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紅砂は己を振り返っていた。
自分のこれまでの生き方は、ずっと檻の中で過ごしていたようなものだった。
自分の運命に嘆き、狩る者の影に怯え、長い年月を狭い島で過ごした。
運命という名の檻に入り、小さな島で慎ましく暮らす生き方は、それでも紅砂の心を満たした。
運命に対する怖れや嘆きは、生きている以上ついて回るものだと納得し、いつかやってくるであろう消滅の時でさえ、黙って受け入れれば、何もかも平穏であった。
それはそこに欲がなかったからだ。
ただ淡々とした毎日を送る。
必要な時に必要な分だけ、大自然からの恩恵を受け、そのお返しとして島の自然を守る。
人からの恩恵を受けた場合は、人にその恩を返す。
今までの紅砂は、それだけで足りていた。
自分の立っている場所で、周囲との調和を保つ。
それは自分の存在が消え、自然と溶け込んだかのような感覚。
自分はどこにも居ないが、それでいてどこにでも居るような感覚。それは紅砂の心を落ち着かせ、この上ない平穏を齎した。
欲望に溺れ、感情に火をつけさえしなければ、この檻の中でいつまでも平穏な日々を過ごせた。
だが、自分は欲に勝てなかった。
欲に身を浸し、火のついた感情はついに檻を破った。
そして、檻から出てみて気づいた。
ああ──自分はずっとこの檻から出て、生きてみたかったんだと……。
咥えていた煙管を火鉢の上に置いて、紅砂は立ち上がった。
卯月が千年前の記憶を持っていて、更にあの頃の自分の行為が卯月の心の支えになっていたのだと知った時は、胸の奥から光が射し込んだようだった。
後は卯月の求めるまま、肌を重ねてしまっていたが、自分のしたことに後悔はなかった。
だが、それも自分だけの運命だったのなら、それで良かった。
けれども、この先を考えたら、卯月にとってはかなり酷な運命になる。
卯月は紅砂の側に居ることを望んだが、やはり低位結鬼の自分が側に居ることは、かなりのリスクがある。
これより先の紅砂の運命は、全ての結鬼を敵に回したようなものなのだ。
先の千年前でも、心を寄せた低位結鬼が目の前で高位結鬼に喰われた事がトラウマとなり、前世の卯月は心を開かなくなって、高位結鬼達に陵辱され続けるだけの人生という、悲惨な運命を辿ったのだ。
また同じような運命を辿らせる訳にはいかない。
だから、紅砂は卯月と距離を取ることにしたのだ。
ある程度、距離を取りながら卯月を守り抜くこと。
紅砂に出来ることは、今はそれだけしか方法がなかった。
幸いなことに、卯月の就職先にはある程度、防衛の準備は整えていた。ただ、卯月が紅砂を求めてくるとは思っていなかったから、それほど強い防御法ではないのが心配だった。
紅砂は長押に掛けていた羽織を手に取り、肩に引っ掛けると、自室から出て玄関へと向かった。
「あれ?兄さん、何処に行くの?」
まだ頭に寝癖が付いたままの蘭武が眠そうに訊ねた。
「小島へ行って、彼らの様子を見てくる」
彼らというのは紅髪の高位結鬼コンラッドとその恋人ジーナのことだ。
「兄さんは彼らをどうするつもりなの?」
蘭武が不安そうに訊いた。
「お前はどうした方がいいと思う?」
「分かんないよ……。あいつ、初めて会った時はやばい奴だと思ったけど、腕を無くした彼女を見た途端、全然別人になった。どっちのあいつが本当なのか分からない。初めて会った時のあいつが本当なら、今すぐこの島から出て行って欲しいくらいだけど……」
戸惑う蘭武に優しい笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。今となっては、あの男はきっとここの守り神になるよ」
「──は?」
意味が分からないとでも言いたげに蘭武が眉をひそめた。
紅砂は口許に笑みを溢すと「気を付けなければならないのはあいつの片割れ」と呟いた。
「──いいか、蘭武。あいつと顔がよく似ているが、髪が金髪だったら、そいつには絶対に近付かないようにしろ」
「え?」
「近いうちに現れてしまうかもしれないから今のうちに言っておく。なるべく早くお前も違う場所に移動させるから、それまで大人しく家に居てくれ」
「あ、うん……分かった」
蘭武の返事も最後まで聞かず、紅砂はそそくさと外に出ていった。
紅砂は小島にある社へと静かに降り立った。
──血の匂いがする。
それもかなりの量が流された濃い香りだ。しかし、その割に乱れた様子は感じられず、紅砂は不審に思いながらも社の入り口を抜けた。
