奇夜に結ぶ鬼

蓮華空

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 卯月は紅砂の腕を引っ張り、ある使命感を持って、彼の寝室に向かってのし歩いていた。
 
「卯月、本当に僕は大丈夫ですから、離してください」

「だめです!だって、さっきすごく辛そうに倉庫から出てきたじゃないですか!」

「それだって、ちょっと大げさですよ。熱があるわけでもないですし」

 卯月がピタリと足を止めた。振り向いてそっと紅砂の額に触れた。僅かな間だけ、二人の時間が止まったかのような静けさが流れる。そういえば、6年間、共に暮らしていながら、こんな風に紅砂に触れるのは初めてだった。意識した途端、卯月の心臓の鼓動が、少しだけ早くなったような気がした。

「ほら……、無いでしょ?」

 紅砂が静かに言った。

「そうですね……、本当に大丈夫ですか?」

 卯月が心配そうに覗き込む。

「ええ、大丈夫です」

 紅砂は穏やかに微笑んだ。

「だったら少し、お時間頂けますか?」

「なんでしょう?」

「とりあえず、お茶でも淹れてきます。居間で待っていて下さい」

 卯月はそう言って、お茶を取りに行った。




 居間のテーブルを挟んで二人が腰を掛けると、卯月は湯飲みにお茶を淹れた。

 室内に緑色の芳醇な茶の香が立ち込めていった。
 卯月は淹れ立てのお茶を紅砂の方に差し出すと、今度は果物ナイフを取り出し、ご近所から頂いた梨を黙々と剥きながら、どう話始めたらよいのか考えていた。すると、卯月が話すより早く紅砂が口を開いた。

「話って、何ですか?」

 卯月はおずおずと紅砂を上目遣いに見た。

「あの……お願いがあるのですが、聞いてくれますか?」

「僕に出来ることならば……」

 紅砂は湯飲みに口をつけ、ふう~、と息を付いた。

「あの……羅遠家の古文書を見せていただけませんか?」

「無理です。諦めてください」

 紅砂はにべもなく拒否した。

「どうしてですか?」

「羅遠家の古文書には、禁止されている秘術が多い。それが何を意味するか分かりますか?」

 紅砂が卯月の顔を覗きこみながら訊いた。

「いいえ……、私には、よくは……」

「秘術の中には簡単に人を殺せるものや、生命をいじくるものまであります。今の時代では倫理的、法律的に許されないものもあります。ですから、それを容易く外に漏らすわけにはいきません。管理するのは歴代の当主のみです。ご理解頂けますか?」

 紅砂の説明に卯月は俯いて、はい、と返事した。やはり、閲覧するのは無理か。

「ごめんなさい……、ご無理を言って……」

「いいえ、そんな事はいいのですが……何故、突然そんなものに興味を持ったのですか?」

 予想通り尋ねられた。卯月は、少々渋りながら、

「あの……信じられないような話ですが、真面目に聞いていただけますか?」

 と、予め断っておいた。

「はい、聞かせてください」

 紅砂の返事の後、卯月はしばらくの間、目を泳がせ躊躇したが、意を決して話始めた。

「私……9歳の頃、おそらく結鬼に血を吸われたんじゃなかと思うんです」

「それで?」

 紅砂は無表情だ。驚くような素振りもない。

「でも、結鬼って霊体なんですよね。実体のある結鬼もいるのかな……?と思いまして……」

「居ますよ」

「え?居るんですか?!」

 卯月は驚いた。こんなにあっさり居ると肯定されるとは思わなかった。

「卯月の血を吸ったのは、実体だったのですね?」

 紅砂がテーブルに出された梨に手を伸ばす。不安そうな卯月の気持ちとは裏腹に、こちらは茶のみ話だ。

「はい……、どうしても気になっちゃって……」

「何が一番気になるのですか?吸われた事実?結鬼の存在?あなた自身の体の変化?」

「どれも気になりますけど……、強いていうなら、結鬼の存在……かな?」

「居るのかどうかという事?」

「ええ……可能ならもう一度、会ってみたいと……」

 紅砂は眉間にしわを寄せた。

「どうしてですか?怖くはないのですか?」

 卯月は黙してしまった。

「むしろ……怖いのは自分です……。自分の中のコントロールできない欲求……。紅砂さんも話してましたよね。結鬼の犠牲者は血と性に関して、異常な執着を示すって……、実は私もそうなんです」

