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第十一章 病と記憶
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窓際には小さな花瓶が置かれていた。華やかな彩りの花々が、朝の光を受けて輝いている。
そのそばに、エルミナは立っていた。
痩せた肩に薄い布を羽織り、ぼんやりと花を見つめている。
まだ体に力は戻りきっておらず、立っているだけでも精一杯なのだろう。
それでも、彼女は嬉しそうに微笑んでいた。
まるで遠い昔に咲いた花を、ようやく見つけたかのように。
一方、部屋の奥ではテーブルを挟み、ゼルグラードとジルダが向かい合っていた。
エルミナが倒れた直後、すぐさまジルダが駆けつけた。
そしてエルミナの病を知り、医師を呼び、エルミナの看病をしてくれた。
当のゼルグラードはリリエンナの輿入れにつきそうという任務があり、やむなくジルダにエルミナを任せ、この宿を離れていた。その任務も終わり、エルミナと泊まっていた宿に戻ることが出来たのだ。
ジルダは果物の皮を器用に剥きながら、静かな声で報告をする。
「熱はもう下がったわ。顔色も、このとおり。見違えるくらい良くなってる。でも……記憶のほうは、まだちょっと怪しいの」
ゼルグラードは無言で頷いた。目はエルミナから一度も離れていない。
「“都市熱“よ。田舎から都会へとやってきた人がかかる病。王都に来る前のことは覚えてるみたい。でも、それ以降はすっぽり抜けてる。ここに来てから、気持ちも揺れて身体も限界が来た……どうにか耐えてたんでしょうね。慣れない空気に身体が追いつかなかったのよ。神殿じゃ、病の種になるようなものには、ほとんど触れずに暮らしてたでしょうし」
果物の甘い香りが静かに漂う。
「うなされてる間、何度も言ってたの。『グランティアには行きたくない……でも、ゾーイと神官様のためには……』って」
ジルダの声は低く優しかった。
それはエルミナへの同情というより、彼女の弱さを知った者の静かな理解だった。
ゼルグラードの視線は、なおも窓際の少女を捉えていた。
エルミナは二人の会話に加わることなく、花に向けてそっと微笑み続けていた。
* * *
果物を剥き終えたジルダがナイフを置いたその時、やわらかな男の声が、部屋の隅から聞こえた。
「さあ、エルミナ。果物を食べよう。きっと具合も良くなる」
声の主は、壁際にもたれかかっていたヴェイルスだった。
いつの間にそこにいたのか――エルミナは驚いた様子も見せず、ただその声に応えるように微かに笑みを浮かべた。
ゼルグラードの顔が曇る。
「……ヴェイルス。何でお前がここにいる」
苦々しい声音に、ヴェイルスは肩をすくめた。
「それはもちろん、エルミナのお見舞いだよ。彼女のために花と果物を届けにきただけさ」いつもの調子で、軽やかに笑う。
ゼルグラードの声がさらに低くなる。
「そもそも何で、エルミナが倒れたことを知った?」
その問いに、ジルダがあっけらかんと答える。
「それは私がその情報をヴェイルスに売ったからよ」
ヴェイルスもにこやかに補足する。
「そう、その情報を僕が買った」
ゼルグラードは両者を睨みつけ、剣の柄に手をかけた。
「……売るな。そして、買うな。 俺は教えたはずだ。次に会った時は――殺すってな」
その瞬間だった。エルミナがはっとしたように振り向き、ふらつきながらゼルグラードに縋るようにして言った。
「使者様……どうして、ヴェイルスさんを殺すのですか?そんなこと……使者様、どうか……」
心からの訴えだった。瞳が潤み、声が震えていた。
ジルダはあきれたようにため息をつき、ヴェイルスは片眉を上げて、面白がるような顔でゼルグラードを見た。
「……っ」
ゼルグラードは唇を噛み、手をゆっくり柄から離すと、エルミナの肩を優しく支え、微笑んで言った。
