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時刻は正午を回っていた。
紅砂は羅遠家に戻り、風呂に浸かりながら、浴室の大窓から青空を眺めていた。血の匂いを落とし、ゆったりとした水面の揺らぎの中、やっと人心地着く。浴槽の縁を背に両手を掛けながら、紅砂は天井を見上げこれからの段取りに思考を巡らせた。すると浴室の扉が唐突に開く。
「あ!紅砂さん、何やってるんですか?具合が悪くて寝てたんじゃないですか?!」
浴室の掃除をしようと卯月が入って来たのだ。
「やあ、もう心配には及びませんよ。すっかり良くなりましたから……」
「ならいいですけど……。何でこんな時間にお風呂に入ってるんですか?私、今から掃除しようと思ってるんですけど……」
「それはご苦労様です。後はやっておくからいいよ」
そうですか……と言って、卯月は踵を返して去ろうとしたが、立ち止まって紅砂にもう一度声を掛けた。
「あの……、具合が良くなったのでしたら、後でもう一度お話を伺ってもいいですか?」
「ええ、構いませんけど、またあなたの血を吸ったかもしれない結鬼の事?」
「はい」
「……もう……忘れてしまったら如何です?あれは、結鬼ではないと……」
紅砂の濡れた髪から煌く雫が数滴落ちてゆき、水面に波紋を立てた。
卯月はゆっくりと息を吸い込み口を開く。
「それが出来たら楽ですね……」
「楽しなさいよ……」
「あなたは、すぐにそう思えば、楽出来るのですか?」
紅砂が振り返る。
濡れた栗色の髪の毛の合間から、彼の瞳が静かに卯月を見つめた。
「全ては、去ってしまった過去。そんなものをいつまでも気に留めるのは愚かな事です」
「そんな風に吹っ切りたいですね……」
「大抵は、無理ですけどね……」
卯月は思わず吹き出した。
舌の根も乾かないうちに逆のこと言ってる。
「何か……可笑しかったですか?」
「いえ、あなたでも吹っ切れない事とかあるんですか?」
紅砂は静かに前方の窓の景色を眺め、
「一番の愚か者だと思いますよ……」
と、言った。
「そんな風に見えませんけど……」
「幾重にも重ねて皮被ってますから……。それより、卯月。僕はそろそろ風呂から出ようかと思うのですが、……このままではのぼせてしまう。まあ、あなたが気にならないのなら見せてもいいのですが……」
「ご、ごめんなさい!すぐに出て行きます!!」
卯月はあたふたと出て行った。
紅砂はその様子を見つめながら、
「楽は苦の種、苦は楽の種……。どの選択をしようが巡り巡ってやって来る」
と、呟きながら、楽したいな~、と一人ごちた。
紅砂は部屋に戻ると自家製の5つの薬草から作ったお茶を入れた。風呂を出る際、卯月に部屋に来るよう言っておいたから、もうすぐ来る頃だろう。このお茶は自身の嗅覚を僅かだが鈍らせる。同時に卯月に飲ませれば、彼女から吹き付ける結鬼の女としての甘い香も抑えられる。白閻が卯月の所在を嗅覚で探れなくなったのは、このお茶の効果だ。しかしこれは、対白閻向けというより、寧ろ自分向けだ。今朝のような失態は勘弁願いたい。
紅砂はお茶を淹れた後、縁側の縁に腰を掛け庭を眺めた。縁側に張り出した柱に寄りかかり目を閉じて、池の水の音、山から流れる川のせせらぎ、海の潮騒の音に集中する。
水は様々な形に変貌する。ある時は、空気に溶け込み、ある時は、滔々と流れ圧倒的な質量を為す海へ、ある時は、何万年と続く時間を硬く冷たい氷で閉ざす。
背後でゆっくりと襖の開く音がする。
卯月は襖を開けて紅砂に声を掛けようとして、はたと止めた。
縁側に座る彼の後ろ姿を黙って見つめた。
シーンと、空気が張り詰めたような静寂に満ちた神秘的な時──。
自然との調和は、厳かで雄大な力から発するものかと思っていたが、こんな庭先でも静寂を持ってすれば小さな自然の息吹と一体感を感じることが可能なのか──?
