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空には満天の星が宝石のように輝いていた。
二人は崖下にある大きな岩に並んで腰を下ろした。
「ずっと、お話したかったんです……」
傍らにいる紅砂の様子を意識しながら卯月は言った。
紅砂の横顔は、「そう……」とそっけなく答えるだけで卯月を見ようともしなかった。
「紅砂さん、怪我の具合は如何です?」
「怪我?」
紅砂は眉間にしわを寄せた。
徐に卯月は手を伸ばし、紅砂の襟足の髪を退かした。
「ここに傷跡がありませんでした?」
「いいえ……元からそんなもの、ありませんでしたよ」
「あれ?おかしいな……だって夕食の時、私は確かに……」
「気のせいですよ、ほら、何もないでしょ」
紅砂は自分で髪を払いのけ、首筋を卯月に見せた。
「え、ええ……、じゃあ、手は?左手!!左手の動きもおかしかったです」
「どこもおかしくないですよ、なんなんですか、さっきから?」
紅砂がうんざりしたように答えた。
「じゃあ、ちゃんと見せてください」
卯月が紅砂の左手に手を伸ばすと、紅砂は慌てて左手を引っ込めた。
「余計な事はしないで下さい。なんでもないですから」
卯月の勘の良さに紅砂は少し動揺していた。
コンラッドに切り落とされた腕は、表面的には繋がっていても、まだ全ての組織が繋がったわけではなかった。少なくとも、神経の修復がどうしても遅かった。
「どうしてあなたはいつも隠すんですか?」
卯月が哀しそうに訊いた。
「そんなつもりはありませんよ」
「じゃあ、左手を見せてください!」
紅砂は深く溜息を付き、「分かりましたよ……。ほら」と弱弱しく応じ、左手を見せた。
表面的な傷跡はもう何も無いのだから、見せれば卯月も落ち着くと紅砂は思っていた。
しかし卯月は見るだけではなく、紅砂の左腕に触れてきた。
紅砂の全身が一気に総毛立つ。
卯月に触れられると、紅砂の脳裏で否が応でも1000年前の記憶が蘇る。
※
──それは1000年前のインド北西部。
艶やかな褐色の肌。
大きく濡れた黒瞳。
優美な趣の1000年前の彼女は、紅砂と出会った時には既に高位結鬼達の性の奴隷と化していた。
早期に結鬼唯一の女が高位結鬼と交わる事は、女の生命力そのものを奪う。
美しいその肢体には、無数の噛み痕が痛々しく残り、若くあどけない彼女の表情は既に屍と化していた。
『いいか、羅閻。……結鬼、唯一の女に近づくな』
紅砂の耳元で父の言葉が常に木霊していた。
『特に今回は、早くに高位結鬼に気づかれ、女は疲労と負の感情でいっぱいだ』
『近づけば必ず闇に引きずり込まれるぞ!だからいいか、絶対女に近づくなよ』
遠巻きに高位結鬼と女の様子を伺っていた父・奏閻が釘をさす。
紅砂も父の話を理解した。
それが自分を安全に生かす最良の方法だと心得ていた。
だが、紅砂は女から目を逸らすことが出来なかった。
どうしても、骸のようになってしまった彼女と同じ年頃である人間の娘を比べてしまう。
『羅閻よぉ~、そうやって比べるところが間違ってるんだよ!そんな必要ねえだろう。それぞれの運命があってしかるべきなんだからよぉ~』
奏閻の言う通りなのだ。自分と彼女の運命はかけ離れ過ぎていて、自分が彼女に関わったところで、何が変るわけでもない。
そうだと分かっていながらも、紅砂は高位結鬼の目を盗み彼女の元に走った。
始めは紅砂が近づくと彼女はひどく怯えた。高位の男共と同じだと思っていたのかもしれない。
傷の手当てをしようと紅砂が彼女の体に触れると、彼女は半狂乱になって暴れた。
その奇態に、紅砂は既に彼女には、正常な思考能力が残されていないのではないかとさえ思った。故に、益々彼は彼女を憐れんだ。
せめて傷だけは癒してやろうと、高位の奴らの目を欺いては彼女の寝ている隙に傷を癒した。
やがて時が満ち、高位結鬼達の戦いも終焉を向かえ、何もかも平穏が訪れたかと思われたある日の事──。
彼女に異変が起きた。
紅砂は彼女との別れの日が訪れた事を知った。
紅い砂地を苦しげにのた打ち回る彼女。
全身から大量に溢れる出血。
これが結鬼の──出産の時だった。
(苦しい、苦しい、助けて、痛い、痛いの!誰か……誰か……)
ガクガクと震え、痛々しげに涙を零しながら助けを求める彼女の姿に紅砂の胸は締め付けられた。
(どうして、彼女にはいつも痛みと苦しみしか与えられないのだろう?)