「もちろん。そんな恐ろしいことはしない。……さっきのは冗談だ」
「本当に……? 絶対に、恐ろしいことはなさらない?」
エルミナの真剣な眼差しに、ゼルグラードは一瞬ヴェイルスを睨んだ。
だがすぐにその表情を崩し、エルミナに向かって柔らかな声で答える。
「ああ、絶対にだ。……約束する」
その言葉に、エルミナはほっとしたように頷く。
ヴェイルスは勝ち誇った笑みを浮かべ、ジルダは肩をすくめて首を振った。
* * *
エルミナは、銀のフォークで小さく切った果物を口に運んだ。その瞳がぱっと見開かれる。
「……美味しい。美味しいです。こんなに甘いなんて……初めてです」
頬に淡く赤みが差し、驚きと喜びが入り混じった表情を見せる。
「フィルベルトは寒くて、甘い果物は珍しいご馳走です。ありがとうございます、ヴェイルスさん。……それに、お花も」
窓辺の花瓶に活けられた、鮮やかな花々に視線を向け、柔らかな笑みを浮かべた。
その様子を、ヴェイルスはどこか誇らしげに見つめながら言った。
「どういたしまして、エルミナ。僕はね、君の笑顔のためなら、何だってするよ。 ――そちらのお方と違ってね」
わざとらしく肩をすくめながら、ゼルグラードを一瞥する。
ゼルグラードは返す言葉を持たず、ただ不機嫌そうに目を細めるだけだった。
やがてエルミナは、皿の上の果物を食べ終え、口元をそっと拭った。
ゼルグラードが無言で立ち上がり、湯気の立つ茶を小卓に置いた。
「……これを飲め。気分が落ち着く。飲んだらベッドに戻るんだ」
そのぶっきらぼうな物言いに、ジルダとヴェイルスが同時に眉をひそめる。
何も言わないが、目が「もっと優しく言ってあげなさいよ」と語っていた。
だがエルミナは気にする様子もなく、静かに頷いて茶を口に運ぶ。
「……はい。使者様」
ぬるめの茶を飲み干すと、エルミナはふわ、と小さな欠伸を漏らし、目を細める。
ゼルグラードがそっと立ち上がり、ベッドまで肩を支えてやると、エルミナは寝具に静かに身を沈めた。
「おやすみなさい……使者様……」
その声が途切れ、ゆっくりとまぶたが閉じていく。薬の効き目が、彼女の体を眠りへと導いていた。
* * *
寝息を立てるエルミナをチラリと見やりながら、ジルダが話を始めた。
「このまま順調に熱が引けば、順番に記憶は戻ってくるはずよ。都市熱ではよくあることだもの」
その言葉のあと、ヴェイルスも珍しく真面目な顔でつぶやいた。
「さぞ無理してたんだろうね。あの小さな身体で……ずっと張り詰めていたんだろうさ」
ゼルグラードは何も言わず、拳を膝の上で握ったまま目を伏せた。
ジルダはちらりとゼルグラードを見てから言葉を続けた。
「あの子、馬の上であんたが服を脱ぎはじめた時……本気で怯えてたわよ。『ゼル様から身を守る方法を……』って私に聞いてきたくらい。……ねえ、いったいどういうつもりだったの?」
その声音はあくまで柔らかかったが、眼差しは探るように鋭かった。
そこへヴェイルスが、涼しい顔で話に乗った。
「男爵家の屋敷で、この護衛殿が言い放ったんだよ。『最初からエルミナの純潔を奪っておけばよかった』ってね。彼女の目の前でさ。そりゃ怯えるのも当然ってもんだろう?」
ゼルグラードが顔をしかめ、何かを言いかけると、ジルダがさらに言葉を重ねた。
「あんた、まさか……本気で、エルミナちゃんを襲ったわけじゃないでしょうね?」
その声音には、明らかな責めの色があった。
ゼルグラードは即座に立ち上がり、声を荒げた。
「襲ったわけではない!」
その言葉に、部屋の空気が一瞬ぴたりと凍りつく。
エルミナは目を閉じたまま、小さく寝返りを打っただけだった。
* * *
ゼルグラードは椅子に腰を沈めながら、もう一度、かすれた声で繰り返した。
「……襲ったわけではない」