卯月はぼんやりとそんな事を思った。
その静寂を破り紅砂が声を掛けた。
「いつまで其処にいらっしゃるのですか?こちらに来て一緒にお茶でも如何です?」
「は、はい」
卯月は返事をし、失礼します、と言って紅砂の傍らに腰を下ろした。
「何ですぐに入って来なかったのですか?」
紅砂の問いかけけに卯月は答えに窮した。
代わりに紅砂の作務衣の裾を掴む。
「?」
紅砂は卯月の行動が理解できず、彼女の顔を覗きこんだ。
沈黙が二人の間を繋ぐ……。
「……いつまでも……此処に居て下さい」
卯月の呟きに紅砂は優しく微笑むと
「僕はずっとここに居ますよ。どうしたんですか、突然?」
と尋ねた。
卯月は紅砂の作務衣の裾をぎゅっと握り、
「なんだかさっき、あなたがこのまま消えてしまうような気がして……」
「……なるほどね。でも……全てのモノはいつかは消え逝く運命ですよ。いや……消え逝くというより、溶け込み見えなくなる……と言ったほうがいいかな?少なくとも、僕はそう思いたい……」
そう言って紅砂は一呼吸置き、空に浮かぶ雲を見つめる。雲は上空でゆったりと形を変えながら流れては消えて行く。しかし、そう見えるのは人の目で見るからだ。
「『水月の位』って知っていますか?」
唐突に紅砂が問いかける。
「え?いえ……」
紅砂は天空を見上げたまま独り言のように話し出す。
「雨上がりの水溜りに月が映っている。水は月を映そうと思って映している訳でもなく、月もまた水溜りに自分の姿を映そうなどと思っていない。……水に映る月を例えに無心の境地を語ったものです」
「……」
「『無』とは、何処にも留まることのない心を表す。それは、我欲が無いと言うこと。執着を捨て、心が留まらなければ、あらゆるモノが自然と心に映る。あらゆるモノが心に映るという事は、すなわち、何処にでも心は『有る』という事。もしも、あらゆるモノを心に映す者が居たとしたら、その者の在り方は、消え入りそうなほど儚く見えるものなのかもしれませんね」
「そういう境地だったのですか?」
卯月が問い返すと紅砂は微かに微笑み、
「まさか……、そんな風に過ごせたらどうだろうと思うばかりで、僕の場合は違いますよ……僕は我欲を消す事ができないから……」
そう言って俯く紅砂の横顔には、侘しさと切なさが籠もっていた。
陽の光を浴びて、さらに赤味を増した栗色の髪が美しいと卯月は思った。
「僕はどうしても……、すぐ近くにある遠いものを求めてしまう……。そんなものを求めたところで水の中で水を求めるのと同じ事。今ある状態こそ幸福であるはずなのに……本当に今こそが幸福であるはずなのに……どうしてもそれ以上の事を求めてしまう……。今が過ぎればこの瞬間こそ幸福であったと思えるのですがね……」
一度間を置き、苦渋に満ちた彼の横顔は、脆く儚げに見えた。
「だから、求める事は愚かな事と思いながらも、僕はその渇望から逃れることが出来ない……」
卯月は何も言えなかった。
いつも飄々と静かに過ごしている紅砂の心にも卯月が理解出来ない苦しみがあったのか。
──すぐ近くにあって遠いもの……
彼は一体何を求めているのだろう……?