紅砂の疑問に父はこう答えた。
『一度、波に乗った負の連鎖は、俺達結鬼が滅びるまで留まることはねぇんだ。仕方がねぇ、これが運命だ。生命とは、俺達の意図と関係なく運ばれちまう時だってあるんだ。その波に乗ってしまったら、もう滅びを待つしかねーのよ』
空しかった……。
ならば彼女の一生はなんだったのであろうか?
『バカヤロー、生命とはいつだって空しいもんだ!だから考えるな!今を楽しめ、今ある生だけを楽しむんだよ!』
父はいつだってそう答える。
紅砂は納得出来なかった。
『余計な事は考えるんじゃねぇ!考えるから空しいんだ。だからてめぇは莫迦なんだ』
──考えるから空しい
──確かに、そういうものなのだろう
だが、どうしてもあの人の姿が忘れられない……。
彼女は……、苦しむために存在しているのだろうか?
美しい顔を苦痛で歪め、涙を流すためだけに彼女は存在しているというのだろうか?
だとしたらあまりにも哀れだ。
それが運命と割り切ったとしても、空しく……哀れだ。
(怖い…怖い…怖い…)
血と涙で全身を濡らしながら、なにかを掴むように彼女の右手が伸びた。
紅砂は震えるその手を見るなり、彼女に向かって飛び出していた。
今更、何が出来るわけでもない。
彼女を救う事など出来ない。
結鬼唯一の女の今生による最後は、霊気の放出という出産の代わりを行い、あとは朽ちて行くという運命だった。
彼女の残りの時間は、身体の崩壊のみを残しているだけだった。
それでも、紅砂は何かしたかった。
してやりたかった。
差し出された手があるのなら、握ってやる事。
それだけしか出来なかったのだが……。
※
紅砂の心を1000年前の記憶が埋め尽くしていた。
彼女を救ってやりたかった。
例え逃れられない運命だとしても、少しでも彼女を楽にしてやりたかった。
喜びを与えてやりたかった。
楽しみを与えてやりたかった。
ぬくもりを与えてやりたかった。
そんな想いを込め、気がつけば卯月の手をあの時と同じ想いできつく握っていた。
顔を上げると目の前の卯月が1000年前と同じように涙で頬を濡らしていた。
「あ、ご、ごめん……、きつく握りすぎた……」
紅砂は目を反らせ、左手をもぎ離そうとしたが卯月は離さなかった。
「卯月……離して……」
紅砂の言葉に卯月は首を何度も振った。
彼女の涙が止め処なく溢れ地面に落ちて行く。
「嫌よ…嫌……。ずっと、ずっと探していたの……私はこの手を……夢の中でずっと……」
卯月のか細い声と涙が、ただ事ではないものを感じさせた。
「卯月…? 何を……言っているんだ……?」
紅砂も緊張を強いられ、眉を寄せて問う。
吹き抜ける風は生暖かく、森を重苦しくざわつかせた。
「そう、夢なんです……。夢の中の出来事なんです……けど、何度も何度も見るんです。幼い頃、此処で結鬼に血を吸われてから……」
卯月が紅砂の左手をきつく抱き寄せ、震えながら頬を寄せた。
「夢の中で私は、砂地の上で傷つき倒れ、生きる希望もなく、憎悪の塊となって横たわっているだけ……。だけど、最後の……最後に、私の手を握ってくれた手が……、その手の感触が……あなたの手と同じなんです!
