純潔巫女姫 × 無骨護衛――触れたくて触れられない、儚い距離の境界

土井中 未子

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第十六章 ジルダの話

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夜も更けて、宿の静寂に灯がともる頃。エルミナとゼルグラードの二人は部屋で語らっていた。

「明日からはフィルベルトへ向かう長い道のりが始まる。……体はどうだ?」

ゼルグラードが低く優しい声で尋ねる。

「はい、体は……もう大丈夫です。けれど……」

言葉を濁すエルミナのまなざしには、わずかな翳りが宿っていた。それは、病み上がりの身体よりも、完全に回復していない“記憶”に対する不安の色──。

「案ずるな、俺がついている」

その言葉に、エルミナは何も返さず、ただゼルグラードをじっと見つめた。潤んだ瞳が真っすぐに向けられる。その光に、ゼルグラードの喉がわずかに動く。

「……エルミナ。お前に、触れてもいいだろうか?」

穏やかな声だった。まるで硝子細工を手に取るような、慎重な、丁寧な問いかけ。

エルミナは、小さく頷いた。ゼルグラードの手が、ゆっくりと頬に伸びる。

掌が、そっと肌に触れる。柔らかく静かな温もりだった。エルミナははにかみながら、自分の小さな手をゼルグラードの手に重ねた。

指先と指先が触れ合う一瞬に、ふたりの間に流れるなにかが、そっと色を変えた気がした。

「おやすみなさい、ゼル様」

「……ああ。おやすみ、エルミナ」

そうして二人はそれぞれの部屋に入る。エルミナは扉を閉めると、ふうっと小さく息を吐いた。

(やはり……ゼル様は私を、慈しんでくださる……)

そう思いながらも、彼の“雄”の顔──服を脱ぎ始めた夜、空気が一変したあの瞬間──を思い出す。その記憶がふっと脳裏をよぎり、エルミナは念のため鍵をかけた。

そして静かにベッドに横たわる。旅立ち前の緊張も、静けさに包まれて次第に薄れ、まどろみが訪れた。

──カチャ。

(……?)

小さな音が耳に届く。気のせいかと思った。しかし、その音は次第に大きくなっていく。

ガチャガチャ……。

──ガチャリ。

乾いた金属音と共に、扉のどこかが外れる感触。そして、静寂。

(……いまの音……なに……?)

疲れもあり、意識がまた沈んでいく。夢と現のあわいで、何かが頭を撫でる感覚。

(……風……? いや……人の手……?)

次の瞬間、目を見開いた。

「……っ!?」

勢いよく起き上がると、そこには──

「すまない。起こしてしまったか」

ゼルグラードが、優しく微笑んでいた。彼の大きな掌は、まだエルミナの髪にそっと触れていた。

「ゼ、ゼル様……!?」

絶句して、エルミナは本能的に身を引いた。その距離に、彼は少しだけ首を傾げて言う。

「安心しろ。俺だ。ゼルグラードだ」

まるで、幼子を宥めるような声だった。けれどエルミナの背筋には、冷たいものが走っていた。

(……いや、そういう問題じゃなくて……)

先日の“雄”の姿が脳裏をよぎる。あれは一瞬で何もかもを変える、圧倒的な生物の顔だった。

「……鍵をかけたはずですわ……」

やっとのことで、言葉を吐き出す。

エルミナの声は細く震えていた。

ゼルグラードは、まるでそれが不思議でもなんでもないという顔で、あっさりと告げた。

「壊れた」

「…………は?」

エルミナの思考が一瞬止まる。

「壊れていた、ということですの……?」

「いや、俺が壊した」

「………………」

(言い切った!?)

目の前の男は、まるで「湯が沸いた」程度のことを語るように、静かに言ったのだ。扉の鍵を──正確にはドアノブごと破壊したことを。

「宿の主人には、明日、代金を払う。良い材を使って補修してもらおう」

それが彼なりの“解決”らしい。

(そういうことじゃありませんの……!)

エルミナは内心で悲鳴を上げた。確かに記憶を失っているふりをしている身ではあるが、それでもこの状況は常軌を逸している。

──それなのに、ゼルグラードは穏やかだった。

まるで、この状況が何も問題ではないかのように。

「……お前の寝顔を、少しだけ見ていたかった。触れはしないつもりだったが……その、……髪が」

言い澱むゼルグラードの視線が、エルミナの長い髪へと向けられる。

「……あまりにも、綺麗で……触れずにはいられなかった」

(そういうことは!! 心の中で留めておいてくださいまし!!!)

エルミナは顔を赤くし、しかし声には出せなかった。なぜなら、その声すらゼルグラードに「刺激」として捉えられかねないからだ。

ゼルグラードは一歩、近づいてきた。

背が高く、厚い胸板。闇の中でもその輪郭がくっきりと浮かぶ。近づいてくるだけで、空気が熱を帯びていく。

(おそらくもう、言葉は通じない……)

ジルダの忠告を思い出す。 “記憶はまだ完全に戻っていないふりをしなさい”

(たしかに……そうですわ……)