「……近くにあって、遠いもの……?」
卯月はもう一度口に出して呟いてみた。
「そうです。──手を伸ばせばすぐ近くにあるのですが、決して手に入らない遠いもの……」
そう言った紅砂の瞳には卯月の姿が映っている。
卯月も彼の瞳を見ていた。
そしてまた静寂が訪れる。
──何かが体に染み込んでいくような長い沈黙……
紅砂が瞳を反らせた。
卯月もその視線の先を追うとした。だが、彼の視線は確かに、近くを見ているようで遠くを見ているような……そんな気がして、彼の視線の先を探りたくても全く探り出せなくて……、卯月は無性に寂しくなった。
「卯月……」
紅砂の問いかけに卯月が顔を上げる。
「あなたは、今とても不安なんですか?」
紅砂は尋ねながら、先ほどから掴まれている作務衣の裾を見つめる。
卯月は紅砂の視線に気づき手を離した。
「そう……かもしれませんね」
「四鵬の事なら大丈夫ですよ。手は打って来ましたから、今のところは心配ないでしょう」
「え?」
と言って卯月が驚いたような顔をする。
「紅砂さん……四鵬が結鬼の犠牲者って分かっていたのですか?」
「ええ……、やっぱり卯月も聞いていたのですね」
「はい、あの……では私の血を吸った結鬼については?」
「あなたの場合は忘れてしまったほうがいいでしょう」
「私が知る事は……あの結鬼に会う事はよくない事でしょうか?」
「ええ、それより日常を大切にして下さい」
紅砂の言葉に何故だか卯月は、あの人に別れを宣告されたかのような胸の痛みを感じた。瞳も徐々に潤み始め、かろうじて瞼から涙が零れない程度に濡れる。
(──どうしてこんなに寂しい気持ちになるのだろう……)
──あの人に、忘れろと言われたわけでもないのに……
──あの人に、別れを告げられたわけでもないのに……
卯月の心はあの人に突き放されたようで、悲しみが胸いっぱいに広がり、目には涙が次第に溢れてくる。
それを悟られないように顔を背けながら卯月は紅砂に問い返した。
「だったら……、今は日常ですよね?」
「そうですね」
と紅砂が言い切るのとほぼ同時に背中に衝撃が走る。
卯月は彼の背に頬を寄せたまま、きつく両手で抱きしめた。
──やはり、あの森の香……
──あの人の、香だ……
この芳香……。
あの人の想いが強くなればなるほど、卯月は紅砂をきつく抱きしめた。
卯月の手はあの人の体を求めるように次第に紅砂の作務衣を割ってその肌を求めに行く。
──似ている……
──僅かな間だけ、抱きしめたあの人の感触に……
卯月の胸の中で、どんどん愛しさが募って行く。まさぐるように彼の胸に両手を巻きつけ、彼の背から肩まで唇を這わせるように上昇する。そして、彼女の唇が彼の首筋に触れようとした、その瞬間──。
「卯月!!」
紅砂の叱咤に、卯月は、はっと我に返り慌てて手を引っ込めた。
「ご、ごめんなさい……」
「……相手が……違います」
「……ごめんなさい」
卯月はもう一度言った。
四鵬の時のように、あの人の代わりを紅砂にまで求めた。それを紅砂に見透かされたようで、卯月は自分を恥じた。身代わりになんて、失礼にもほどがある。
「本当に……申し訳ありませんでした。どうかしてました」
と、頭を下げた。
「いいえ」
紅砂は気にした風も無く答えると湯飲みを卯月の方に差し出した。
「お茶でも飲んで落ち着いて下さい」
「あ、有難う御座います」
卯月は一気に茶を飲み干した。
ふぅ~、と息を付くと、紅砂に向き直り、
「ごめんなさい、私……今、日常に戻りなさいと言われたばかりなのに、何だかおかしいですよね」
と言いながら自分の両方の頬をぺちぺちと叩いた。
紅砂はその様子を静かに見つめながら、
「いいえ」
と答える。
その優しげな眼差しに、どうしても胸が締め付けられる。
(あなたがそんな眼をするから……)
卯月は胸の締め付けを振り払うように、唇を引き締めたかと思うと、強い意思を込めて紅砂に尋ねた。
「でも、紅砂さんは、私の血を吸った結鬼と同じ香がします。……どうしてですか?」
瞬間、紅砂の左の頬が僅かに引き攣った──。
「それは、どんな香ですか?」
「深い……森のような香です」
「森?……だったら僕もよく森の中に入るからじゃないですか?」
「そ……そうですよね」
と、卯月は納得したように答えが、質問をした時……僅かだが彼の頬が引き攣った。
あれは、あまり感情を表に出さない紅砂が微かに見せる感情の機微。焦ったり、図星を突かれた時の反応だ。やっぱり、紅砂は卯月の血を吸った結鬼を知っている?
