建築家

闇之一夜

文字の大きさ
上 下
10 / 12

しおりを挟む
 彼の心は消えつつあった。
 そのうち、思い出したように――
 恐怖が来た。

 これまでも、昼間極度に暑かった夏場や、重労働して疲労しすぎたときなどに、夜中にふと目を覚まし、たちまちのうちに奇怪な重圧に襲われ、そのままずるずると奈落の底に落ちていくような、胎内回帰にも似た原初的恐怖に陥ることは、何度かあった。

 あおむけに寝ていると、まず両足に不快な痺れのような重さを感じる。次に、そのままあの世のような暗くおぞましい深淵へと、頭から一気に引きずり込まれていく感覚に襲われる。
 あわてて顔を振り、あおむけをやめて横を向いたりとあがくうちに、それはいつしか消えてそのまま眠り、気づくと朝になっていた。

 その理由は、なんとなく分かっていた。
「虚無」である。
 全くなにもない自分が、たまにそういう底知れぬ無の淵に落ち込みそうになるのは当たり前だ。

 そう納得し、普通なら精神がどうかしたのではと慌てるところを、彼は自分の場合は「仕方がない」と諦めていた。



 幼児期から安心がなにもなかった。母親といてリラックスした記憶が、ただの一度もない。
 あるのは立派な長男を望む彼女を、ことあるごとに失望させやしないか、そしてゴミくずをカゴにポイするように、いとも簡単に捨てられやしないか、という恐怖と緊張だった。成長するにつれ、それに悲しみと怒り、そして絶望が加わった。

 幼児期の彼は、母がなく、揺りかごに一人放置され、泣いている哀れな赤子も同然だった。母の代わりに、ただ自己の要求だけしてくる鬼のような女だけがそばにいて、彼を世話したとしても、それには全て理由があり、愛情はないことはないがろくになく、たとえいちおうは好きで育てていて育児の楽しみなどはあっても、そこには常に一つの目的があった。
 そして、のちに当てが外れて彼が駄目人間になるや、期待は弟に移り、彼は無視された(ちなみに彼の女房も、のちに息子たちに同じことをした。彼の母とは面識が一度もないにもかかわらず、である)。

 この所業により、彼には幼児期から「母親というものは、子供をただ利用し、使い捨てるだけの鬼畜の存在である」という強固なイメージが作られた。むろん子供だから自覚はなく、無意識下で、である。

 テレビドラマで育児放棄する女が悪役で出てくると、主役の優しく包容力のある母親よりも、そっちに魅力を感じた。そっちが正しいと思った。世間でもてはやされる聖母のような女性像には、白々しい嘘しか感じなかった。

 幼い子供にとって、母親のいない世界は、恐ろしすぎる耐え難い疎外の空間だった。
 星ひとつない真っ暗な宇宙に、ただ自分だけが一人ぽつんと座っている。幼児にはあまりにも深い絶望と孤独だった。
 その恐怖は、時おり深夜の発作という形で彼を頭から鷲づかみにし、そのぽっかりあけた無限の虚無の中へ、有無を言わさず放り込もうとした。

 その恐怖は凄まじかったが、声をあげるまではいかず我慢できたので、誰にも気づかれなかった。泣き言をいうことは母に捨てられること、すなわち死を意味したからだ。
 といって、相談する相手は誰もいない。


 そこで彼は、毎夜のごとく繰り返されるこれらの苦痛を、神が自分に特別に与えた試練、一種の修行なのだ、と解釈した。ほかの誰もこんな目に遭わないのに、自分だけがやられる。ということは、自分が特別な存在、選ばれしものである証しである、と。

 この選民意識が彼を極度に尊大にし、自意識を自分でも手に負えぬほど過剰に膨らませ、のちの嘘で塗り固めた無存在の人生を用意した。
「これだけの目に遭うのは、俺に他人にはない格別の才能があるからだ。俺は天才だ。でなければ、神がこうも虐げるはずがない……」
 というわけだ。

「神の試練」だとでも解釈しなければ、彼にはもうなにも残っておらず、弱小な子供が、そんな孤独の重圧に耐え抜くことは到底できなかったろう。もし、この思い込みがなければ、彼は精神を病み、鬱病のような精神疾患になったはずである。

 この試練に耐え続けた結果、たとえ夜でなくとも、時おり目の裏側、あるいは頭蓋の中に、まるで綿をぐいぐい詰め込まれるように頭全体がぎゅっと締まり、極度に緊張する状態が来るようになった。いつもおどおどと不安に駆られて暮らし、家でも学校でも、やること全てが上手くいかず、母親や教師の怒りと制裁を、ただじっと待つ以外に道はない。

 明らかにそれは鬱状態だったが、マンガやアニメ、映画、音楽などの娯楽に徹底的に逃避できたせいか、病的であっても、通院するほどには至らなかった。

 だが病気でないのに鬱状態であるということは、ただのバカであることを意味する。
 いつもぼうっとし、勉強や遊びなど、すべきことをせずにさぼって甘えているようにしか見えず、学校ではいじめに遭い、教師には怒られ、家に帰れば母親の平手がしょっちゅう飛ぶ。彼が恐怖に慄いても、母親は自分をバカにして無視していると思い、ますます罵声と暴力が飛んだ。彼はストレスに耐えるために、肉体の感覚を麻痺させて固まるから、一見無視に見えるのである。
 それでも前述の徹底した逃避と、基本は恐怖の対象でも仲は良かった弟が友達がわりをやってくれたおかげで、病気にも不良にもならずに済んだ。