言い訳でも、弁解でもない。ただ事実として、そう言った。ジルダはその様子を見つめたまま、静かに口を開いた。
「じゃあ、聞くけど――衣装合わせのあと、あなたたち、どんなふうだったの?」
ヴェイルスが、果物の芯をつまんで無言で転がす。
ゼルグラードは、しばし目を閉じ、慎重に記憶を手繰り寄せながら言葉を紡いだ。
「衣装を身に纏ったエルミナは……あまりにも美しかった。俺は、騎士としての礼を尽くして、『王宮に入ったエルミナを生涯守る』と、誓った」
その言葉に、ジルダがすぐさま返した。
「つまり――エルミナちゃんを、王宮に差し出すことに同意したのね?」
ゼルグラードは言葉を飲み込むようにして首を振ろうとしたが、それを制すようにヴェイルスが冷たく言い放つ。
「あなたの感情はどうでもいい。事実だけを教えてくれないか」
ゼルグラードは少しだけ唇を噛み、うなずいて続けた。
「……そのあと、エルミナが言った。『お願いがあります』と。『ゼル様に、触れてもいいですか』と。俺がうなずくと……彼女は、俺の頬の傷にそっと手を伸ばしてきた」
ヴェイルスは、ため息混じりに言った。
「なんて健気で、慎ましやかなんだ。さすが僕のエルミナだね」
ゼルグラードが彼を鋭く睨むも、ヴェイルスは肩をすくめただけだった。
それでもゼルグラードは、なおも続けた。
「それから……彼女は俺の前にひざまずいた。そして、俺に純潔の証を捧げると、そう……そう誓った」
その瞬間、ジルダの目に浮かんだのは驚きでも憤りでもなく、切なさだった。
「エルミナちゃん……さぞかし、勇気がいったでしょうね。本当に、震えるような気持ちで、振り絞るようにして……それから?」
ゼルグラードは言葉を失い、目を伏せた。
沈黙が落ちる。額にじんわりと浮かぶ汗。
乾いた喉が、何かを言おうとしているのに声にならない。
ジルダは、目を細めてつぶやいた。
「……ちょっと。やめてよ」
ヴェイルスも、呆れ顔で吐き捨てた。
「なんて男だよ……」
ゼルグラードは、俯いたまま――何も言えなかった。
重苦しい沈黙のなか、口を開いたのはヴェイルスだった。その声には、いつもの軽薄さはなかった。ひどく静かで、真っ直ぐだった。
「さっき、エルミナは果物を喜んで食べていた。あの花にも目を細めていた。……あなたは、彼女を喜ばせるために何かしたことがあるかい?」
ゼルグラードは答えなかった。ヴェイルスは続ける。
「ないだろう。あなたは彼女が、フィルベルトでどんな暮らしをしていたか聞いたことがあるかい? ないよな? それで“彼女を守る”? ――お笑い種だよ、まったく」
その言葉には、冷笑ではなく、苛立ちと呆れが混ざっていた。
ジルダもまた、視線を落としたまま、真剣な声で言った。
「とにかく、エルミナちゃんは今、療養の時期よ。精神も不安定、小さな子供みたいでしょう? これから順番に記憶を取り戻していくの。でも、その記憶はきっと、辛いものになる。涙が出るようなことばかりよ」
彼女はゼルグラードをまっすぐに見た。
「だからあんたにできるのは、たったひとつ。彼女に寄り添うこと。慰めること。それだけよ。――余計な情報は絶対に与えないで。記憶が混乱するだけだから」
ゼルグラードは何も言えなかった。ただ、唇を固く結び、無言で頷いた。
二人は立ち上がった。ゼルグラードは素直に礼を口にする。
「……すまない。ありがとう」
その姿に、ヴェイルスはふっと肩をすくめ、扉の方へと向かう。
「しばらくは、顔を見せないよ。僕は“汚し屋”。エルミナにとって恐ろしい存在になる。それくらいの気遣いは、できるんだ――誰かさんと違ってね」
ジルダは扉の前で振り返った。
「そのうち、エルミナちゃんが何か“無くしもの”をしたと困る時が来るわ。その時は私に連絡して。……いっとくけど、あんたのためじゃない。エルミナちゃんのためよ」
二人は出ていった。