(でも……どうして、私は知らないほうがいいのだろう……?)
ガラガラガラと、玄関の方で人の気配がした。
「刈谷さんが帰って来たようですね。僕はちょっと、彼女とお話したいことがありますので失礼します」
と、言って立ち上がった。
部屋を出て行こうとする紅砂の後姿に卯月は慌てて、あの……、と声をかける。
「何?」
と振り返る紅砂の瞳を見て言葉に窮する。
卯月の脳裏で、瀬菜を抱きかかえる二人の様子がちらついた。
紅砂は卯月が喋り出すまで、黙って待っていてくれる。いつもこの人はこうだ。その沈黙の優しさが身に染みて、卯月は、『行かないで……』と言いたい言葉を飲み込んだ。
「な……なんでもありません……」
言ったと同時に電話が鳴る。
卯月は慌てて電話に向かい、紅砂は、それじゃあ、と言って去って行った。
卯月が電話を終えると、溜息を付ながら受話器を置き窓の外を見つめた。外では、紅砂と瀬菜がどこかに行くようだ。
卯月は二人を見送りながら、心の底から広がってゆく寂しさを感じた。
自分で決めた事なのに、今頃になって島を離れることが嫌になった。
一度……出てしまったら、もう此処での自分の居場所を失うようで、急に怖くなってしまったのだ。
紅砂は羅遠家に戻り、風呂に浸かりながら、浴室の大窓から青空を眺めていた。血の匂いを落とし、ゆったりとした水面の揺らぎの中、やっと人心地着く。浴槽の縁を背に両手を掛けながら、紅砂は天井を見上げこれからの段取りに思考を巡らせた。すると浴室の扉が唐突に開く。
「あ!紅砂さん、何やってるんですか?具合が悪くて寝てたんじゃないですか?!」
浴室の掃除をしようと卯月が入って来たのだ。
「やあ、もう心配には及びませんよ。すっかり良くなりましたから……」
「ならいいですけど……。何でこんな時間にお風呂に入ってるんですか?私、今から掃除しようと思ってるんですけど……」
「それはご苦労様です。後はやっておくからいいよ」
そうですか……と言って、卯月は踵を返して去ろうとしたが、立ち止まって紅砂にもう一度声を掛けた。
「あの……、具合が良くなったのでしたら、後でもう一度お話を伺ってもいいですか?」
「ええ、構いませんけど、またあなたの血を吸ったかもしれない結鬼の事?」
「はい」
「……もう……忘れてしまったら如何です?あれは、結鬼ではないと……」
紅砂の濡れた髪から煌く雫が数滴落ちてゆき、水面に波紋を立てた。
卯月はゆっくりと息を吸い込み口を開く。
「それが出来たら楽ですね……」
「楽しなさいよ……」
「あなたは、すぐにそう思えば、楽出来るのですか?」
紅砂が振り返る。
濡れた栗色の髪の毛の合間から、彼の瞳が静かに卯月を見つめた。
「全ては、去ってしまった過去。そんなものをいつまでも気に留めるのは愚かな事です」
「そんな風に吹っ切りたいですね……」
「大抵は、無理ですけどね……」
卯月は思わず吹き出した。
舌の根も乾かないうちに逆のこと言ってる。
「何か……可笑しかったですか?」
「いえ、あなたでも吹っ切れない事とかあるんですか?」
紅砂は静かに前方の窓の景色を眺め、
「一番の愚か者だと思いますよ……」
と、言った。
「そんな風に見えませんけど……」
「幾重にも重ねて皮被ってますから……。それより、卯月。僕はそろそろ風呂から出ようかと思うのですが、……このままではのぼせてしまう。まあ、あなたが気にならないのなら見せてもいいのですが……」