忘れもしない……間違いようもない、あの手の温もり……、同じ、同じ……同じなんです!!あの時の手と、あなたは同じなんです!!
あなたは一体、誰なんですか!?」
卯月の言葉に紅砂は何も言えなかった。驚きのあまり、体は硬直し、一体どう説明していいのかすら分からなかった。
卯月が1000年前の記憶をそのまま持ち得ているなどありえない。
けれども、今の話の断片は明らかに1000年前の現実。
「あなたは誰ですか!?……結鬼……そう……結鬼なんでしょう?」
紅砂は唇を噛み締め答えた。
「待って、それは、夢の……話でしょう? 夢は夢です。あなたは単に幻を見たに過ぎない。結鬼の存在は西洋では夢魔に例えられたりもするんです。それは、恐らく幼い頃に結鬼と遭遇した名残にすぎない。だから、それは勘違いです!あなたの思い込みです!!」
卯月は髪を振り乱して否定した。
「違う!違う!!この手の感触だけは忘れない!!忘れられない!あの人が私の手を握り、何かを言った……あの瞬間の感覚だけは幻とは思えない!!何よりも私の体に染み付いてるの!記憶しているの!あれは、夢なんかじゃない、ここにこうしてあるのよ!夢と……夢と同じ手がここに!!ずっとずっと欲しかった……会いたかったあの時の手が……手の主が……!!ここに……」
卯月は紅砂の左手を愛しげに口付けした。
何度も何度も唇を押し付けた。
紅砂が苦しげに答える。
「僕には……全く覚えが無い。それはあなたの勘違いだ……間違いなんだ!!」
「それでもいいです。私はもう……この手を離さない、離したくないです」
紅砂は身震いした。
「駄目です!それは出来ない!!」
「どうしてですか!?お願いです!私を……私をお傍に置かせてください!今までと同じく、あの家で……」
卯月の願いに紅砂は首を振った。
「それは無理なんです……。あなたにはあなたの人生が、僕には僕の人生があります!」
「だから、その人生を一緒に歩ませて下さい!」
「駄目だ!」
「……私では、気に入らないと?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ……やっぱり、こういう意味?」
卯月はここで言葉を区切ると同時に唇を噛み切った。
辺り一面に広がる血の芳香。
その瞬間、暗闇の中で赤光を放つ紅砂の瞳は、もう誤魔化しようがなかった。
卯月の白い手がゆっくりと紅砂の頬に触れる。
「あなたは……人ではない……あなたがあの時の……」
──結鬼。
卯月がゆっくりと紅砂に頬を寄せ、唇と唇が触れ合うと、すぐに熱い舌が彼女の血と共に進入してきた。
その甘美な味わいに紅砂の脳髄は白泥と化した。
逆らう事のできない、血の欲望。
紅砂の手は卯月を抱きしめようと、その肩に触れようとした。だが、拳を握り踏み止まる。
卯月を引き剥がし、朱に染まった唇が震えた。
「駄目だ……いけない……、あなたは僕とでは駄目なんだ」
「どうして?私は構わない!!あなたが人でなくとも、なんであろうと!」
「違う!!そういう問題ではないんだ!君とは……、どうしたって……」
紅砂は言葉に詰まった。卯月の泣き濡れた顔を見たからだ。
彼は、卯月の今の顔を見たかったわけではない。
1000年もの昔から、彼と彼女が望んだもの。
それは、彼女の心からの笑顔──。
卯月の涙が月光に輝く。
「……あなたの事、お慕いしています……」
(──ああ、この人は……どうしてこんな恐ろしいことを口にする……)
紅砂の心は揺れた。
感動と困惑と恐怖が入り混じった複雑な心。
卯月の想いを、紅砂が拒否する事は出来なかった。
思いもよらぬ運命の奔流に、ただ飲まれるしかない事を紅砂は知った。
二人は崖下にある大きな岩に並んで腰を下ろした。
「ずっと、お話したかったんです……」
傍らにいる紅砂の様子を意識しながら卯月は言った。
紅砂の横顔は、「そう……」とそっけなく答えるだけで卯月を見ようともしなかった。
「紅砂さん、怪我の具合は如何です?」
