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1.自慢の息子

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 香園こうぞの章太郎しょうたろうの手の甲には、2センチほどの傷跡がある。

 父親がまだ小学生だった章太郎の利き手を、30センチの竹尺で打ち付けたのだ。幼少期の記憶であるため、定かではないが確か、かけ算の宿題を一問、間違えたのが原因だった気がする。
 鉛筆がころころと床に投げ出され、章太郎は右手の異様な熱さに気がついた。ふと手元を見ると、マス目の白いノートに、ぽたぽたと鮮血が滴り落ちていた。

『こんな問題で躓いてどうする?!!』
『申し訳ありませんっ』
『お前はっ、お前はソノザキワインの跡取りなんだぞ!!!こんな問題で躓いてどうするんだ!早く正しい答えをかけ!!』

 落ちた鉛筆を拾おうと右手を伸ばせば、ピシャリと音がする。竹尺の角が、8歳になったばかりの男児の手に、何度も振り下ろされた。

『申し訳ありません。お父さん』

 父親の期待に応えられない自分のふがいなさに、章太郎は泣きたくなった。だが涙を流したところで、宿題が終わるわけでも、父親の言う通り、ソノザキワインのふさわしい跡取りになるわけでもない。

『このままでは銀行屋に奪われる!!全部、取られる!!』

 獣のような咆哮を上げる父親の口臭は酒臭かった。業績悪化を理由に、社長の地位を追われた父親は、昼間から酒を飲んでいた。父親の代わりに、ソノザキワイン株式会社社長の席には、経営再建のため、銀行が派遣した出向者が座っていた。

 その日も、自社開発のワインを早朝から五本は飲み、学校から帰ってきた章太郎の勉強を見てやると、竹尺を構えていた。

 章太郎は血まみれになった右手で、鉛筆を拾い上げた。指先に付いた血は乾き初めて、鉄臭い。丁度、削ったばかりの鉛筆の芯と、同じ臭いがした。

『お前はなんとしてでも、社長になれ!これ以上、銀行屋の好き勝手はさせん!!』
『はい、精進いたします。お父さん』

 皮膚が破けた場所に、何度も竹のものさしが打ち付けられた結果、肉が抉れ、跡が残ってしまった――父親の愛情だと、章太郎は受け止めている。

 あれから40年以上たった今、ソノザキグループホールディングスの香園会長は落ち着かないと、右手の傷を擦る癖がついていた。

「……冗談だろう?」

 品川の一等地に構えた、ソノザキグループホールディングスの本社ビル26階に、会長室はある。

 一般社員が使えない、会長と限られた者のみが使えるエレベーターを使い、高輪森の公園が一望できる最上階。今日は秋晴れ。雲一つ無い真っ青な空が、ガラス張りの会長室に映し出されていた。

 今の章太郎には、色づき始めた紅葉を楽しむ余裕などない。隣にある秘書室から、第一秘書の吉野を呼びつけたのが1時間前。部屋に入ってきた秘書から、茶封筒-―調査結果を受け取り、封を開けた。一定の調子で調査結果を報告され、章太郎は頭を抱えた。

「もう一回、言ってくれ……」
「はい、天外さんには交際相手がいらっしゃいます」
「吉野、先ほど言ったことが違うぞ。抜けてる」

 卓上に広がった書類と写真を、今すぐ破り捨てたい。章太郎は右手の傷を親指で弄っていた。

「はい、天外てんがいさんには同性の交際相手がいらっしゃいます」

 20年以上、章太郎を支える吉野は、30分前の報告フレーズそのままを繰り返した。

「わかっとる!!」

 怒声が飛んでくるのにも慣れた。10年前、妻に先立たれた章太郎は、感情の起伏が激しくなった。おそらく穏やかなお嬢様育ちの妻がストッパーだったのだろう。都合の悪いことが起きれば、キレる、わめくは当たり前。長年仕える吉野は慣れたもので、右から左へと聞き流していった。