「ご、ごめんなさい!すぐに出て行きます!!」
卯月はあたふたと出て行った。
紅砂はその様子を見つめながら、
「楽は苦の種、苦は楽の種……。どの選択をしようが巡り巡ってやって来る」
と、呟きながら、楽したいな~、と一人ごちた。
紅砂は部屋に戻ると自家製の5つの薬草から作ったお茶を入れた。風呂を出る際、卯月に部屋に来るよう言っておいたから、もうすぐ来る頃だろう。このお茶は自身の嗅覚を僅かだが鈍らせる。同時に卯月に飲ませれば、彼女から吹き付ける結鬼の女としての甘い香も抑えられる。白閻が卯月の所在を嗅覚で探れなくなったのは、このお茶の効果だ。しかしこれは、対白閻向けというより、寧ろ自分向けだ。今朝のような失態は勘弁願いたい。
紅砂はお茶を淹れた後、縁側の縁に腰を掛け庭を眺めた。縁側に張り出した柱に寄りかかり目を閉じて、池の水の音、山から流れる川のせせらぎ、海の潮騒の音に集中する。
水は様々な形に変貌する。ある時は、空気に溶け込み、ある時は、滔々と流れ圧倒的な質量を為す海へ、ある時は、何万年と続く時間を硬く冷たい氷で閉ざす。
背後でゆっくりと襖の開く音がする。
卯月は襖を開けて紅砂に声を掛けようとして、はたと止めた。
縁側に座る彼の後ろ姿を黙って見つめた。
シーンと、空気が張り詰めたような静寂に満ちた神秘的な時──。
自然との調和は、厳かで雄大な力から発するものかと思っていたが、こんな庭先でも静寂を持ってすれば小さな自然の息吹と一体感を感じることが可能なのか──?
卯月はぼんやりとそんな事を思った。
その静寂を破り紅砂が声を掛けた。
「いつまで其処にいらっしゃるのですか?こちらに来て一緒にお茶でも如何です?」
「は、はい」
卯月は返事をし、失礼します、と言って紅砂の傍らに腰を下ろした。
「何ですぐに入って来なかったのですか?」
紅砂の問いかけけに卯月は答えに窮した。
代わりに紅砂の作務衣の裾を掴む。
「?」
紅砂は卯月の行動が理解できず、彼女の顔を覗きこんだ。
沈黙が二人の間を繋ぐ……。
「……いつまでも……此処に居て下さい」
卯月の呟きに紅砂は優しく微笑むと
「僕はずっとここに居ますよ。どうしたんですか、突然?」
と尋ねた。
卯月は紅砂の作務衣の裾をぎゅっと握り、
「なんだかさっき、あなたがこのまま消えてしまうような気がして……」
「……なるほどね。でも……全てのモノはいつかは消え逝く運命ですよ。いや……消え逝くというより、溶け込み見えなくなる……と言ったほうがいいかな?少なくとも、僕はそう思いたい……」
そう言って紅砂は一呼吸置き、空に浮かぶ雲を見つめる。雲は上空でゆったりと形を変えながら流れては消えて行く。しかし、そう見えるのは人の目で見るからだ。
「『水月の位』って知っていますか?」
唐突に紅砂が問いかける。
「え?いえ……」
紅砂は天空を見上げたまま独り言のように話し出す。
「雨上がりの水溜りに月が映っている。水は月を映そうと思って映している訳でもなく、月もまた水溜りに自分の姿を映そうなどと思っていない。……水に映る月を例えに無心の境地を語ったものです」
「……」
「『無』とは、何処にも留まることのない心を表す。それは、我欲が無いと言うこと。執着を捨て、心が留まらなければ、あらゆるモノが自然と心に映る。あらゆるモノが心に映るという事は、すなわち、何処にでも心は『有る』という事。もしも、あらゆるモノを心に映す者が居たとしたら、その者の在り方は、消え入りそうなほど儚く見えるものなのかもしれませんね」