「怪我?」
紅砂は眉間にしわを寄せた。
徐に卯月は手を伸ばし、紅砂の襟足の髪を退かした。
「ここに傷跡がありませんでした?」
「いいえ……元からそんなもの、ありませんでしたよ」
「あれ?おかしいな……だって夕食の時、私は確かに……」
「気のせいですよ、ほら、何もないでしょ」
紅砂は自分で髪を払いのけ、首筋を卯月に見せた。
「え、ええ……、じゃあ、手は?左手!!左手の動きもおかしかったです」
「どこもおかしくないですよ、なんなんですか、さっきから?」
紅砂がうんざりしたように答えた。
「じゃあ、ちゃんと見せてください」
卯月が紅砂の左手に手を伸ばすと、紅砂は慌てて左手を引っ込めた。
「余計な事はしないで下さい。なんでもないですから」
卯月の勘の良さに紅砂は少し動揺していた。
コンラッドに切り落とされた腕は、表面的には繋がっていても、まだ全ての組織が繋がったわけではなかった。少なくとも、神経の修復がどうしても遅かった。
「どうしてあなたはいつも隠すんですか?」
卯月が哀しそうに訊いた。
「そんなつもりはありませんよ」
「じゃあ、左手を見せてください!」
紅砂は深く溜息を付き、「分かりましたよ……。ほら」と弱弱しく応じ、左手を見せた。
表面的な傷跡はもう何も無いのだから、見せれば卯月も落ち着くと紅砂は思っていた。
しかし卯月は見るだけではなく、紅砂の左腕に触れてきた。
紅砂の全身が一気に総毛立つ。
卯月に触れられると、紅砂の脳裏で否が応でも1000年前の記憶が蘇る。
※
──それは1000年前のインド北西部。
艶やかな褐色の肌。
大きく濡れた黒瞳。
優美な趣の1000年前の彼女は、紅砂と出会った時には既に高位結鬼達の性の奴隷と化していた。
早期に結鬼唯一の女が高位結鬼と交わる事は、女の生命力そのものを奪う。
美しいその肢体には、無数の噛み痕が痛々しく残り、若くあどけない彼女の表情は既に屍と化していた。
『いいか、羅閻。……結鬼、唯一の女に近づくな』
紅砂の耳元で父の言葉が常に木霊していた。
『特に今回は、早くに高位結鬼に気づかれ、女は疲労と負の感情でいっぱいだ』
『近づけば必ず闇に引きずり込まれるぞ!だからいいか、絶対女に近づくなよ』
遠巻きに高位結鬼と女の様子を伺っていた父・奏閻が釘をさす。
紅砂も父の話を理解した。
それが自分を安全に生かす最良の方法だと心得ていた。
だが、紅砂は女から目を逸らすことが出来なかった。
どうしても、骸のようになってしまった彼女と同じ年頃である人間の娘を比べてしまう。
『羅閻よぉ~、そうやって比べるところが間違ってるんだよ!そんな必要ねえだろう。それぞれの運命があってしかるべきなんだからよぉ~』
奏閻の言う通りなのだ。自分と彼女の運命はかけ離れ過ぎていて、自分が彼女に関わったところで、何が変るわけでもない。
そうだと分かっていながらも、紅砂は高位結鬼の目を盗み彼女の元に走った。
始めは紅砂が近づくと彼女はひどく怯えた。高位の男共と同じだと思っていたのかもしれない。
傷の手当てをしようと紅砂が彼女の体に触れると、彼女は半狂乱になって暴れた。
その奇態に、紅砂は既に彼女には、正常な思考能力が残されていないのではないかとさえ思った。故に、益々彼は彼女を憐れんだ。
せめて傷だけは癒してやろうと、高位の奴らの目を欺いては彼女の寝ている隙に傷を癒した。
やがて時が満ち、高位結鬼達の戦いも終焉を向かえ、何もかも平穏が訪れたかと思われたある日の事──。
彼女に異変が起きた。
紅砂は彼女との別れの日が訪れた事を知った。
紅い砂地を苦しげにのた打ち回る彼女。
全身から大量に溢れる出血。
これが結鬼の──出産の時だった。
(苦しい、苦しい、助けて、痛い、痛いの!誰か……誰か……)
ガクガクと震え、痛々しげに涙を零しながら助けを求める彼女の姿に紅砂の胸は締め付けられた。
(どうして、彼女にはいつも痛みと苦しみしか与えられないのだろう?)