益々血の香りが濃い。
『おはようございます。何かありましたか?』
紅砂はフランス語で声をかけ、上がり框を上がった。
廊下をギシギシと言わせながら、突き当たりの和室の襖を開く。
「──おやおや」
紅砂は少し同情を孕んだ声で眉根を下げた。
和室の布団の上には、血で赤く染まったジーナが青白い顔で眠っていた。恐らく彼女の首筋から流れていた血のようだが、そこに傷痕は残っていなかった。それでも彼女の出血原因を予想するのは簡単だった。
「随分と心が揺れているようですね」
ジーナの横でがっくりと首を項垂れたままの紅髪に紅砂は訊ねた。
顔を覆っていた紅髪はゆっくりと頭を上げると、額に手を当て、疲れたように答えた。
「血に飢えている訳でもないのに、何故だか彼女の全てを壊してしまいたくなる時があるんだ……。でも、全部を壊す前にふと我に返り、自分のしたことに嫌気が指して、あとは無性に虚しくなる……」
「後悔してるんですね」
「別にそういう訳ではない」
コンラッドが青い瞳を漸く紅砂に向けた。
「そういうのを後悔しているって言うんです」
紅砂の口許に笑みが浮かぶ。
「あなたは不思議な人ですね」
紅砂はコンラッドに近づき、彼の前に座った。
「今の僕を見ても憎悪が沸かないんですか?」
意味が分からないとでも言いたげにコンラッドは眉をひそめた。
「憎んで欲しいというなら、憎んでやってもいいけど?」
疲れたようなコンラッドの返答に紅砂は思わず吹き出した。
「何が可笑しい?」
「だって、あなた……色々と不感症過ぎません?」
「不感症?そんな訳ない。ちゃんと起つもんは起つし、出るもんは出る。俺が何人、餓鬼をこさえたと思う?」
「──それだ!」
「?」
何がそれなんだと言うようにコンラッドは、目を丸くした。
「あなたは明らかに高位結鬼の香りがするのに、何故人間との交配が出来るんです?高位結鬼は本来、人間との交配は出来ない筈です。出来るのは僕ら低位だけの筈ですが……」
「俺に聞かれても知らん。ただ、俺は人工的に作られた。俺はアドリエンという男のコピーでその過程で奴がなんかしたんだろ?あいつは低位が大嫌いだし、でも、簡単に仲間を増やしたり餌を作りたいから、人間と交配出来る奴がいると便利だ、と言っていたからな」
「なるほど、つまりあなたは家畜同然だったんだ」
そう言った瞬間、煌めく刃が飛んで来た。
紅砂は寸前で避けて、後ろの柱にそれは突き刺さった。
自分のこれまでの生き方は、ずっと檻の中で過ごしていたようなものだった。
自分の運命に嘆き、狩る者の影に怯え、長い年月を狭い島で過ごした。
運命という名の檻に入り、小さな島で慎ましく暮らす生き方は、それでも紅砂の心を満たした。
運命に対する怖れや嘆きは、生きている以上ついて回るものだと納得し、いつかやってくるであろう消滅の時でさえ、黙って受け入れれば、何もかも平穏であった。
それはそこに欲がなかったからだ。
ただ淡々とした毎日を送る。
必要な時に必要な分だけ、大自然からの恩恵を受け、そのお返しとして島の自然を守る。
人からの恩恵を受けた場合は、人にその恩を返す。
今までの紅砂は、それだけで足りていた。
自分の立っている場所で、周囲との調和を保つ。
それは自分の存在が消え、自然と溶け込んだかのような感覚。
自分はどこにも居ないが、それでいてどこにでも居るような感覚。それは紅砂の心を落ち着かせ、この上ない平穏を齎した。
欲望に溺れ、感情に火をつけさえしなければ、この檻の中でいつまでも平穏な日々を過ごせた。
だが、自分は欲に勝てなかった。
欲に身を浸し、火のついた感情はついに檻を破った。
そして、檻から出てみて気づいた。
ああ──自分はずっとこの檻から出て、生きてみたかったんだと……。
咥えていた煙管を火鉢の上に置いて、紅砂は立ち上がった。
卯月が千年前の記憶を持っていて、更にあの頃の自分の行為が卯月の心の支えになっていたのだと知った時は、胸の奥から光が射し込んだようだった。
後は卯月の求めるまま、肌を重ねてしまっていたが、自分のしたことに後悔はなかった。
だが、それも自分だけの運命だったのなら、それで良かった。
けれども、この先を考えたら、卯月にとってはかなり酷な運命になる。
卯月は紅砂の側に居ることを望んだが、やはり低位結鬼の自分が側に居ることは、かなりのリスクがある。
これより先の紅砂の運命は、全ての結鬼を敵に回したようなものなのだ。
先の千年前でも、心を寄せた低位結鬼が目の前で高位結鬼に喰われた事がトラウマとなり、前世の卯月は心を開かなくなって、高位結鬼達に陵辱され続けるだけの人生という、悲惨な運命を辿ったのだ。