「どうして……どうして、こんな……ことに……」

 振り返れば、完璧な人生を送ってきた。

 この自社ビル、ソノザキグループホールディングスを作り上げたのも章太郎の功績である――ソノザキグループホールディングス、旧ソノザキワイン株式会社の始まりは、明治時代、香園家の祖先、香園右衛門と山崎吉三郎が山梨県に「山梨葡萄酒共同醸造」を造ったことから始まる。

 葡萄栽培から国産ワインを作り上げた二人は、名字から1文字ずつ取って、ソノザキワインを商品として売り出した――強大な多国籍企業、ソノザキグループの源流である。

 経営は軌道に乗り、山崎吉三郎が死去すると、経営権は全て、香園家に委ねられた。明治、大正、昭和の戦争をくぐり抜け、戦後、ソノザキワイン株式会社と社名を変更。ソノザキ飲料、ソノザキ食品、ソノザキ薬品……拡大していく事業と共に、章太郎は何代目かの社長に就任。

 銀行に追いやられた父親の無念を晴らそうと、国際市場に手を伸ばした。吸収合併を繰り返し、生まれたのがソノザキグループホールディングス。国内外の支社、関連会社は合わせて100は超える。

 章太郎は常にたゆまぬ努力をしてきた。創業家として年々力が衰えていくなか、父親の悲願を叶えようと――呂律の回らない父親に、ゴルフクラブで殴られながら、文字通り、血を吐く思いをしてきた。

 海外の大学に放り出されても、父親の愛を感じた。優秀な成績を収めても、連絡一つよこさない父親は不器用なのだと、愛情を受け止めた。

 痴呆が始まり、老人ホームに入れた父親は章太郎が誰だがわかっていないが、それでも満足している。

 自分が完璧な人生を歩めたのも、父親のおかげである、と。

 父親の姿勢に敬意を示し、子育てをした。包み込むような愛情といか言う、甘ったれた行為は女(妻)の役目。おかげで四人の子どもたちは章太郎を仰ぐように見つめてくる。

 皆、美男美女で優秀ぞろい――特に4番目。末の天外は飛び抜けていた。眉目秀麗、文武両道。四字熟語が安っぽくみえるほど、優秀な子である。特別に目をかけ、幼い頃からイギリスの寄宿舎に入れた。

 自立心と人脈を築いて欲しかったからだ。大学に進み、経営学を学んだ彼を日本に呼び寄せ、身元を伏せて、子会社――ソノザキグループ食品会社に入社させた。

 劣悪な環境に身を置いたことで、向上心が更に高まったらしい。カナダの現地法人に異動を願い出た。前途有望な息子である。

 あとは結婚相手を見繕うだけ……

 会社をより強固なものとするためにも、いくつか目星はつけていた。親交がある食品会社、佐伯ミールの令嬢が今のとこ最有望。歳が近いから丁度いいと、佐伯の会長とも話し合っていた。

 すでに孫は何人も生まれていたが、章太郎は天外の子どもを望んでいた。優秀であり、努力家、章太郎の遺伝子を色濃く受け継いだ息子の子ども。

 一番、可愛がる自信があった……のに。

「どこで間違ったんだ……」

 章太郎は呻き声を上げた。今年、28になる天外に見合いを命じたところ、拒絶された。

 今まで、章太郎の言うことは素直に聞き入れていた息子がだ。問い詰めたところ「恋人がいる」と観念したように、吐いた。

 恋人?誰だ?歳は?どこで?つながりは?SNSはやってるか?どんなやつだ、付き合って何年だ……矢継ぎ早に質問したところ、逃げるように家を出てしまった。

 実家には帰らず、章太郎の電話は無視する息子には業を煮やし、調査を依頼した。一ヶ月の尾行と近辺調査代金、60万。口止め料を上乗せして100万払った。
 見合いを断る方便かもしれない。最初の見立てが――今ならどれだけ良かっただろうか。

「息子がホモで、オカマ……」
「会長」

 さすがに吉野はたしなめた。最近、少数派だ、多様性だと社会は騒がしい。会社でも、広告にカミングアウトした芸能人を起用して、多様性をアピールしているのだ。密室での差別発言は、気が緩んだ時に外に出る。吉野は諫めた。