紅砂の疑問に父はこう答えた。
『一度、波に乗った負の連鎖は、俺達結鬼が滅びるまで留まることはねぇんだ。仕方がねぇ、これが運命だ。生命とは、俺達の意図と関係なく運ばれちまう時だってあるんだ。その波に乗ってしまったら、もう滅びを待つしかねーのよ』
空しかった……。
ならば彼女の一生はなんだったのであろうか?
『バカヤロー、生命とはいつだって空しいもんだ!だから考えるな!今を楽しめ、今ある生だけを楽しむんだよ!』
父はいつだってそう答える。
紅砂は納得出来なかった。
『余計な事は考えるんじゃねぇ!考えるから空しいんだ。だからてめぇは莫迦なんだ』
──考えるから空しい
──確かに、そういうものなのだろう
だが、どうしてもあの人の姿が忘れられない……。
彼女は……、苦しむために存在しているのだろうか?
美しい顔を苦痛で歪め、涙を流すためだけに彼女は存在しているというのだろうか?
だとしたらあまりにも哀れだ。
それが運命と割り切ったとしても、空しく……哀れだ。
(怖い…怖い…怖い…)
血と涙で全身を濡らしながら、なにかを掴むように彼女の右手が伸びた。
紅砂は震えるその手を見るなり、彼女に向かって飛び出していた。
今更、何が出来るわけでもない。
彼女を救う事など出来ない。
結鬼唯一の女の今生による最後は、霊気の放出という出産の代わりを行い、あとは朽ちて行くという運命だった。
彼女の残りの時間は、身体の崩壊のみを残しているだけだった。
それでも、紅砂は何かしたかった。
してやりたかった。
差し出された手があるのなら、握ってやる事。
それだけしか出来なかったのだが……。
※
紅砂の心を1000年前の記憶が埋め尽くしていた。
彼女を救ってやりたかった。
例え逃れられない運命だとしても、少しでも彼女を楽にしてやりたかった。
喜びを与えてやりたかった。
楽しみを与えてやりたかった。
ぬくもりを与えてやりたかった。
そんな想いを込め、気がつけば卯月の手をあの時と同じ想いできつく握っていた。
顔を上げると目の前の卯月が1000年前と同じように涙で頬を濡らしていた。
「あ、ご、ごめん……、きつく握りすぎた……」
紅砂は目を反らせ、左手をもぎ離そうとしたが卯月は離さなかった。
「卯月……離して……」
紅砂の言葉に卯月は首を何度も振った。
彼女の涙が止め処なく溢れ地面に落ちて行く。
「嫌よ…嫌……。ずっと、ずっと探していたの……私はこの手を……夢の中でずっと……」
卯月のか細い声と涙が、ただ事ではないものを感じさせた。
「卯月…? 何を……言っているんだ……?」
紅砂も緊張を強いられ、眉を寄せて問う。
吹き抜ける風は生暖かく、森を重苦しくざわつかせた。
「そう、夢なんです……。夢の中の出来事なんです……けど、何度も何度も見るんです。幼い頃、此処で結鬼に血を吸われてから……」
卯月が紅砂の左手をきつく抱き寄せ、震えながら頬を寄せた。
「夢の中で私は、砂地の上で傷つき倒れ、生きる希望もなく、憎悪の塊となって横たわっているだけ……。だけど、最後の……最後に、私の手を握ってくれた手が……、その手の感触が……あなたの手と同じなんです!