「卯月も血を飲んでみたいと思うのですか?」

「いえ、血は欲しくないです。けど……、血を見ると、吸われたらどうしようって……思ってしまって……そうすると性的な欲求が……」

 卯月は恥ずかしそうに答えた。
 
「その程度なら普通の人間の域です。血を見るだけで性欲が増すなら、それは、あなたの元々の性質ということで……」

 紅砂がさらりと言いのける。

 卯月の頬が、さっと朱に染まった。紅砂のその言い方だと、彼女にしてみたら自分が性的倒錯者だと思われただけではないか!?もちろん、卯月は反論した。

「で、でも、9年前の出来事以前は血を見ても何とも思いませんでした!あの出来事があってからです!」

「それが結鬼だとは限りませんよ。裏山の森の中でしたよね?その時、本当に血を吸われただけ?実は変質者にいたずらされた記憶が摩り替わった可能性は?」

「い、いたずらって、どういういたずらですか?!」

「性的な」

 紅砂は済ました顔で茶を啜った。
 卯月は頬を赤らめ立腹した。

「そ、それは無いと思います!多分……」

 後半、言い淀んでしまったのは、あの時口腔内に入ってきた舌の感触を思い出したからだ。

 あれは……

 ――性的な意味合いだったのか?
 ――傷を癒すためだったのか?

 全く判断が付けられない。

 卯月のはっきりしない答えに、紅砂が意地悪く突っ込む。

「思います?随分記憶があやふやですね。半分、夢見心地だったのではないですか?話では崖から落ちたと聞きましたが、その衝撃がおかしな幻想を見せただけかもしれないですよ」

「で、でも、血を吸われた時、私は顔にひどい傷を負っていたんです!血を吸った人が、傷を舐める度に傷が塞がっていったんです!そんな事、普通の人間にできるわけないでしょ?」

「そうですね……。だから傷自体、勘違いだったんじゃないですか?」

 卯月は途方に暮れた。紅砂は端から自分の言うことを信じてくれない――!やっぱり、今日は何かがおかしい。今まで、どんなにふざけたような話でも、卯月が真剣に話をすれば、紅砂はいつも同じように真剣に話しを聞いてくれたのに、今日は一体、どういうことなのだろう……?妙な違和感を感じながら、卯月は最後の質問をした。

「最後にもう一つ聞いてもいいですか?結鬼に血を吸われた犠牲者は、結鬼に血を吸われるから性的欲求が高まるの?それとも、ただの人間に血を吸われても欲求する?」

 その質問に紅砂が笑う。

「人間は他人の血など吸わないでしょう」

「まあ……そうですよね……」

 卯月は声を落として同意した。端から比較にならない最もな話なのだ。卯月は俯いたまま深く溜息を付き、四鵬の顔を思い浮かべ落ち込んだ。まったくの無意味な話になってしまった。四鵬に何て言おう。
 卯月は肩を落とし小さく縮こまってしまった。

 しばらくの間、沈黙が続いたが、ぼんやりと独り言のように紅砂がゆっくりと話始める。

「でも、まあ……、血を吸われて性欲が増すのは、相手が結鬼だからなんだろうね。もしも普通の人間相手でも性欲が高まるのなら、犠牲者は誰でもいいから、血を吸われることを望むでしょう。つまり、結鬼でなくとも、人間に血を吸ってもらう事でも構わないわけです。しかし、そういう事例は一つもないですね。大抵、結鬼の訪れを待つのが普通です」

