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見ててよ
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二か月後。
空は、あの日とよく似ていた。
澄んでいて、どこまでも高くて、残酷なほど静かだった。
電車を降り、駅前の小さな花屋で白い花を買う。店主の女性は何も聞かなかった。ただ、そっと包んでくれた。その無言の優しさが、少しだけ胸に染みた。
霊園までの道は緩やかな坂になっている。冬の気配は薄れ、風にはかすかな春の匂いが混じっていた。
制服ではなく、私服。
それだけで、世界の見え方が違う。
歩きながら、みずきはぼんやりと考えていた。
二か月。
短いようで、長い時間。
学校の空気は、確かに変わった。
けれど――どう変わったのかを言葉にするのは難しい。
誰も露骨なことはしなくなった。
誰も何も言わなくなった。
笑い声は戻った。
日常も戻った。
だが、完全ではない。
何かが、静かに沈殿している。
水底の澱のように。
触れれば揺れる、微妙な均衡。
それでも。
みずきは、以前の自分ではなかった。
それだけは確かだった。
◆
墓地の空気は独特だ。
音が吸い込まれる。
世界から一枚、膜が剥がれ落ちたような静寂。
石の列。
名前の刻まれた無数の証。
その中に――見つける。
見慣れたはずの名前。
見慣れないはずの現実。
みずきは立ち止まった。
小さく息を吸う。
そして、歩み寄る。
墓石の前。
花を供える。
線香の煙が細く立ち上る。
風に揺れる。
消えそうで、消えない。
「……久しぶり」
自然に、言葉が零れた。
自分でも少し驚くほど、穏やかな声だった。
しゃがみ込む。
石の文字を指でなぞる。
冷たい感触。
なのに、不思議と嫌じゃない。
「……なんかさ」
小さく笑う。
自嘲とも違う、柔らかな笑み。
「変だよね」
当然、返事はない。
ただ風が吹く。
線香の煙が揺れる。
「覚えてないんだよ、ほとんど」
ぽつり。
「ちゃんと顔も……声も……」
それでも。
みずきの表情は、穏やかだった。
悲しみよりも先に浮かぶ感情がある。
感謝。
安堵。
奇妙な確信。
「でもさ」
空を見上げる。
春の光。
淡い青。
「ちゃんと残ってる」
胸に手を当てる。
鼓動。
確かな、生きている証。
「ここに」
◆
思い出せない記憶。
なのに消えない感覚。
矛盾。
でも、それでいい気がした。
人間の記憶なんて曖昧だ。
けれど。
感情は、妙にしぶとい。
「……助けてくれたんだよね」
小さく呟く。
それが事実かどうかは、もう分からない。
でも。
そう信じる理由は十分にあった。
あの日から。
世界の重さが変わった。
自分の中の何かが変わった。
恐怖の質が変わった。
絶望の形が変わった。
「……ねえ」
視線を墓石へ戻す。
柔らかな微笑み。
「ちゃんと生きてるよ」
風が吹く。
花びらが揺れる。
「ちゃんと笑ってる」
空気が静かに流れる。
「ちゃんと……前向いてる」
沈黙。
だが、不思議と孤独ではない。
墓石の前なのに。
どこか穏やかな時間。
みずきは小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
自然に出た言葉。
取り繕いのない、本音。
「ほんとに」
立ち上がる。
軽く服の裾を払う。
帰ろうとする。
その時。
胸の奥で、何かが微かに疼いた。
違和感。
空白。
説明できない感覚。
足が止まる。
振り返る。
墓石。
花。
煙。
空。
すべては変わらない。
なのに。
視界が、じわりと滲んだ。
「……あれ……」
瞬き。
だが、滲みは消えない。
喉の奥が詰まる。
呼吸が浅くなる。
「……なんで……」
感情の正体が掴めない。
悲しい?
違う。
寂しい?
それだけじゃない。
もっと、曖昧で。
もっと、深くて。
◆
ぽたり。
涙が落ちた。
自分でも気づかないうちに。
「……え……」
指で触れる。
濡れている。
はっきりと。
次の瞬間。
胸の奥が、崩れた。
「……ちが……」
言葉にならない。
理由がない。
なのに止まらない。
涙。
呼吸。
感情。
「……やだ……」
視界が歪む。
世界が揺れる。
膝から力が抜けそうになる。
「……やだよ……」
声が震える。
自分でも理解できないまま。
「……なんで……」
理解は遅れてやってくる。
理屈ではなく。
感覚として。
失われたもの。
埋められない空白。
記憶のない喪失。
存在していたはずの何か。
もう戻らない何か。
◆
みずきは墓石を見つめた。
涙で滲んだ視界の中で。
「……ばか……」
嗚咽混じりの声。
「……ほんと……」
笑っていたはずなのに。
穏やかだったはずなのに。
「……ずるいよ……」
理由は分からない。
記憶もない。
なのに。
心だけが知っている。
「……ありがとう……」
涙が止まらない。
「……ほんとに……」
風が吹く。
線香の煙が揺れる。
空は、変わらず澄んでいる。
残酷なほど美しい。
みずきは泣いていた。
声を殺しながら。
石の前で。
春の光の中で。
そして。
泣きながら。
小さく笑った。
「……ちゃんと……生きるから……」
涙でぐしゃぐしゃの顔で。
それでも確かに。
「……見ててよ……」
返事はない。