忘れもしない……間違いようもない、あの手の温もり……、同じ、同じ……同じなんです!!あの時の手と、あなたは同じなんです!!
あなたは一体、誰なんですか!?」
卯月の言葉に紅砂は何も言えなかった。驚きのあまり、体は硬直し、一体どう説明していいのかすら分からなかった。
卯月が1000年前の記憶をそのまま持ち得ているなどありえない。
けれども、今の話の断片は明らかに1000年前の現実。
「あなたは誰ですか!?……結鬼……そう……結鬼なんでしょう?」
紅砂は唇を噛み締め答えた。
「待って、それは、夢の……話でしょう? 夢は夢です。あなたは単に幻を見たに過ぎない。結鬼の存在は西洋では夢魔に例えられたりもするんです。それは、恐らく幼い頃に結鬼と遭遇した名残にすぎない。だから、それは勘違いです!あなたの思い込みです!!」
卯月は髪を振り乱して否定した。
「違う!違う!!この手の感触だけは忘れない!!忘れられない!あの人が私の手を握り、何かを言った……あの瞬間の感覚だけは幻とは思えない!!何よりも私の体に染み付いてるの!記憶しているの!あれは、夢なんかじゃない、ここにこうしてあるのよ!夢と……夢と同じ手がここに!!ずっとずっと欲しかった……会いたかったあの時の手が……手の主が……!!ここに……」
卯月は紅砂の左手を愛しげに口付けした。
何度も何度も唇を押し付けた。
紅砂が苦しげに答える。
「僕には……全く覚えが無い。それはあなたの勘違いだ……間違いなんだ!!」
「それでもいいです。私はもう……この手を離さない、離したくないです」
紅砂は身震いした。
「駄目です!それは出来ない!!」
「どうしてですか!?お願いです!私を……私をお傍に置かせてください!今までと同じく、あの家で……」
卯月の願いに紅砂は首を振った。
「それは無理なんです……。あなたにはあなたの人生が、僕には僕の人生があります!」
「だから、その人生を一緒に歩ませて下さい!」
「駄目だ!」
「……私では、気に入らないと?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ……やっぱり、こういう意味?」
卯月はここで言葉を区切ると同時に唇を噛み切った。
辺り一面に広がる血の芳香。
その瞬間、暗闇の中で赤光を放つ紅砂の瞳は、もう誤魔化しようがなかった。
卯月の白い手がゆっくりと紅砂の頬に触れる。
「あなたは……人ではない……あなたがあの時の……」
──結鬼。
卯月がゆっくりと紅砂に頬を寄せ、唇と唇が触れ合うと、すぐに熱い舌が彼女の血と共に進入してきた。
その甘美な味わいに紅砂の脳髄は白泥と化した。
逆らう事のできない、血の欲望。
紅砂の手は卯月を抱きしめようと、その肩に触れようとした。だが、拳を握り踏み止まる。
卯月を引き剥がし、朱に染まった唇が震えた。
「駄目だ……いけない……、あなたは僕とでは駄目なんだ」
「どうして?私は構わない!!あなたが人でなくとも、なんであろうと!」
「違う!!そういう問題ではないんだ!君とは……、どうしたって……」
紅砂は言葉に詰まった。卯月の泣き濡れた顔を見たからだ。
彼は、卯月の今の顔を見たかったわけではない。
1000年もの昔から、彼と彼女が望んだもの。
それは、彼女の心からの笑顔──。
卯月の涙が月光に輝く。
「……あなたの事、お慕いしています……」
(──ああ、この人は……どうしてこんな恐ろしいことを口にする……)
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感動と困惑と恐怖が入り混じった複雑な心。
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