大江戸妖怪恋モノ帳

岡本梨紅

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 その後、帰宅した神流は比奈に会おうとしたが、相も変わらず、治療の仕事を忙しそうにしており、とても話しかけられる様子ではなかったため、先にひと眠りすることにした。
 そして夜。自室でゆっくりと休んでいた妹に、呉服屋の若旦那の一件を報告した。
「相手の方の自業自得とはいえ、黎明様も兄様も、意地が悪いです」
「比奈が嫌がっていたのに、一方的に文を送りつけて来るのが悪い。それより、なんで俺じゃなくて、黎明様に相談したんだよ」
 神流は納得がいかないと、感情をあらわにする。すると、比奈が顔をしかめた。
「兄様に言うと、またお相手を二度と外に出られないようにするのではと、危惧したんです」
 妹の的を射た評価に、彼は口を尖らせる。
「またって、そんなに頻繁にやってないぞ。それに、そいつの精神が弱いのが悪い。あの程度で怖がるとは」
「だから言えないんですっ!」
 比奈に怒られ、神流は小さく息を吐きだした。そこで、黎明からの言伝てを思い出した。
「あぁ、それと黎明様だが、二、三日の間、やることがあるから来れないと」
「そう、ですか。やり方はなんであれ、お礼を言いたかったのですが」
 比奈は残念そうに、黎明からもらった腕飾りを触る。神流は見慣れない装飾に、首をかしげた。
「比奈、そんなもの、持っていたか?」
「これは昨日、黎明様がくださったのです。お守りだと」
「……そうか。あの方が言っていたのは、それのことか」
「夜分遅くに失礼する。神流はいるか?」
 そのとき、玄関から声が聞こえた。両親が動く気配がないので、兄妹が様子を見に行く。
ぎん?」
 そこにいたのは、神流の同僚の狐妖怪、銀だった。彼は申し訳なさそうに、耳を垂らす。
「よぉ。神流。実はお前に頼みたいことがあってな」
「断る。帰れ」
「まだ何も言ってないんだけど!?」
 話を聞くこともなく、神流は虫を払うように、銀に向けてシッシと手を振る。
「そんなこと言わねぇで、聞いてくれよー!」
「ええい! 抱きつくな鬱陶しい! 皮を剥ぐぞ貴様!」
 銀は神流の腰に抱きつくが、神流は容赦なく、彼の頭に拳骨を落とす。
 殴られた衝撃で、銀は床に身体を叩きつけられた。
「いってぇ。うぅ、酷いぞ、神流」
 銀は殴られた頭を擦るが、微妙に手が届いていない。そんな彼を神流が冷めた目を向ける。
「骨を折られなかっただけ、ましだと思え」
「兄様。お仕事、ご一緒の方にそのような乱暴をしては、いけませんよ」
 神流の銀に対する仕打ちに、比奈を嗜めた。
「おっ! 美人ちゃん、発見! 俺は銀! 神流の妹ちゃんだよね? ねぇねぇ名前は?」
 銀はぴょんと立ち上がる。彼の背後では、機嫌を示すように尻尾が激しく揺れている。銀が比奈に触れようと手を伸ばすと、
「手ぇ出したら、殺すぞ狐野郎」
 彼が触れるより先に、神流の抜き身の刃が、銀の首を捉えた。
 咄嗟に、彼は両手を挙げて兄妹から距離を取る。
「おまっ! そこらの妖怪より、おっかないな!」
「兄様!」
 比奈に咎められ、神流は舌打ちをして、刀を鞘に収めた。
「兄様が大変失礼をいたしました。わたしは比奈と申します」
「そっかぁ。比奈ちゃんか。名前もかわいい」
「あ、ありがとう、ございます」
 礼を述べつつ、比奈は兄の袖をそっと掴む。黎明とは違う馴れ馴れしさに、彼女は戸惑っていた。
「比奈が怯えてるからとっとと帰れ」
「いやだから、頼みがあって来たんだって。さっき、今日の宿直の奴から体調不良で無理だと、連絡がきてさ。番頭が、やってもらえないか交渉してこいと、言われたんだよ」
 銀の言葉に、神流は傍らに立つ妹に視線を向ける。
 兄が自分の身を案じているとわかった比奈は、促すようにそっと背中に手を添えた。
「兄様。わたしは一人でも平気ですよ」
「だが、黎明様がこられないのなら、万が一のことも考えて」
「心配しすぎです。お部屋はお坊様お結界で、守られていますから」
(その結界が、問題なんだよ)
 神流は複雑そうな顔をするも、結界のことは口にしなかった。比奈もその結界が本当に安全とは思っていなかったが、兄を安心させるためにそう言った。
 神流が決めかねているのに、比奈は小さく息を吐き出し、銀に視線を向けた。
「その、体調不良の方は大丈夫ですか? わたしのほうから、出向ければよいのですが……」
「いやいや。必要ないよ。ただの二日酔いだから」
「だったら無理やり引っ張り出せ!」
 神流は銀の胸ぐらを掴んで、激しく揺さぶる。
「そ、それができたら、苦労しねぇってのぉ!」
「だいたい、なんで人間の俺に頼むんだ。おまえら妖怪のほうが、ちょっとくらい眠らなくても平気だろうが」
「その大半が深酒でつぶれてるから、神流に頼んでるんだって」
「俺が一から、根性を叩きなおしてやろうか」
 神流が苛つきで、頬をぴくぴくと引きつらせるも、銀はけらけらと笑う。
「まぁまぁ。とにかく、時間が迫ってるから。頼むよ」
「はぁ。わかった」
 神流は嫌々ながらも頷き、銀を放した。
「いってらっしゃいませ、兄様。銀様も。お勤め、頑張ってください」
「美人なかわい子ちゃんに言われたら、張り切らないわけにはいかねぇな」
「そんなに尻尾をもがれてぇのか。だったら遠慮なく言えよ。いますぐやってやるから」
「ぎゃあ! やめろって! 頼むから! ほんと、ごめん!!」
 神流が力強く尻尾を握ったので、銀は半泣きになりながら謝る。
「兄様。そのように乱暴をしてはいけませんよ」
「こいつはこれくらいしても、問題ない。おら、ちょっと外で待ってろ」
「へ? のわっ!」
 神流は銀を外へ蹴りだし、比奈に向き直る。
「あいつが来たせいで忘れるところだった。これを持ってろ」
 彼が懐から取り出したのは、漆塗りの鞘の短刀だった。
「俺がそばにいられないからな。もしもの時はこいつを使え」
「ですが、わたしは刀なんて、持ったことは一度もありませんし……」
「念のためだ」
 神流は比奈の手を取って、短刀を握らせる。
「いいか比奈。今日は絶対に部屋から出るな。それと黎明様からいただいたお守りも、決して外すなよ」
「わかり、ました」
 あまりにも神流が真剣に言うので、比奈は戸惑いながらも頷いた。
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