 紅砂はここまで一気に喋ると、手に持っていた湯飲みを置き、卯月に向き直った。

「卯月……、9年前の体験が本当に結鬼で、もしも、血を吸われた結鬼にもう一度出会えたら、また血を吸ってもらいたいと強く願いますか?それとも、何て事をしてくれたと、嫌悪しますか?」

 卯月は顔を上げ、紅砂の澄んだ瞳と目が合う。

「もう一度、会えたら?……そうですね。やっぱり、血を……吸ってもらいたいです……」

 答えながら、幼い日の出来事を思い出し、腹腔から熱いものが込み上げてくる。

 あの時のあの人に、思う存分すがりつきたい――!という欲求。

 あの黒い影の香……、触れた感触……、何より卯月の顔に、傷口に、口腔内に、ゆっくりと触れる舌先の感触を思い出す度に、あの人が恋しくなる。

 これはやっぱりおかしな事なのだろうか?

 想うほどに下肢の間から、じわりと潤ってくる感触。

(あぁ……、こんな時に……何で?
 何で、血を見てもいないのに……体が火照ってくるの?)

 そんな時に、紅砂が自分の方をずっと見つめている。

(何で……?何で、そんなに、見つめるの?……お願いだから、見ないで――!!)

 卯月は羞恥に震えた。

 その様子をじっと見つめる紅砂の瞳に、卯月は耐えられなくなった。

「もう……そんな目で、私を見ないで下さい……」

 震えるような小さな声で卯月がようやく言った。
 紅砂は、慌てて、

「ごめんなさい……」

 と言って、目を反らせた。

 そして、彼はテーブルに肘を付き、顔を伏せ、栗色の柔らかそうな髪をぐしゃぐしゃと掴んだ。
 卯月はしばらくその様子を見ながら、少しの間考え、ある事を思い付いた。

「紅砂さん、それじゃあ一つ、妙なお願いを聞いてくれますか?」

「妙なお願い?」

 紅砂が顔を上げ、卯月を見つめる。

「はい。……私の血を吸ってみてください」

「は?」

 紅砂が、何を言うんだ?という顔で見つめる。
 
「私が単なる性的倒錯者なのか、結鬼の犠牲者なのか……?普通の人間のあなたが吸えば分かるんじゃないかと……。私の元々の性癖なら、あなたに吸われても私は感じる。結鬼の犠牲者なら感じない。はっきりして置きたいんです!お願いします!」

 卯月は突発的に果物ナイフを手にし、指に当てた。
 紅砂が慌てて、

「止めなさい、そんなバカなことは!!」

 と、言ってナイフを取り上げると、両手で卯月の肩を揺すった。

「そんなの、わざわざ傷を付けてまで確かめる事じゃないでしょう?!」

 と叱った。

「でも、私……知りたいんです!」

 卯月は訴えた。

「はっきりしておきたいんです!誰でもそうなってしまうのか?だから、確かめさせてください!」

 そう言って、彼女は自身の唇を噛んだ。

 血が……唇の端から流れ出すと、芳醇な香が部屋いっぱいに流れ出す。

 紅砂の心臓が大きく脈打つ――!
 慌てて目を閉じ、下を向いた。

 卯月から立ちこめる血の香は、流石の紅砂も耐えきれず、瞳が真紅に変化していた。それを卯月に悟られないよう、紅砂は瞬時に目を閉じたが、依然として血の甘い香は、紅砂の鼻腔を刺激し、理性の緒は切れかかっていた。

 普段の彼なら、もう少し耐えることが出来ただろうが、今は白閻を捕らえるために毒である瀬菜の血を吸い、弱っている最中だ。
そんな時に目の前で流れる卯月の血は耐えがたいものがあった。