部屋には、静寂だけが残った。ゼルグラードは、ふと視線を落とす。
ベッドの上では、エルミナが安らかに眠っていた。
夢の中で、何を見ているのかもわからないまま。
ゼルグラードは、その寝顔を、そっと見守っていた。
そのそばに、エルミナは立っていた。
痩せた肩に薄い布を羽織り、ぼんやりと花を見つめている。
まだ体に力は戻りきっておらず、立っているだけでも精一杯なのだろう。
それでも、彼女は嬉しそうに微笑んでいた。
まるで遠い昔に咲いた花を、ようやく見つけたかのように。
一方、部屋の奥ではテーブルを挟み、ゼルグラードとジルダが向かい合っていた。
エルミナが倒れた直後、すぐさまジルダが駆けつけた。
そしてエルミナの病を知り、医師を呼び、エルミナの看病をしてくれた。
当のゼルグラードはリリエンナの輿入れにつきそうという任務があり、やむなくジルダにエルミナを任せ、この宿を離れていた。その任務も終わり、エルミナと泊まっていた宿に戻ることが出来たのだ。
ジルダは果物の皮を器用に剥きながら、静かな声で報告をする。
「熱はもう下がったわ。顔色も、このとおり。見違えるくらい良くなってる。でも……記憶のほうは、まだちょっと怪しいの」
ゼルグラードは無言で頷いた。目はエルミナから一度も離れていない。
「“都市熱“よ。田舎から都会へとやってきた人がかかる病。王都に来る前のことは覚えてるみたい。でも、それ以降はすっぽり抜けてる。ここに来てから、気持ちも揺れて身体も限界が来た……どうにか耐えてたんでしょうね。慣れない空気に身体が追いつかなかったのよ。神殿じゃ、病の種になるようなものには、ほとんど触れずに暮らしてたでしょうし」
果物の甘い香りが静かに漂う。
「うなされてる間、何度も言ってたの。『グランティアには行きたくない……でも、ゾーイと神官様のためには……』って」
ジルダの声は低く優しかった。
それはエルミナへの同情というより、彼女の弱さを知った者の静かな理解だった。
ゼルグラードの視線は、なおも窓際の少女を捉えていた。
エルミナは二人の会話に加わることなく、花に向けてそっと微笑み続けていた。
* * *
果物を剥き終えたジルダがナイフを置いたその時、やわらかな男の声が、部屋の隅から聞こえた。
「さあ、エルミナ。果物を食べよう。きっと具合も良くなる」
声の主は、壁際にもたれかかっていたヴェイルスだった。
いつの間にそこにいたのか――エルミナは驚いた様子も見せず、ただその声に応えるように微かに笑みを浮かべた。
ゼルグラードの顔が曇る。
「……ヴェイルス。何でお前がここにいる」
苦々しい声音に、ヴェイルスは肩をすくめた。
「それはもちろん、エルミナのお見舞いだよ。彼女のために花と果物を届けにきただけさ」いつもの調子で、軽やかに笑う。
ゼルグラードの声がさらに低くなる。
「そもそも何で、エルミナが倒れたことを知った?」
その問いに、ジルダがあっけらかんと答える。
「それは私がその情報をヴェイルスに売ったからよ」
ヴェイルスもにこやかに補足する。
「そう、その情報を僕が買った」
ゼルグラードは両者を睨みつけ、剣の柄に手をかけた。
「……売るな。そして、買うな。 俺は教えたはずだ。次に会った時は――殺すってな」
その瞬間だった。エルミナがはっとしたように振り向き、ふらつきながらゼルグラードに縋るようにして言った。
「使者様……どうして、ヴェイルスさんを殺すのですか?そんなこと……使者様、どうか……」
心からの訴えだった。瞳が潤み、声が震えていた。
ジルダはあきれたようにため息をつき、ヴェイルスは片眉を上げて、面白がるような顔でゼルグラードを見た。
「……っ」
ゼルグラードは唇を噛み、手をゆっくり柄から離すと、エルミナの肩を優しく支え、微笑んで言った。
「もちろん。そんな恐ろしいことはしない。……さっきのは冗談だ」
「本当に……? 絶対に、恐ろしいことはなさらない?」
