見ててよ

はるか

文字の大きさ
9 / 10

喪失

しおりを挟む

 夜の部屋の天井は、昼間より少しだけ遠く見えた。
 静まり返った空気。
 カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、淡く壁を撫でている。

 私はベッドに横たわったまま、じっと動かなかった。

 身体は疲れているはずなのに、眠気は訪れない。
 代わりに、胸の奥だけが妙にざわついていた。

 ――……ねえ。

 微かな声。

 耳ではなく、意識の内側に直接触れるような感覚。

 私はゆっくり目を閉じた。

「……起きてるよ」

 声を出さずに答える。

 すると、すぐに気配が揺れた。

 ――……今日。

 言葉は、震えていた。

 ――……怖くなかったの?

 その問いに、私は少しだけ息を止めた。

 怖くなかった、と言えば嘘になる。
 だが、恐怖とは少し違う感覚だった。

「……怖かったよ」

 正直に言う。

 ――……え……

「でも」

 私はゆっくりと言葉を選ぶ。

「怖さの種類が違った」

 沈黙。

 胸の奥で、小さな気配が戸惑う。

 ――……種類?

「うん」

 暗闇の中で、意識だけが静かに澄んでいく。

「昔の俺が感じてた怖さとは違う」

 ――……

「逃げ場がない怖さじゃない」

 あれは、もっと別のものだ。

 職場で聞き続けた声。
 絶望。
 本物の、崖の縁。

「……あれは」

 喉の奥で言葉が僅かに引っかかる。

「ただの支配だ」

 空気で縛るだけの、歪んだ遊び。

 胸の奥の鼓動が、小さく揺れる。

 ――……でも……

 弱々しい声。

 ――……私には……あれが全部だった……

 その言葉に、胸の奥が微かに締め付けられた。

 ああ。

 そうだ。

 この身体にとっては。

 この少女にとっては。

 世界そのものだったのだ。

 私は静かに目を開けた。

 暗闇。

 天井。

 現実。

「……なあ」

 少しだけ柔らかく意識を向ける。

「今日さ」

 ――……

「ちゃんと見えてたか?」

 ――……え……

「向こうの顔」

 沈黙。

 鼓動が、不安定に揺れる。

 ――……見た……

 小さな声。

 ――……あんな顔……初めて見た……

 私はわずかに笑った。

「だろ?」

 あれは確かに綻びだった。

 完璧な加害者の仮面に走った、決定的な歪み。

「人間ってさ」

 静かな思考。

「崩れる瞬間が一番正直なんだよ」

 ――……

「怒りじゃなかった」

 あれは。

「焦りだ」

 胸の奥の気配が、ゆっくりと息を吸う。

 ――……私……間違ってなかったのかな……

 その問いには、少し時間が必要だった。

 私はすぐには答えなかった。

 代わりに、静かに胸へ意識を落とす。

 二つの鼓動。

 重なり合う存在。

「……正解なんてない」

 ようやく言う。

「でも」

 暗闇の中で、言葉だけが確かな輪郭を持つ。

「終わり方は選べる」

 ――……

「潰されて終わるか」

 わずかな間。

「立ったまま終わらせるか」

 長い沈黙。

 そして――

 ――……一緒に……終わらせてくれる?

 その声は、ほとんど祈りに近かった。

 私は迷わなかった。

「当たり前だろ」

 即答。

「そのためにここにいる」

 胸の奥で、鼓動が大きく跳ねた。

 涙の気配。

 安堵の揺れ。

 ――……ありがとう……

「……寝ろ」

 静かに言う。

「明日もある」

 ――……うん……

 意識の深部で、気配がゆっくりと沈んでいく。

 緊張が解ける感覚。
 波が引くような静寂。

 私は天井を見つめたまま、小さく息を吐いた。

「……まだ、終わらせない」

 呟きは、夜に溶けていった。

 ◆

 朝。

 カーテン越しの光。

 柔らかな白。

 私はゆっくりと目を開けた。

 天井。

 部屋。

 いつもの景色。

「……あれ……」

 喉の奥から自然に声が漏れる。

 妙な違和感。

 夢を見ていた気がする。

 いや、夢というより――

「……なんだっけ……」

 思い出そうとした瞬間、記憶が霧のように散った。

 胸の奥。

 静か。

 妙なほど静かだった。

 いつも感じていたはずの、あの奇妙な二重感覚がない。

 私はゆっくりと身体を起こした。

 頭が少し重い。

 けれど、それだけ。

「……変な夢……」

 ぼんやりと呟く。

 何か、大切なことを話していた気がするのに。

 輪郭がない。

 掴めない。

 その時。

 スマホが震えた。

 机の上。

 見慣れた画面。

 何気なく手に取る。

 通知。

 見慣れない名前。

『みずき』

「……え?」

 眉が寄る。

 自分の名前。

 だが、登録した覚えはない。

 不審な違和感。

 恐る恐る開く。

 メッセージ。

 短い文章。

『おはよう』

 心臓が、わずかに跳ねた。

 次の行。

『今日は無理しなくていい』

 指が止まる。

 意味が、すぐには理解できない。

 さらにスクロール。

『でも、逃げなくてもいい』

 喉の奥が乾く。

『もう大丈夫だから』

 画面を見つめたまま、私は固まった。

「……誰……?」

 知らない。

 こんな人。

 こんなやり取り。

 なのに。

 胸の奥が、不自然なほどざわつく。

『俺はちゃんといる』

 呼吸が浅くなる。

『だから、生きろ』

 その一文。

 それだけで。

 理由もなく、涙が込み上げた。

「……なに……これ……」

 理解できない。

 記憶にない。

 なのに。

 言葉の一つ一つが、異様に近い。

 心臓のすぐ隣で囁かれているような感覚。

 私は無意識に胸へ手を当てた。

 鼓動。

 一つ。

 ただの、いつもの鼓動。

 けれど。

 どうしてだろう。

 どうしてこんなに――

 寂しい。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

いまさら謝罪など

あかね
ファンタジー
殿下。謝罪したところでもう遅いのです。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

処理中です...