「そういう境地だったのですか?」
卯月が問い返すと紅砂は微かに微笑み、
「まさか……、そんな風に過ごせたらどうだろうと思うばかりで、僕の場合は違いますよ……僕は我欲を消す事ができないから……」
そう言って俯く紅砂の横顔には、侘しさと切なさが籠もっていた。
陽の光を浴びて、さらに赤味を増した栗色の髪が美しいと卯月は思った。
「僕はどうしても……、すぐ近くにある遠いものを求めてしまう……。そんなものを求めたところで水の中で水を求めるのと同じ事。今ある状態こそ幸福であるはずなのに……本当に今こそが幸福であるはずなのに……どうしてもそれ以上の事を求めてしまう……。今が過ぎればこの瞬間こそ幸福であったと思えるのですがね……」
一度間を置き、苦渋に満ちた彼の横顔は、脆く儚げに見えた。
「だから、求める事は愚かな事と思いながらも、僕はその渇望から逃れることが出来ない……」
卯月は何も言えなかった。
いつも飄々と静かに過ごしている紅砂の心にも卯月が理解出来ない苦しみがあったのか。
──すぐ近くにあって遠いもの……
彼は一体何を求めているのだろう……?
「……近くにあって、遠いもの……?」
卯月はもう一度口に出して呟いてみた。
「そうです。──手を伸ばせばすぐ近くにあるのですが、決して手に入らない遠いもの……」
そう言った紅砂の瞳には卯月の姿が映っている。
卯月も彼の瞳を見ていた。
そしてまた静寂が訪れる。
──何かが体に染み込んでいくような長い沈黙……
紅砂が瞳を反らせた。
卯月もその視線の先を追うとした。だが、彼の視線は確かに、近くを見ているようで遠くを見ているような……そんな気がして、彼の視線の先を探りたくても全く探り出せなくて……、卯月は無性に寂しくなった。
「卯月……」
紅砂の問いかけに卯月が顔を上げる。
「あなたは、今とても不安なんですか?」
紅砂は尋ねながら、先ほどから掴まれている作務衣の裾を見つめる。
卯月は紅砂の視線に気づき手を離した。
「そう……かもしれませんね」
「四鵬の事なら大丈夫ですよ。手は打って来ましたから、今のところは心配ないでしょう」
「え?」
と言って卯月が驚いたような顔をする。
「紅砂さん……四鵬が結鬼の犠牲者って分かっていたのですか?」
「ええ……、やっぱり卯月も聞いていたのですね」
「はい、あの……では私の血を吸った結鬼については?」
「あなたの場合は忘れてしまったほうがいいでしょう」
「私が知る事は……あの結鬼に会う事はよくない事でしょうか?」
「ええ、それより日常を大切にして下さい」
紅砂の言葉に何故だか卯月は、あの人に別れを宣告されたかのような胸の痛みを感じた。瞳も徐々に潤み始め、かろうじて瞼から涙が零れない程度に濡れる。
(──どうしてこんなに寂しい気持ちになるのだろう……)
──あの人に、忘れろと言われたわけでもないのに……
──あの人に、別れを告げられたわけでもないのに……
卯月の心はあの人に突き放されたようで、悲しみが胸いっぱいに広がり、目には涙が次第に溢れてくる。
それを悟られないように顔を背けながら卯月は紅砂に問い返した。
「だったら……、今は日常ですよね?」
「そうですね」
と紅砂が言い切るのとほぼ同時に背中に衝撃が走る。
卯月は彼の背に頬を寄せたまま、きつく両手で抱きしめた。
──やはり、あの森の香……
──あの人の、香だ……
この芳香……。