「会長、なにとぞ発言にはお気を付け下さい。定時総会も近いのですから」
「うるさい!わかっとる!」

 章太郎は一喝して、絨毯を蹴り上げた。近々、経団連の定時総会を控えていた。去年、任期途中であった副会長が持病を理由に、退任している。穴埋めに一人選抜させると――評議会議長を務める章太郎が選ばれると、周囲は見ていた。

 それが現会長と他副会長の意向により、定時総会まで人員を割かないと決まった。会長の任期期間は、件の定時総会で迎える。もしや58の若さで、章太郎が会長に推薦されるのでは?――噂が持ちきりになっていた。

 最年少の経団連会長、誕生間近と経済誌も注目している。財界総理――章太郎に相応しい地位だった。

「最悪だ……」

 章太郎は調査結果と銘打ったシンプルなフォーマットに視線を落とした。天外は勤務が終わると、タクシーに乗って、毎日アパートを訪ねている。

 付き合っているらしい男のアパートから、天外が勝手に契約したマンションは徒歩十分の距離。帰国時に贈った品川のマンションには帰っていないらしい。わざわざ辺鄙な場所に住むのも自立心旺盛だと認めていた過去の自分が情けない。

 まさか恋人と会うためだったとは。

「相手は男、しかも43……」
「会長、歳に言及するのはエイジハラスメントにあたる可能性が……」
「ああ、わかった、わかった」

 小バエを追い払うように、章太郎は秘書の言葉を聞き流す。怒りを通り越して、疲れが出ていた。まさか28にもなる息子の相手が男で43……15歳差に愕然とする。24と空目して、二度見した。

 一回り以上年上?冗談だろう?

沖倉おきくら文彰ふみあき氏は天外さんが新卒で入った子会社の、当時の上司になります」
「……たぶらかされたのか?」

 吉野は眉をひそめて黙り込んだ。簡単にイエスマンにならないのが、当たり散らされる原因であり、また長く勤められる理由だった。

「そうだ……たぶらかされたんだ。天外は」
「……」

 有能な息子ではあるが、やはり世間知らずの部分がる。15も年上の男に何を吹き込まれたのかーー後で暴いてやるが、息子はだまされているのだ。でなければ、こんな冴えない顔をした男とどうして好き好んで交際するのか。

 息子の天外は、兄弟の中でも美しさが際立っていた。章太郎の男らしい風貌に妻の貴族的な美貌を持ち合わせた末っ子は、手足の長い、今時の体型をしていた。
 どうしてこんな。
 見た目の中身もパーフェクトなーー章太郎そっくりの息子がこんな男に?
 調査書と共に同封された写真は、近場のラーメン店に2人で連れ立って歩く一枚が同封されていた。
 天外よりも背が低い、寸胴な体型。中年太りはしていないが、猫背で不格好な男から、魅力を全く感じない。顔も鼻目立ちが整っていることもなく、地味な顔立ちだった。

 こんな男に天外が腕を絡めて、夜道を歩いている。週末は必ず、ぼろアパートに泊まっているらしい――目眩がした。

「……本当に交際しているのか」
「お二人で繁華街のホテルに入られています」
「だけど確証はないのだろう?」

 吉野が困ったように、作り笑いをした。
 信じられない
 信じたくない
 願望が頭を占めていく。息子が、例え相手が同性だとしても、こんな男と付き合うだろうか。

「確証はないなら、勘違いかもしれないだろう。調査を継続させろ」
「それは……もっと踏込んだ調査を?」
「当たり前だ。付き合っている確証がない。こんな写真は証拠にならん」
「はぁ……かしこまりました」

 無表情に戻った秘書が、パソコンを操作する。安易な神頼みはしない章太郎だが、今回ばかりは天に祈った。

 年の離れた、ただの友人であって欲しい。

 天外に釣り合う美しい妻と、天使のような孫。写真カタログに載る理想の家族が見たい。そのためにも息子に寄生するこの中年に――しかるべき処罰を与えてやる。

「早急だ!調査を続行しろ!」

 PCから視線を上げない秘書に、怒鳴りつけた。
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