当然だ。
だが。
風が、ほんの少しだけ優しく吹いた気がした。
空の青は、どこまでも続いていた。
空は、あの日とよく似ていた。
澄んでいて、どこまでも高くて、残酷なほど静かだった。
電車を降り、駅前の小さな花屋で白い花を買う。店主の女性は何も聞かなかった。ただ、そっと包んでくれた。その無言の優しさが、少しだけ胸に染みた。
霊園までの道は緩やかな坂になっている。冬の気配は薄れ、風にはかすかな春の匂いが混じっていた。
制服ではなく、私服。
それだけで、世界の見え方が違う。
歩きながら、みずきはぼんやりと考えていた。
二か月。
短いようで、長い時間。
学校の空気は、確かに変わった。
けれど――どう変わったのかを言葉にするのは難しい。
誰も露骨なことはしなくなった。
誰も何も言わなくなった。
笑い声は戻った。
日常も戻った。
だが、完全ではない。
何かが、静かに沈殿している。
水底の澱のように。
触れれば揺れる、微妙な均衡。
それでも。
みずきは、以前の自分ではなかった。
それだけは確かだった。
◆
墓地の空気は独特だ。
音が吸い込まれる。
世界から一枚、膜が剥がれ落ちたような静寂。
石の列。
名前の刻まれた無数の証。
その中に――見つける。
見慣れたはずの名前。
見慣れないはずの現実。
みずきは立ち止まった。
小さく息を吸う。
そして、歩み寄る。
墓石の前。
花を供える。
線香の煙が細く立ち上る。
風に揺れる。
消えそうで、消えない。
「……久しぶり」
自然に、言葉が零れた。
自分でも少し驚くほど、穏やかな声だった。
しゃがみ込む。
石の文字を指でなぞる。
冷たい感触。
なのに、不思議と嫌じゃない。
「……なんかさ」
小さく笑う。
自嘲とも違う、柔らかな笑み。
「変だよね」
当然、返事はない。
ただ風が吹く。
線香の煙が揺れる。
「覚えてないんだよ、ほとんど」
ぽつり。
「ちゃんと顔も……声も……」
それでも。
みずきの表情は、穏やかだった。
悲しみよりも先に浮かぶ感情がある。
感謝。
安堵。
奇妙な確信。
「でもさ」
空を見上げる。
春の光。
淡い青。
「ちゃんと残ってる」
胸に手を当てる。
鼓動。
確かな、生きている証。
「ここに」
◆
思い出せない記憶。
なのに消えない感覚。
矛盾。
でも、それでいい気がした。
人間の記憶なんて曖昧だ。
けれど。
感情は、妙にしぶとい。
「……助けてくれたんだよね」
小さく呟く。
それが事実かどうかは、もう分からない。
でも。
そう信じる理由は十分にあった。
あの日から。
世界の重さが変わった。
自分の中の何かが変わった。
恐怖の質が変わった。
絶望の形が変わった。
「……ねえ」
視線を墓石へ戻す。
柔らかな微笑み。
「ちゃんと生きてるよ」
風が吹く。
花びらが揺れる。
「ちゃんと笑ってる」
空気が静かに流れる。
「ちゃんと……前向いてる」
沈黙。
だが、不思議と孤独ではない。
墓石の前なのに。
どこか穏やかな時間。
みずきは小さく息を吐いた。
「……ありがとう」
自然に出た言葉。
取り繕いのない、本音。
「ほんとに」
立ち上がる。
軽く服の裾を払う。
帰ろうとする。
その時。
胸の奥で、何かが微かに疼いた。
違和感。
空白。
説明できない感覚。
足が止まる。
振り返る。
墓石。
花。
煙。
空。
すべては変わらない。
なのに。
視界が、じわりと滲んだ。
「……あれ……」
瞬き。
だが、滲みは消えない。
喉の奥が詰まる。
呼吸が浅くなる。
「……なんで……」
感情の正体が掴めない。
悲しい?
違う。
寂しい?
それだけじゃない。
もっと、曖昧で。
もっと、深くて。
◆
ぽたり。
涙が落ちた。
自分でも気づかないうちに。
「……え……」
指で触れる。
濡れている。
はっきりと。
次の瞬間。
胸の奥が、崩れた。
「……ちが……」
言葉にならない。
理由がない。
なのに止まらない。
涙。
呼吸。
感情。
「……やだ……」
視界が歪む。
世界が揺れる。
膝から力が抜けそうになる。
「……やだよ……」
声が震える。
自分でも理解できないまま。
「……なんで……」
理解は遅れてやってくる。
理屈ではなく。
感覚として。
失われたもの。
埋められない空白。
記憶のない喪失。
存在していたはずの何か。
もう戻らない何か。
◆
みずきは墓石を見つめた。
涙で滲んだ視界の中で。
「……ばか……」
嗚咽混じりの声。
「……ほんと……」
笑っていたはずなのに。
穏やかだったはずなのに。
「……ずるいよ……」
理由は分からない。
記憶もない。
なのに。
心だけが知っている。
「……ありがとう……」
涙が止まらない。
「……ほんとに……」
風が吹く。
線香の煙が揺れる。
空は、変わらず澄んでいる。
残酷なほど美しい。
みずきは泣いていた。
声を殺しながら。
石の前で。
春の光の中で。
そして。
泣きながら。
小さく笑った。
「……ちゃんと……生きるから……」
涙でぐしゃぐしゃの顔で。
それでも確かに。
「……見ててよ……」
返事はない。
当然だ。
だが。
風が、ほんの少しだけ優しく吹いた気がした。
空の青は、どこまでも続いていた。
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