あの人の想いが強くなればなるほど、卯月は紅砂をきつく抱きしめた。
卯月の手はあの人の体を求めるように次第に紅砂の作務衣を割ってその肌を求めに行く。
──似ている……
──僅かな間だけ、抱きしめたあの人の感触に……
卯月の胸の中で、どんどん愛しさが募って行く。まさぐるように彼の胸に両手を巻きつけ、彼の背から肩まで唇を這わせるように上昇する。そして、彼女の唇が彼の首筋に触れようとした、その瞬間──。
「卯月!!」
紅砂の叱咤に、卯月は、はっと我に返り慌てて手を引っ込めた。
「ご、ごめんなさい……」
「……相手が……違います」
「……ごめんなさい」
卯月はもう一度言った。
四鵬の時のように、あの人の代わりを紅砂にまで求めた。それを紅砂に見透かされたようで、卯月は自分を恥じた。身代わりになんて、失礼にもほどがある。
「本当に……申し訳ありませんでした。どうかしてました」
と、頭を下げた。
「いいえ」
紅砂は気にした風も無く答えると湯飲みを卯月の方に差し出した。
「お茶でも飲んで落ち着いて下さい」
「あ、有難う御座います」
卯月は一気に茶を飲み干した。
ふぅ~、と息を付くと、紅砂に向き直り、
「ごめんなさい、私……今、日常に戻りなさいと言われたばかりなのに、何だかおかしいですよね」
と言いながら自分の両方の頬をぺちぺちと叩いた。
紅砂はその様子を静かに見つめながら、
「いいえ」
と答える。
その優しげな眼差しに、どうしても胸が締め付けられる。
(あなたがそんな眼をするから……)
卯月は胸の締め付けを振り払うように、唇を引き締めたかと思うと、強い意思を込めて紅砂に尋ねた。
「でも、紅砂さんは、私の血を吸った結鬼と同じ香がします。……どうしてですか?」
瞬間、紅砂の左の頬が僅かに引き攣った──。
「それは、どんな香ですか?」
「深い……森のような香です」
「森?……だったら僕もよく森の中に入るからじゃないですか?」
「そ……そうですよね」
と、卯月は納得したように答えが、質問をした時……僅かだが彼の頬が引き攣った。
あれは、あまり感情を表に出さない紅砂が微かに見せる感情の機微。焦ったり、図星を突かれた時の反応だ。やっぱり、紅砂は卯月の血を吸った結鬼を知っている?
(でも……どうして、私は知らないほうがいいのだろう……?)
ガラガラガラと、玄関の方で人の気配がした。
「刈谷さんが帰って来たようですね。僕はちょっと、彼女とお話したいことがありますので失礼します」
と、言って立ち上がった。
部屋を出て行こうとする紅砂の後姿に卯月は慌てて、あの……、と声をかける。
「何?」
と振り返る紅砂の瞳を見て言葉に窮する。
卯月の脳裏で、瀬菜を抱きかかえる二人の様子がちらついた。
紅砂は卯月が喋り出すまで、黙って待っていてくれる。いつもこの人はこうだ。その沈黙の優しさが身に染みて、卯月は、『行かないで……』と言いたい言葉を飲み込んだ。
「な……なんでもありません……」
言ったと同時に電話が鳴る。
卯月は慌てて電話に向かい、紅砂は、それじゃあ、と言って去って行った。
卯月が電話を終えると、溜息を付ながら受話器を置き窓の外を見つめた。外では、紅砂と瀬菜がどこかに行くようだ。
卯月は二人を見送りながら、心の底から広がってゆく寂しさを感じた。
自分で決めた事なのに、今頃になって島を離れることが嫌になった。
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