、エルミナは思わず身を固くした。

「私は情報屋、ジルダよ。あなたから報酬を受け取った。……たぶん、あなたにとって大切なものだったんでしょう? 私はそれに見合う情報を渡したの。私の情報に、間違いはない」

エルミナは顔を伏せ、深々と腰を折る。

「申し訳ございません、ジルダさん……」

ジルダはそこでようやく、いつもの調子に戻った。

「そう、素直な子は大好きよ」

彼女は腰に手を当てながら、もう一つ付け加えた。

「じゃあ、おまけしてあげる。少し前の夜、ゼルグラードがヴェイルスに斬りかかったって話、聞いてる?」

「はい」

「その時ね、ヴェイルスはゼルグラードに聞いたの。“エルミナに惚れてるだろう?”って。命がけの場面でよ? そしたら、ゼルグラードは即答したわ。“ああ、そうだ”って」

ジルダは、腕を組んでにやりと笑う。

「どう? これで、信じたでしょう?」

「ええ、信じました? ですかね? はい……」

エルミナは目を瞬かせながら、混乱のあまり自分でも意味がわからない返事をしていた。ジルダは思わず吹き出しそうになりながらも、そっと彼女の肩にローブをかけた。

「頭で理解しても、心がついていかないって感じね?」

優しく整えながら、ジルダは続けた。

「それにしても、可哀想なのはヴェイルスよ。ゼルグラードに切りつけられるわ、“不義の子”の件で冤罪を被せられるわ、挙げ句の果てには依頼人にまで裏切られる。ほんと、散々よ、彼」

エルミナはその声をどこか遠くに聞いていた。

心の全ては、ただ一つの情報に囚われていた――ゼルグラードが、自分を好いてくれているという、信じがたいけれど確かな言葉に。

ようやくジルダが手を離し、満足げに頷く。

「さ、出来上がった。完成よ」

鏡の前には、青い上質なドレスと白いローブを纏い、胸元には鮮やかに純潔の紋章を浮かべた一人の女性が立っていた。

その姿は、もはやかつての“神に捧げられた巫女”ではなかった。愛を知り、愛を望み、けれどもまだ戸惑いの中にいる、一人の“女”。ジルダはその姿に、我ながら惚れ惚れとしながら言った。

「私の見立て通り、あなた――とっても素敵よ。あとでゼルグラードに見せてあげなさいな」

エルミナは、依然ぼんやりした表情で、「はい、そうします。ありがとうございます」と礼を述べた。

ジルダは笑みを浮かべながら、意地悪な質問を一つ。

「特にその胸元の紋章、素敵よね。……で? あなたがその紋章を“捧げたい相手”って、誰?」

エルミナの目に、はっきりとした光が宿る。迷いもなく、即座に答えた。

「ゼルグラード様です」

それを聞いたジルダは、少しだけ唇を吊り上げた。

「……ああ、あとは勝手にやってちょうだいな。じゃあね」

そう言って、扉を開け、軽やかな足取りで部屋を出て行った。* * *「おい、遅かったじゃないか。何か異常事態か?」

扉が開くや否や、ゼルグラードはジルダに詰め寄った。焦りを隠そうともしていない。

だがジルダは、いつも通りの調子であっさりと答える。

「女の身支度って時間がかかるものなのよ。特に今回は“特別な衣装”ですもの。エルミナ――あの子、とっても綺麗よ。あとで見てあげてね」

ゼルグラードはそれを聞いても動じなかった。いや、動じる理由がなかった。

「エルミナは、前から綺麗だ」

その言葉は、あまりにも自然に、まるで空気のように口から出ていた。

ジルダは目をぱちくりとさせ、呆れたように肩をすくめる。

「……ああもう、やってられないわね」

そう言って、軽やかな足取りで去っていく。

ゼルグラードは扉の前に立ち、ひと呼吸置いた後、力強くノックした。

「おい、入るぞ」

中から、澄んだ声が返ってくる。

「はい、お入りください」

扉を開けたその瞬間――

ゼルグラードは、思わず息を呑んだ。

窓から差し込む朝の光に照らされ、青と白の装いを纏ったエルミナがそこに立っていた。胸元には、純潔の証である青い紋章が、誇り高く刻まれている。

その姿は、まさしく“神に捧げられし巫女”でありながら、“これから愛されるべき姫”そのものだった。ゼルグラードはその神々しさに気圧されるようにして、ひざまずく。

そして騎士の儀礼に則り、右手を胸に、静かに頭を垂れた。

「エルミナ姫、これまでの無礼をお許し願いたい。このゼルグラード、近衛隊長として王宮で暮らすあなたを見守り続ける覚悟です。……生涯をかけて」

それは、騎士としての誓いであり――男としての、最後の決意だった。

だが、返ってきたのは意外な言葉だった。

「ゼルグラード様、お立ちください」

戸惑いながらも命に従い、ゼルグラードは静かに立ち上がる。

小柄なエルミナが、長身の彼を見上げながら、真正面からその瞳を捉えた。凛としたまなざしだった。けれど、その奥には震えるような勇気が灯っていた。

「あなたに――お願いがあるのです」

「何なりと」

ゼルグラードは深く頷く。エルミナは、一瞬だけ唇を引き結び、そして告げた。

「あなたに……触れてもいいですか?」


* * *


「……何故だ?」

ゼルグラードは思わず問い返していた。気づけば、普段の無骨な口調に戻っていた。

けれど、エルミナはまっすぐにその瞳を向けたまま答える。

「私が、そうしたいのです。私は――あなたに触れたいのです。ゼルグラード様」

迷いのない声だった。けれど、それは押しつけではなく、ただ静かな願いだった。

ゼルグラードはその真摯な言葉に、答えるべき言葉を見つけられなかった。けれど無言のまま、ゆっくりと、静かに頷いた。

エルミナは微笑む。

そして――その白く細い指先が、そっと彼の頬へと伸ばされる。ゆっくりと。まるで幻を確かめるように。その指先が、ゼルグラードの頬に触れた。

その瞬間――エルミナは嬉しそうに微笑んだ。

その表情に、ゼルグラードは戸惑いながらも、その手に、自分の大きな手を重ねた。

ただそれだけのことだった。けれど――

エルミナの瞳から、はらりと一筋の涙が落ちた。

それは悲しみの涙ではなかった。拒絶される不安でもなかった。

受け入れられたこと。愛されていると感じたこと。

その幸福が、涙となって頬を伝ったのだ。

ゼルグラードは未だ困惑の中にいた。だが、その涙が意味するものだけは、はっきりと理解していた。

やがて、エルミナはそっと手を離し――その場に膝をついた。

両手を胸の前に重ね、深く頭を垂れる。それは姫君としての、正式な儀礼だった。そして、まっすぐな声で告げる。

「ゼルグラード様、この度は――わたくしをお守りいただき、ありがとうございました」

ゆっくりと顔を上げる。その瞳は、強く、そして美しかった。

「どうぞ、私のこの純潔の証を――お受け取りください」
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