この男は、理性の皮を一枚でも剥がしたら、すぐに“雄”に戻るのだ。いまの穏やかな表情の下に、あの夜の本性が──確かに潜んでいる。

「ゼル様……」

「なんだ?」

「……どうかお許しを、わたくしはまだ病の身です……」

エルミナの声はか細く震え、祈るように紡がれた。その瞬間、ゼルグラードの足が、ふと止まる。

「……わかった」

しばらく見つめ合ったのち、ゼルグラードは踵を返し、ゆっくりと部屋を出ていった。

しかし、彼の瞳にはほんの僅か、苦悩と渇きの色が滲んでいた。

扉は既に壊れたまま。ゼルグラードは壊れた取手を外し、木片をはめて簡易に塞ぎ、その場を立ち去る。

静寂が戻った部屋。エルミナは深く息を吐いた。

(……ゼル様は……悪意がないのが……いちばん厄介ですわ……)

そして、ベッドに潜り直しながら思った。

(ジルダさん……どうか、情報を……)

エルミナの脳裏には、母の遺品であるあの腕輪が浮かび上がっていた。


* * *


翌朝。小鳥のさえずりが窓の外に広がる、穏やかな朝だった。

エルミナは白いテーブルクロスのかかった小さな食卓に腰を下ろし、銀の食器に並べられた朝食を前にしていた。焼き立てのパンに、蒸した野菜、温かいハーブスープ──だが、昨夜の出来事が心に尾を引き、食欲は湧かない。

「よく眠れたか?」

ゼルグラードが隣に腰を下ろし、柔らかな声をかける。普段と変わらぬ、優しげな表情。

「……はい。ぐっすりと」

嘘だった。眠れたどころか、夜中に壊されたドアノブと、髪を撫でられた記憶が、未だに身体の奥を震わせていた。

「今日からは長旅になる。お前の体調を最優先する。もし辛くなれば、すぐに俺に言え。たとえ旅程が延びても構わないのだから」

その言葉に、エルミナは思わず顔を上げた。
ゼルグラードの瞳は真っ直ぐで、優しい。
……それがまた恐ろしい。

あの夜の出来事を、まるでなかったかのように振る舞うこゼルグラードの心が、読めない。

「エルミナ」

ゼルグラードが静かに切り出した。

「昨夜は──すまなかった」

エルミナははっと息を呑む。やはり反省してくれていたのだ。言葉にして謝ってくれた──そのことが、胸にじんわりと広がる。

「俺は……どうかしていた。お前の気持ちも考えず……」

ゼルグラードの言葉は、真摯だった。心からの謝罪だと、感じられた。

だが──その次の言葉が、すべてを裏切った。

「お前の眠りを妨げるなど、あってはならぬことだ。そこでだ」

真剣な眼差しで、ゼルグラードは続けた。

「今夜から、眠り薬を少量混ぜた茶を用意する。お前もその効果は知っているはずだな? これを飲めば、お前はぐっすりと眠れる。そして俺も──お前を起こすことなく、安心してお前の部屋を訪れることができる。どうだ?」

……。

エルミナの口は、ただわななくばかりで、言葉が出なかった。

(そして、……ゼル様……心から反省したと思った私が、愚かだったのですわ……)
もはや、愛するゼル様ではなく、言葉の通じない野獣との旅であることを認識したエルミナは、気を引き締めてゼルグラードを見た。

エルミナは静かに息を吸い、笑顔を装った。

「……ありがとうございます。ですが、効き目が強すぎると困りますので……また、あとで相談させてくださいね」

「うむ。そうだな。無理はさせたくない」

満足げに頷くゼルグラード。

エルミナはその隙を逃さず、口にした。

「……そういえば、今日の道中で……ジルダさんには、お会いできるのでしょうか?」

伏し目がちに、慎重に言葉を選びながら。ゼルグラードは少しだけ考える素振りを見せてから、答えた。

「タイミングが合えば、立ち寄るつもりだ。何か……話しておきたいことがあるのか?」

「ジルダさんにはお世話になりましたもの。お礼をお伝えしたのですわ」

そう、ジルダには話さなければならない──野獣と旅をする覚悟を決めた、今の自分のことを。

朝の陽光はあたたかく、旅の始まりに相応しい明るさだった。


* * *


部屋のの扉が軽やかにノックされ、柔らかな髪を風に揺らしながら、ジルダが現れた。

「ゼルグラード。ごきげんよう。しばしのお別れのご挨拶よ」

「……ジルダか。助かる。準備の合間に少し頼む」

ゼルグラードは短く挨拶を返し、彼女に視線を預けた後、馬の様子を見に庭へと出ていった。
背筋を伸ばし、黒髪をなびかせて去るその姿を、ジルダは意味ありげに見送った。

そのまま、静かに扉を閉める。

部屋には、二人だけが残った。

「ジルダさん……」

ベッド脇に座っていたエルミナが、立ち上がる。胸元から、細く白い腕を伸ばし──そして差し出したのは、あの銀細工の腕輪だった。亡き母の遺品。母の香りが、今もどこかに残っているような──そんな、特別なもの。

「この腕輪を……対価にいたします。情報を、売ってください」

ジルダは、眉ひとつ動かさずにエルミナを見つめ返した。視線に、揺らぎがない。

「──売らないわ」

その言葉に、エルミナの指先が、かすかに震えた。

「え……でも……」

「売らない。売る気はないの。あなたには、渡すだけ」

「……では、料金は?」

その問いに、ジルダはふっと笑った。だが、声には真剣さがあった。

「料金の代わりに、わたしの話を聞いて。少しだけでいいの。……それだけよ」

エルミナは戸惑いながらも、ゆっくりと頷いた。
ジルダが話すのは──この旅を生き抜くための“鍵”かもしれない。静まり返った部屋で、二人の時間が始まろうとしていた。
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