 だが、小学生の頃に例の建築家の妄想が始まった。
 まだ子供のくせに、嘘つきの偽善者であるという、その気味悪さはおぞましい毒の気のようなオーラになって全身から発せられ、またガキのくせにいつも落ち込んで元気がないうじうじした暗さは、周囲を例外なくイラつかせた。外で出会う全ての大人に嫌われ、ほとんど常になんらかの理由をつけられて叱られていた。「大人には近寄るな、虐待される」という常識が出来た。

 自分が大人になると、それが「他人」にスライドした。
 子供に嫌われて暴力を受けるのは、朝になれば日が昇るのと同じくらいに当たり前の常識だったので、大人に対しては「近寄るな」よりは、むしろ「期待するな」というほうが正しかったかもしれない。
 子供は猿と同レベルだが、大人にはまだ余裕があるかもしれない、特に母親にはない包容力があるのでは……とつい期待してしまい、そのニヤニヤした陰気な作り笑いと、鈍く光るイヤらしい媚びの目、腰の曲がった老人のようにがっくりとくたびれた醜悪な姿勢で近づき、それで当然のように嫌われ、暴言を投げかけられて期待を打ち砕かれる。そのはかない希望が、排水口に乱暴に蹴られ、落ちていくさまを黙って見つめるような、無残な手合いになった。

 また前述の縁も手伝い、彼自身が知らずに不満でイラついた人間を磁石のように引き寄せた。
 歯医者、眼科医、小学校の健康診断などで、要領をまるで得ない口調と、ガキには似合わない暗さと元気のなさから、医者から怒鳴られなかったことはない。教師、店の店員、近所の住民で、彼に優しくする者は、ほぼ百パーセントいなかった。

 だがもちろん、不良にもなれなかった。不良にいじめられていた。
 どんな人間よりも下だった。地方のドヤ街の大人でも探せば、もっと酷い者はいるかもしれないが、ここでは、とりあえず彼が最低だった。
 誰でも彼を蹴って踏みつけ、罵ることが出来た。彼にはなんの権利もなく、ただ達成不可能な義務だけが山のようにあった。

 といって、周りの人々に罪はなかった。彼が自分に人権がないと確信していたので、当然そのような外見になり、誰の目にもそう見えたため、その通りに人権を剥奪した、というだけである。
 全ての責任は彼にあった。
 といっても、まだ子供だったので、正確には母親の責任だったが。


 だが、母親にも同情すべき点は多々あった。
 彼女も親や周りの大人に利用され、虐待されて育ち、やっと一緒になった夫も駄目人間で長男が幼い頃に逃げ、あとは女手ひとつで二人の子を育ててきた。普通の母親のように育児をするには、あまりに精神面でハンデが多く、それでも生んだものは仕方がない。
 だが、むしろ一人では到底生きられないので、子分欲しさに血縁を作ったような部分もあったのである。

 だが弟はともかく、少なくとも長男のほうは、まるで頼りにならなかった。自分がかつてされたように彼を利用しようとしても、そもそも端から全てにおいて不器用でノロマで頭が悪く無能なので、利用価値は全くなかった。



 学校内の落ちこぼれに属する生徒の中には、彼に同情する者もいるにはいて、いつ自殺するかと心配していたが、神はそう簡単に彼を楽にはしなかった。前述の選民意識が彼を勇気付けたところもあり、けっきょく大人になるまで生き延びてしまった。

 歳をとるにつれ、建築家の妄想はますます激しくなり、現実と完全に乖離したその顔つきの気味悪さは、たったいま沼からあがったばかりの、腐汁したたるどす黒い妖怪のようだった。
 市民も、もう無力な子供ではない彼に手出しはせず、ただ恐れて避けるようになった。


 これほどまでに無意味で存在すらしていない彼を、神は、まるであとで何かをさせるつもりででもあるかのように、五十歳という年齢にまで寿命を引き延ばした。
 その頃になると、もう選民意識は消えかかっていた。自分が人生の修行をしているというイメージは、四十を過ぎると徐々に薄まっていた。
 当たり前だが、実際には、なんの成果もなかったからである。


 苦労をバネにするには、まず「自分が苦労した」という事実を受け入れなければならないが、彼はそれをないものとしてその存在を否定し、その代わりとして、ただ形も色もない成功の妄想ばかりを頭で繰り返してきた。だから年老いて振り返ったとき、なにも実を結んでいないのは当然である。
 彼は、その身を削り、生涯をかけて続けた一つの壮大な「実験」により、苦労が全て無駄に終わることもある、という真理を実証したのである。

 百の荷物を積んだのなら、それだけの報酬をもらえるだろう。だが、ただ「積んだ」と言い張るだけで実際には一つも積まれていなければ、そんな奴にびた一文も金を払うものはない。
 子供でも分かることだが、彼は子供の頃に、それに気づかないような思考回路を完璧に身につけ、そのままの延長で来た。
 普通の人が彼のことを知ったら、こんな人生を重ねて年老いていくくらいなら、いっそ若いうちに死んだほうがマシだと思うだろう。

 幼児期から積み重ねてきた苦しみと、無数の傷を受けた経験の全てが無駄だった。
 そのような動かぬ事実を嫌でも思い知らされ、徐々に自覚させられるようになると、女房相手に不定期にやっていた建築話も次第にしなくなり、石のように口を閉ざして生きるようになった。
 その顔は、くすんで色の薄れた街角の地蔵にそっくりだったので、努めてそこを通らないようにした。
しおりを挟む

処理中です...