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番外編:境界線の移ろい
第一話:一軒目の家 ―― 螺旋階段の逃避行
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僕は彼女が住んでいた家を、四つ知っている。
不動産業者でもないのに、一人の女性が辿った住処の変遷をこれほど克明に記憶しているのは、僕が彼女の人生の「境界線」を常に彷徨い続けていたからだろう。
一軒目の家は、コンビニのすぐ近くにある三階建てのアパートだった。
そこには彼女と、彼女の両親が住んでいた。出会った当時の彼女はまだ、家族という窮屈な箱の中に収まっていた。
初めてその家を訪れた日のことは、今も鮮明に覚えている。といっても、玄関を跨いだわけではない。二軒目の家へ引っ越す際、荷物の運び出しを手伝うために、いわば作業員のようにして何度か足を踏み入れたに過ぎない。けれど、そんな儀礼的な訪問よりも、僕の記憶に深く刻まれているのは、彼女が纏っていた「匂い」だ。
彼女の服を脱がせる時。助手席に彼女が滑り込んできた時。ふわりと鼻を掠めるその家の匂いが、僕はたまらなく好きだった。 生活臭というにはあまりに儚く、けれど確かな実体を持って僕の脳を痺れさせる。匂いで人を好きになるなんて嘘だと思っていたが、あの香りを嗅ぐたびに、僕は彼女という存在に、より深く沈み込んでいった。
「ここ、螺旋階段からベランダに飛び移れるんだよ」
彼女はいたずらっぽく笑って、二階の自室を指差した。夜中、家を抜け出して僕とホテルへ向かう時や、ドン・キホーテの眩い光の中に逃げ込む時、彼女はその細い身体で手すりを越え、夜の闇に身を投じていたらしい。朝方、家族が目を覚ます前に、再び螺旋階段からベランダへ。それはまるで、現実と非現実を繋ぐ、彼女だけの秘密の通路のようだった。
しかし、その「秘密」は常に危うさを孕んでいた。ホテルで肌を重ねている最中、彼女のスマートフォンが狂ったように震え出すことがあった。お母さんからの憤怒のLINEだ。「どこにいるの」「早く帰りなさい」 画面から溢れ出す母親の焦燥と怒りは、彼女の「死にたい」という四文字を加速させる燃料のようだった。
メンヘラは夜更かし型だ、なんて言葉を耳にすることがあるが、それは順序が逆なのだと思う。夜中の三時、当時の彼氏からかかってくる執拗な電話。終わりのない詰問。罵倒。正常なメンタルでいられるはずのない暗闇の中で、彼女はただ、螺旋階段を降りる瞬間だけが、呼吸を許される時間だったのかもしれない。
僕はその螺旋階段を見上げながら、彼女を連れ去る車を走らせる。その家から漂う匂いと、彼女の絶望。 それらすべてを「タイプだ」と感じてしまったあの日から、僕の人生もまた、引き返せない境界線を越えてしまったのだ。
不動産業者でもないのに、一人の女性が辿った住処の変遷をこれほど克明に記憶しているのは、僕が彼女の人生の「境界線」を常に彷徨い続けていたからだろう。
一軒目の家は、コンビニのすぐ近くにある三階建てのアパートだった。
そこには彼女と、彼女の両親が住んでいた。出会った当時の彼女はまだ、家族という窮屈な箱の中に収まっていた。
初めてその家を訪れた日のことは、今も鮮明に覚えている。といっても、玄関を跨いだわけではない。二軒目の家へ引っ越す際、荷物の運び出しを手伝うために、いわば作業員のようにして何度か足を踏み入れたに過ぎない。けれど、そんな儀礼的な訪問よりも、僕の記憶に深く刻まれているのは、彼女が纏っていた「匂い」だ。
彼女の服を脱がせる時。助手席に彼女が滑り込んできた時。ふわりと鼻を掠めるその家の匂いが、僕はたまらなく好きだった。 生活臭というにはあまりに儚く、けれど確かな実体を持って僕の脳を痺れさせる。匂いで人を好きになるなんて嘘だと思っていたが、あの香りを嗅ぐたびに、僕は彼女という存在に、より深く沈み込んでいった。
「ここ、螺旋階段からベランダに飛び移れるんだよ」
彼女はいたずらっぽく笑って、二階の自室を指差した。夜中、家を抜け出して僕とホテルへ向かう時や、ドン・キホーテの眩い光の中に逃げ込む時、彼女はその細い身体で手すりを越え、夜の闇に身を投じていたらしい。朝方、家族が目を覚ます前に、再び螺旋階段からベランダへ。それはまるで、現実と非現実を繋ぐ、彼女だけの秘密の通路のようだった。
しかし、その「秘密」は常に危うさを孕んでいた。ホテルで肌を重ねている最中、彼女のスマートフォンが狂ったように震え出すことがあった。お母さんからの憤怒のLINEだ。「どこにいるの」「早く帰りなさい」 画面から溢れ出す母親の焦燥と怒りは、彼女の「死にたい」という四文字を加速させる燃料のようだった。
メンヘラは夜更かし型だ、なんて言葉を耳にすることがあるが、それは順序が逆なのだと思う。夜中の三時、当時の彼氏からかかってくる執拗な電話。終わりのない詰問。罵倒。正常なメンタルでいられるはずのない暗闇の中で、彼女はただ、螺旋階段を降りる瞬間だけが、呼吸を許される時間だったのかもしれない。
僕はその螺旋階段を見上げながら、彼女を連れ去る車を走らせる。その家から漂う匂いと、彼女の絶望。 それらすべてを「タイプだ」と感じてしまったあの日から、僕の人生もまた、引き返せない境界線を越えてしまったのだ。
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