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一話

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「ティフィア嬢、申し訳ないのですが今回の婚約は無かったことに」

 その言葉が耳に入った瞬間、私は給仕のために持っていたティーポットを落としそうになった。暖かくて天気のいい午後、婚約者様がいらっしゃって、お嬢様はお茶を飲みながらおしゃべりを楽しまれていたところだったのだけど……。

(え、なんでここで婚約破棄?)

 急展開に思わず声を出しそうになった私、ベラは教養のあるメイド。真剣な表情で話を切り出した婚約者の視界からそっと外れ、二人が見える位置で空気になる。

「そんな……」

 かぼそく、震えた声が聞こえた。そっとお仕えしているお嬢様の様子を伺うと、年季が入ったティーカップを片手に、悲しそうに眉尻を下げていらした。栗色の髪は肩より少し長く、藍色の瞳は丸く可愛らしい。上のお嬢様方が着ていらした桃色のワンピースドレスは、小柄なお嬢様には少し大きく、丈を直していてもどこか着られている感じがして、見る度に歯がゆく思う。

「私では不足でしょうか……それとも、家が貧乏だから?」

 お嬢様の寂しそうなお声。それはサロンやドレスが古風なのもあいまって、さらに悲壮感漂うものになる。それもこれも、プリアン家が貧乏侯爵家で、さらにティフィア様が7人兄妹の末っ子のせい。上に兄が二人、姉が四人。だから、ティフィア様のドレスは上のお嬢様方のお古ばかりで、流行から離れたものが多くなってしまう。

「いえ、そうではありません」

 そう静かに首を横に振った婚約者様は、常々「家にお金がなくても問題ない」とおっしゃっていた。裕福な侯爵家の方で、私はここに嫁いでもらえたら、お嬢様を思う存分飾り立てることができると夢見ていたのだけど……。今その夢は消えてしまったわね。
 お嬢様は長いまつげを涙で濡らし、訴えるような視線を婚約者様に向ける。

「では、どうしてです? 私を幸せにしてくれるとおっしゃったじゃありませんか」

 ハンカチを取り出し、目に当てられるお嬢様。その様子に罪悪感を覚えたのか、婚約者様は気まずそうな顔をしていた。いや、気まずそうなというより、顔を引きつらせていて、恐怖が浮かんでいる。私は婚約者様の視線の先、お嬢様のさらに向こうにいるもう一人の使用人に目を向けた。

(あ~あ、すっごく睨んでいるわ。怖い怖い)

 ドアの近くで控えているのは、私の兄で執事のロンドだ。兄は射殺さんばかりの目をしていて、お嬢様から顔が見えないのが救いだ。茶色い髪を後ろに撫でつけ、眼鏡の奥に見える灰色の瞳は氷のよう。背は高く、すらりとしていて執事服がよく似合っていた。

 私たちは孤児だったのを旦那様に拾われて、それからティフィアお嬢様のお付きになった。メイド、執事には教養がいると教育も受けさせてくれて、旦那様には感謝しきれない。兄弟そろってお嬢様に人生を捧げると決めていて、その時から10年間、お嬢様にお仕えをしている。

「申し訳ない……けど、僕と君ではうまくいかないと思うんだ」

 お決まりの断り文句。私は感情を表に出さないよう、表情を引き締めた。メイドは空気。二人の、何よりお嬢様の邪魔になってはいけない。斜向かいにいる兄も、頑張って表情を押さえているけど怒りが滲み出ていた。

(なんでこんなに可愛くて素晴らしいお嬢様が婚約破棄をされるんだって思ってるわね)

 兄の考えなんてすぐに分かってしまう。今すぐ割り込みたいのを我慢している兄からお嬢様に視線を移すと、その瞳は憂いに満ちていた。

「……わかりましたわ。短い間でしたけど、ありがとうございました。お父様には私から言っておきますわ」
「いや、こちらから正式に話をするよ」

 その後はいくつか家同士の話が続き、静かに淡々と話が進む。その間、私たちはただひたすら、石像になっていた。兄に堪えるよう目で訴えつつ……。ここで暴れられたら、兄を専属の執事としているお嬢様の、そしてお屋敷の信用に瑕がつくもの。
 そしてなんとか兄を抑え込んでいる間に、元婚約者は逃げるように屋敷を出ていった。