エルミナの真剣な眼差しに、ゼルグラードは一瞬ヴェイルスを睨んだ。
だがすぐにその表情を崩し、エルミナに向かって柔らかな声で答える。
「ああ、絶対にだ。……約束する」
その言葉に、エルミナはほっとしたように頷く。
ヴェイルスは勝ち誇った笑みを浮かべ、ジルダは肩をすくめて首を振った。
* * *
エルミナは、銀のフォークで小さく切った果物を口に運んだ。その瞳がぱっと見開かれる。
「……美味しい。美味しいです。こんなに甘いなんて……初めてです」
頬に淡く赤みが差し、驚きと喜びが入り混じった表情を見せる。
「フィルベルトは寒くて、甘い果物は珍しいご馳走です。ありがとうございます、ヴェイルスさん。……それに、お花も」
窓辺の花瓶に活けられた、鮮やかな花々に視線を向け、柔らかな笑みを浮かべた。
その様子を、ヴェイルスはどこか誇らしげに見つめながら言った。
「どういたしまして、エルミナ。僕はね、君の笑顔のためなら、何だってするよ。 ――そちらのお方と違ってね」
わざとらしく肩をすくめながら、ゼルグラードを一瞥する。
ゼルグラードは返す言葉を持たず、ただ不機嫌そうに目を細めるだけだった。
やがてエルミナは、皿の上の果物を食べ終え、口元をそっと拭った。
ゼルグラードが無言で立ち上がり、湯気の立つ茶を小卓に置いた。
「……これを飲め。気分が落ち着く。飲んだらベッドに戻るんだ」
そのぶっきらぼうな物言いに、ジルダとヴェイルスが同時に眉をひそめる。
何も言わないが、目が「もっと優しく言ってあげなさいよ」と語っていた。
だがエルミナは気にする様子もなく、静かに頷いて茶を口に運ぶ。
「……はい。使者様」
ぬるめの茶を飲み干すと、エルミナはふわ、と小さな欠伸を漏らし、目を細める。
ゼルグラードがそっと立ち上がり、ベッドまで肩を支えてやると、エルミナは寝具に静かに身を沈めた。
「おやすみなさい……使者様……」
その声が途切れ、ゆっくりとまぶたが閉じていく。薬の効き目が、彼女の体を眠りへと導いていた。
* * *
寝息を立てるエルミナをチラリと見やりながら、ジルダが話を始めた。
「このまま順調に熱が引けば、順番に記憶は戻ってくるはずよ。都市熱ではよくあることだもの」
その言葉のあと、ヴェイルスも珍しく真面目な顔でつぶやいた。
「さぞ無理してたんだろうね。あの小さな身体で……ずっと張り詰めていたんだろうさ」
ゼルグラードは何も言わず、拳を膝の上で握ったまま目を伏せた。
ジルダはちらりとゼルグラードを見てから言葉を続けた。
「あの子、馬の上であんたが服を脱ぎはじめた時……本気で怯えてたわよ。『ゼル様から身を守る方法を……』って私に聞いてきたくらい。……ねえ、いったいどういうつもりだったの?」
その声音はあくまで柔らかかったが、眼差しは探るように鋭かった。
そこへヴェイルスが、涼しい顔で話に乗った。
「男爵家の屋敷で、この護衛殿が言い放ったんだよ。『最初からエルミナの純潔を奪っておけばよかった』ってね。彼女の目の前でさ。そりゃ怯えるのも当然ってもんだろう?」
ゼルグラードが顔をしかめ、何かを言いかけると、ジルダがさらに言葉を重ねた。
「あんた、まさか……本気で、エルミナちゃんを襲ったわけじゃないでしょうね?」
その声音には、明らかな責めの色があった。
ゼルグラードは即座に立ち上がり、声を荒げた。
「襲ったわけではない!」
その言葉に、部屋の空気が一瞬ぴたりと凍りつく。
エルミナは目を閉じたまま、小さく寝返りを打っただけだった。
* * *
ゼルグラードは椅子に腰を沈めながら、もう一度、かすれた声で繰り返した。
「……襲ったわけではない」
言い訳でも、弁解でもない。ただ事実として、そう言った。ジルダはその様子を見つめたまま、静かに口を開いた。
「じゃあ、聞くけど――衣装合わせのあと、あなたたち、どんなふうだったの?」