また同じような運命を辿らせる訳にはいかない。
だから、紅砂は卯月と距離を取ることにしたのだ。
ある程度、距離を取りながら卯月を守り抜くこと。
紅砂に出来ることは、今はそれだけしか方法がなかった。
幸いなことに、卯月の就職先にはある程度、防衛の準備は整えていた。ただ、卯月が紅砂を求めてくるとは思っていなかったから、それほど強い防御法ではないのが心配だった。
紅砂は長押に掛けていた羽織を手に取り、肩に引っ掛けると、自室から出て玄関へと向かった。
「あれ?兄さん、何処に行くの?」
まだ頭に寝癖が付いたままの蘭武が眠そうに訊ねた。
「小島へ行って、彼らの様子を見てくる」
彼らというのは紅髪の高位結鬼コンラッドとその恋人ジーナのことだ。
「兄さんは彼らをどうするつもりなの?」
蘭武が不安そうに訊いた。
「お前はどうした方がいいと思う?」
「分かんないよ……。あいつ、初めて会った時はやばい奴だと思ったけど、腕を無くした彼女を見た途端、全然別人になった。どっちのあいつが本当なのか分からない。初めて会った時のあいつが本当なら、今すぐこの島から出て行って欲しいくらいだけど……」
戸惑う蘭武に優しい笑みを浮かべた。
「大丈夫だよ。今となっては、あの男はきっとここの守り神になるよ」
「──は?」
意味が分からないとでも言いたげに蘭武が眉をひそめた。
紅砂は口許に笑みを溢すと「気を付けなければならないのはあいつの片割れ」と呟いた。
「──いいか、蘭武。あいつと顔がよく似ているが、髪が金髪だったら、そいつには絶対に近付かないようにしろ」
「え?」
「近いうちに現れてしまうかもしれないから今のうちに言っておく。なるべく早くお前も違う場所に移動させるから、それまで大人しく家に居てくれ」
「あ、うん……分かった」
蘭武の返事も最後まで聞かず、紅砂はそそくさと外に出ていった。
紅砂は小島にある社へと静かに降り立った。
──血の匂いがする。
それもかなりの量が流された濃い香りだ。しかし、その割に乱れた様子は感じられず、紅砂は不審に思いながらも社の入り口を抜けた。
益々血の香りが濃い。
『おはようございます。何かありましたか?』
紅砂はフランス語で声をかけ、上がり框を上がった。
廊下をギシギシと言わせながら、突き当たりの和室の襖を開く。
「──おやおや」
紅砂は少し同情を孕んだ声で眉根を下げた。
和室の布団の上には、血で赤く染まったジーナが青白い顔で眠っていた。恐らく彼女の首筋から流れていた血のようだが、そこに傷痕は残っていなかった。それでも彼女の出血原因を予想するのは簡単だった。
「随分と心が揺れているようですね」
ジーナの横でがっくりと首を項垂れたままの紅髪に紅砂は訊ねた。
顔を覆っていた紅髪はゆっくりと頭を上げると、額に手を当て、疲れたように答えた。
「血に飢えている訳でもないのに、何故だか彼女の全てを壊してしまいたくなる時があるんだ……。でも、全部を壊す前にふと我に返り、自分のしたことに嫌気が指して、あとは無性に虚しくなる……」
「後悔してるんですね」
「別にそういう訳ではない」
コンラッドが青い瞳を漸く紅砂に向けた。
「そういうのを後悔しているって言うんです」
紅砂の口許に笑みが浮かぶ。
「あなたは不思議な人ですね」
紅砂はコンラッドに近づき、彼の前に座った。
「今の僕を見ても憎悪が沸かないんですか?」
意味が分からないとでも言いたげにコンラッドは眉をひそめた。
「憎んで欲しいというなら、憎んでやってもいいけど?」
疲れたようなコンラッドの返答に紅砂は思わず吹き出した。
「何が可笑しい?」
「だって、あなた……色々と不感症過ぎません?」
「不感症?そんな訳ない。ちゃんと起つもんは起つし、出るもんは出る。俺が何人、餓鬼をこさえたと思う?」
「──それだ!」
「?」
何がそれなんだと言うようにコンラッドは、目を丸くした。
「あなたは明らかに高位結鬼の香りがするのに、何故人間との交配が出来るんです?高位結鬼は本来、人間との交配は出来ない筈です。出来るのは僕ら低位だけの筈ですが……」
「俺に聞かれても知らん。ただ、俺は人工的に作られた。俺はアドリエンという男のコピーでその過程で奴がなんかしたんだろ?あいつは低位が大嫌いだし、でも、簡単に仲間を増やしたり餌を作りたいから、人間と交配出来る奴がいると便利だ、と言っていたからな」
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