(あぁ……一気に疲れたわ)

 静まり返ったサロンに残っているのは、お嬢様に私と兄だけ。肩を落とし、辛そうにしているお嬢様に、兄は何か声をかけようとしているけど、何も思いつかないらしい。19の男がおろおろしているのは、ちょっとみっともない。
 そしてようやく何か言おうと一歩近づいたところで、お嬢様が立ち上がった。

「少し、風に当たってきますわ」

 その背中の悲しそうなこと。私まで悲しく辛い気もちになってくる。お嬢様は今年で17歳。周りのお友達は婚約をし、結婚をしている人も多い。上のお嬢様方も皆結婚して屋敷を出ていらした。
 兄はドアへと歩いてくるお嬢様に対して一礼し、ドアを開ける。

「旦那様は書斎にいらっしゃいます」

 しっかりとお嬢様のサポートもしている。顔から怒りは消え、穏やかで礼儀正しい執事という雰囲気を出していた。

(わーすごいすごい。お嬢様の前では完璧な執事になれるのね)

 心の中では怒り狂っているに違いないのに……。その証拠に、お嬢様が出ていかれたとたん、完璧執事の仮面が取れた。グワッと目を見開いて、私に顔を向ける。

「なんだあの冷たい男は! あんなやつこっちから願い下げだ! 見たか、お嬢様の悲しそうなお顔! すぐにでも駆け寄って、俺のおもしろい話でもしてあげたかった!」
「あ、うん。そーだね」

 おっと、返事が棒読みになってしまった。でも、兄は気にする余裕はないみたい。さっきの態度でも分かるとおり、兄は重度のお嬢様好きだ。もう常から天使と叫んでいるから、身内の私は引いている。なのに、お嬢様の前では完璧な執事として立ち振る舞うんだから、おかしな話だ。それと兄の面白い話はすっごくつまらないので、やめたほうがいい。

「あの馬鹿は、お嬢様の魅力に気づかないなんて! 人生大損だな! あぁもう! お嬢様の執事じゃなかったら、ぶんなぐってたとこだよ!」

 兄は髪をかきむしって叫び、部屋をうろうろと動き回り始めた。そうしないと調度品を壊しかねないからだろう。

「それになんだよ、僕と君ではうまくいかないって! あれ言ったの三人目だぞ! 貴族の男どもは可愛く天使なお嬢様と婚約しておきながら、それを、あんな言葉で無かったことにするなんて! 許せるか!? 無理だ!」

 兄は一息で言い切った。すごい。でも、そうなのよね。お嬢様はさっきの男が三人目の婚約者で、しかも同じフラれ方をしていた。前二人の現場に兄はいなかったけど、その一部始終は伝えてある。それに、お見合いの段階でも、「ちょっと一緒にはやっていけない」とか「もっといい人がいると思う」とか言われて、話が消えてしまうのよね。

「今頃お嬢様は一人で泣いていらっしゃるんだ。そばでお慰めしてさしあげたい! 俺が貴族だったらすぐにでも求婚するのに!」

 そんな言葉を恥ずかし気もなく叫べるくらい、兄はお嬢様が大好きだ。従者としての敬愛とかじゃなく、本当に幸せにしたい対象として見ている。だけどお嬢様は貧乏とはいえお貴族様、兄は平民。身分差の結婚がないわけじゃないけど、やっぱり難しい。だから兄がお嬢様への想いを口にするのは私の前だけで、お嬢様の前では完璧な執事として振舞っている。
 そしてピタリと足を止めた兄は、ゆっくり首をこちらに向けると低い声で呟いた。

「ベラ……いつものよろしく」
「……はーい」

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