ヴェイルスが、果物の芯をつまんで無言で転がす。
ゼルグラードは、しばし目を閉じ、慎重に記憶を手繰り寄せながら言葉を紡いだ。
「衣装を身に纏ったエルミナは……あまりにも美しかった。俺は、騎士としての礼を尽くして、『王宮に入ったエルミナを生涯守る』と、誓った」
その言葉に、ジルダがすぐさま返した。
「つまり――エルミナちゃんを、王宮に差し出すことに同意したのね?」
ゼルグラードは言葉を飲み込むようにして首を振ろうとしたが、それを制すようにヴェイルスが冷たく言い放つ。
「あなたの感情はどうでもいい。事実だけを教えてくれないか」
ゼルグラードは少しだけ唇を噛み、うなずいて続けた。
「……そのあと、エルミナが言った。『お願いがあります』と。『ゼル様に、触れてもいいですか』と。俺がうなずくと……彼女は、俺の頬の傷にそっと手を伸ばしてきた」
ヴェイルスは、ため息混じりに言った。
「なんて健気で、慎ましやかなんだ。さすが僕のエルミナだね」
ゼルグラードが彼を鋭く睨むも、ヴェイルスは肩をすくめただけだった。
それでもゼルグラードは、なおも続けた。
「それから……彼女は俺の前にひざまずいた。そして、俺に純潔の証を捧げると、そう……そう誓った」
その瞬間、ジルダの目に浮かんだのは驚きでも憤りでもなく、切なさだった。
「エルミナちゃん……さぞかし、勇気がいったでしょうね。本当に、震えるような気持ちで、振り絞るようにして……それから?」
ゼルグラードは言葉を失い、目を伏せた。
沈黙が落ちる。額にじんわりと浮かぶ汗。
乾いた喉が、何かを言おうとしているのに声にならない。
ジルダは、目を細めてつぶやいた。
「……ちょっと。やめてよ」
ヴェイルスも、呆れ顔で吐き捨てた。
「なんて男だよ……」
ゼルグラードは、俯いたまま――何も言えなかった。
重苦しい沈黙のなか、口を開いたのはヴェイルスだった。その声には、いつもの軽薄さはなかった。ひどく静かで、真っ直ぐだった。
「さっき、エルミナは果物を喜んで食べていた。あの花にも目を細めていた。……あなたは、彼女を喜ばせるために何かしたことがあるかい?」
ゼルグラードは答えなかった。ヴェイルスは続ける。
「ないだろう。あなたは彼女が、フィルベルトでどんな暮らしをしていたか聞いたことがあるかい? ないよな? それで“彼女を守る”? ――お笑い種だよ、まったく」
その言葉には、冷笑ではなく、苛立ちと呆れが混ざっていた。
ジルダもまた、視線を落としたまま、真剣な声で言った。
「とにかく、エルミナちゃんは今、療養の時期よ。精神も不安定、小さな子供みたいでしょう? これから順番に記憶を取り戻していくの。でも、その記憶はきっと、辛いものになる。涙が出るようなことばかりよ」
彼女はゼルグラードをまっすぐに見た。
「だからあんたにできるのは、たったひとつ。彼女に寄り添うこと。慰めること。それだけよ。――余計な情報は絶対に与えないで。記憶が混乱するだけだから」
ゼルグラードは何も言えなかった。ただ、唇を固く結び、無言で頷いた。
二人は立ち上がった。ゼルグラードは素直に礼を口にする。
「……すまない。ありがとう」
その姿に、ヴェイルスはふっと肩をすくめ、扉の方へと向かう。
「しばらくは、顔を見せないよ。僕は“汚し屋”。エルミナにとって恐ろしい存在になる。それくらいの気遣いは、できるんだ――誰かさんと違ってね」
ジルダは扉の前で振り返った。
「そのうち、エルミナちゃんが何か“無くしもの”をしたと困る時が来るわ。その時は私に連絡して。……いっとくけど、あんたのためじゃない。エルミナちゃんのためよ」
二人は出ていった。
部屋には、静寂だけが残った。ゼルグラードは、ふと視線を落とす。
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