 そんな事を知らない卯月は、紅砂の耳元で甘い香を放ちながら囁く。

「あの……試させてくれませんか?」

 紅砂は卯月の肩を押さえ、目を閉じたまま顔を逸らせた。

「それは……ちょっと比較しにくいんじゃないですか?」

「え?」

「……だって、あなた……、切ったのは唇でしょう。僕に血を吸ってくれと言う事は、つまり……その……。口は第二の性器とも言いますし、結鬼がどうのという前に、人として性的興奮が高まる可能性がありますでしょう。……まあ、それはあなたが僕の事をどう思っているかに因るでしょうけど……」

「あ……、そうか!」

 どうやら、卯月は今になって気づいたらしい。

「今頃になってその反応では、僕の事は元から対象外なんでしょうが……」

 と、紅砂は目を閉じたまま、少々不機嫌そうに言った。

「あ…、いえ……別にそういう訳では……」

 卯月は、何と言っていいのか分からなかった。
卯月にしてみたら、今は血を流す事しか頭になかったから、唇を噛むという選択をしただけであって、その先のことは深く考えていなかった。
今更になって、無性に恥ずかしい――。

 紅砂がゆっくりと卯月から離れ、両手で目のあたりを揉んでいる。

「どうしたんですか?さっきから目を閉じたままですし、目にゴミでも入りましたか?」

 卯月が訊く。

「え?……あ、ああ……そうです。さっきから痛いんですよね」

 紅砂はそう言って、ずっと右手で目を押さえている。

「見せてください。取ってあげますから……」

 卯月の提案に紅砂は慌てた。

「いや、大丈夫ですから、ほっといてください」

 断るも、卯月は、見るだけですから……、と言って目を押さえた紅砂の手に触れた。

 すると――、

「だめ!」

 と、言って紅砂が卯月の手を払いのけた。

(……なにも、そんな風に拒否しなくても……)

 卯月がそう思うと、ある事を思い出した。

(そういえば……四鵬は血を見た時、目が真紅に変っていた。――そして、あの時の黒い影も……。まさか!紅砂さんも――!)

「紅砂さん!目を見せてください!」

 卯月は紅砂の瞳の色を確認しようと、強引に紅砂の顔を両手で挟み、引き寄せた。

「ちょ……、ちょっと、卯月……痛いです!」

「見せて!」

「だめです!無理、無理!」

(目にゴミが入ったくらいで、そこまで拒否するものだろうか?結鬼に関する事だって、何気に犠牲者である四鵬より詳しい。羅遠の記録があるといっても、誰も見た事はないし、それよりも紅砂までもが、すでに犠牲者だったと考えたら……?)

 卯月は強い口調で見せてくれるよう強要した。
だが、紅砂は断固として拒否する。

 見せて!ダメ!見せて!ダメ!――の問答を繰り返し、二人がもつれ合っていると、突然、卯月から離れようとしていた紅砂が逆に卯月を抱きしめるようにもたれかかる。

 紅砂の居る方向から鬱蒼たる新緑の香がふんわりと吹き付けてきた。そして、卯月の心と体が瞬時に硬直した。

(――この香は……?!)

 紅砂が卯月の耳元で囁いた。

「……卯月、僕は……体調が悪いから、もう……休ませてください」

 言われて、卯月は、はっとした。

「ご……ごめんなさい」

(そうだった……。紅砂は今日、体調が悪かったのだ。なのに……私は――!)

 紅砂は気だるげにゆるりと立ち上がると、部屋を後にした。――寸前、襖の奥で振り返って卯月を見る。
 半顔を襖で隠し、見える左目を僅かに細めながら紅砂は、

「少し休んできますから、続きはまた後ほど……」

 と言って、部屋を出て行った。

 出て行く寸前、見せた左目はいつもと変らない茶褐色の瞳であったが、卯月は、紅砂がもたれかかってきた時の彼から香る匂いに、覚えがあった。

 それはあの時の、あの黒い影とよく似た香だった。


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