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【12】覚悟を決める(エレイン視点)
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お父様には、学園内の池の近くを歩いていた時、バランスを崩して落ちてしまったと説明した。
私は水が苦手だと知っているお父様に、その言い訳を信じて貰えたかどうかは分からないけれど、
『そうか、怪我がなくて良かった』とだけ言って、それ以上何も言われることはなかった。
借り物の制服のまま、家令からお父様が今日は執務室で仕事をしていると聞いてまずは挨拶と説明に行ったのだった。
湯浴みの準備がされていた。借り物の服を脱いで湯浴み用の薄布の羽織り物に袖を通す。
「お身体が冷えてしまったと伺いましたが、湯を張らなくてよいのでしょうか」
「ええ。いつものように髪を洗って、その後に湯をかけてもらえれば、それでいいわ」
小さなボートのような形をした浴槽に私は湯を張ってもらわない。
寒い季節でもそうだ。
空の浴槽に座り髪を洗ってもらい、その後に湯浴み着の上から身体を洗う。最後に何度か熱めの湯をかけて終わりだ。
今さらながら、こんな私が王家に嫁ぐなど最初から無理だったのだ。
水面に恐怖を感じることを克服できずに、湯浴みすら普通にできない私には。
もしも何事もなくグレイアム殿下と結婚したとして、水辺を一切避けて生きていけるはずもなかった。
招待されたお茶会の庭に見事な蓮の花が咲く池があって、皆で水面に浮かぶ花を観賞するとなったらどうするのか。
公務の中に、港街の視察があったらどうするのか。
そもそも王宮には噴水もあれば、当然池もある。
そのたびに不自然に目を瞑ってやり過ごすなんてできるはずがない。引きこもって不参加を貫くなんてもっとできない。
第二王子の妃になるということを、私は甘く見ていたのだ。
コップの水がせいぜいの私が、グレイアム殿下の妃になるという大海を夢見たのが間違いだった。
救護室にいらしてくださったグレイアム殿下に、自分で池に飛び込んだことを正直に伝えた。
殿下は驚いた顔をなさり、何もおっしゃらなかった。
嘘をつくつもりはもちろん無かったけれど、自分で飛び込んだと言わなくても良かったのではという気持ちと、正直に伝えてよかったと思う気持ちが交互にやってくる。
きっとグレイアム殿下に呆れられてしまった。
あれほどジェシカ様にあまり近寄らないように気をつけていたのに、どうしてあの時はついて行ってしまったのだろう。
友人たちも心配してくれて、先生に言ったほうがいいとまで言ってくれたのに。
何度後悔しても取り返しはつかない。
朝を迎えても頭痛と身体のだるさ、胸の中に石が詰まったような重苦しさは少しも良くなっていなかった。
食堂へ降りることなく、侍女が部屋に食事を運んでくれる。
柔らかくていつも好んで食べているパンと、ミルクのスープがトレイに載っている。
体調の悪い時は、この柔らかいパンをちぎって、ミルクのスープに浸して食べていた。
何も頼まなくても、わざわざこれを持ってきてくれた侍女の優しさに鼻の奥がツンと痛む。
そして相変わらず食欲は戻っていない。
パンを食べようと頭では思っているのに、手を伸ばせない。
物を食べるのが怖い。侍女のこともこの家の料理人のことも信頼しているのに、ジェシカ様のクッキーを食べた後のことをどうしても思い出してしまう。
お腹の内側が波打っているような感覚を、下腹部を尖った何かで刺されているような終わりの来ない痛みを。
でもずっと横になっているわけにもいかないのだから、少しでも体力をつけなければとやっとの思いでパンをちぎり、スープで柔らかくして口に運ぶ。
優しい味は、優しい人たちの手を経て、私のお腹の中へ入っていった。
私はそろそろ覚悟を決めなければならないと分かっていた。
グレイアム殿下はお優しいから、衆目を集める場所で声高に婚約破棄だと突き付けられることはないかもしれない。
次の定例のお茶の会で静かに告げられるのだろうか。
うさぎのブローチのお礼として、殿下へのお返しにしようと刺繍していたハンカチが目に留まる。
せっかく完成したのに、もう渡せそうにはなかった。
これは自分で使おう。紺色の地に白い糸でブローチそっくりのうさぎを刺繍したのだから、自分で使う方がしっくりくるように思えた。
今日は学園を休みたい、そうお父様に伝えなくては。
このところ、休んでばかりだけれど仕方がない。
侍女にお父様への伝言を頼もうとしたら、ドアが開いてバスケットを持ったお母様が入っていらした。
「お母様……」
「エレイン、眠れたかしら」
「いいえ、あまり眠れませんでした」
「旦那様が先ほど学園に連絡を出してくださったわ。今日は休みになったから、眠れそうな時に眠りなさい」
「はい、ありがとうございます」
「……やはり、ほとんど食べられないのね。そう思って、りんごを持ってきたのよ」
お母様はそう言うと、バスケットからりんごとペティナイフとお皿を取り出して、失礼ながら相変わらずあまり器用ではない手つきでりんごを剥き始めた。
「お母様、りんごをうさぎにしてくれませんか」
「うさぎ? まあ、エレインたら子どもみたいね」
お母様はそう言いながら、りんごをうさぎの形に剥いてくださった。
耳の尖ったうさぎを見て、何故だか涙がこぼれた。
遠い日、池に落ちて熱を出して寝込んだ私に、このようにお母様はりんごを剥いてくださった。
今また池に落ち、今度はグレイアム殿下に助けていただいたのに、もうおしまいかもしれない。
──お父様とお母様をがっかりさせてしまうだろう。
それは私の本当の心ではなかった。
私は、グレイアム殿下の婚約者でいられなくなるかもしれないことが、ただ悲しいのだ。
一時は、穏やかに婚約を白紙にしてもらって、領地で静かに生きて行こうと思っていたのに、私は夢を見過ぎてしまった。
「お母様、ごめんなさい。こんなに可愛く剥いてくださったのに、私、食べられそうもありません……」
「いいのよ、食べられない時は無理をしないで」
優しい言葉に涙が止まらなくなった。
お母様に背中を撫でられながら、りんごのうさぎが茶色くなってしまうまで、私は泣き続けた。
私は水が苦手だと知っているお父様に、その言い訳を信じて貰えたかどうかは分からないけれど、
『そうか、怪我がなくて良かった』とだけ言って、それ以上何も言われることはなかった。
借り物の制服のまま、家令からお父様が今日は執務室で仕事をしていると聞いてまずは挨拶と説明に行ったのだった。
湯浴みの準備がされていた。借り物の服を脱いで湯浴み用の薄布の羽織り物に袖を通す。
「お身体が冷えてしまったと伺いましたが、湯を張らなくてよいのでしょうか」
「ええ。いつものように髪を洗って、その後に湯をかけてもらえれば、それでいいわ」
小さなボートのような形をした浴槽に私は湯を張ってもらわない。
寒い季節でもそうだ。
空の浴槽に座り髪を洗ってもらい、その後に湯浴み着の上から身体を洗う。最後に何度か熱めの湯をかけて終わりだ。
今さらながら、こんな私が王家に嫁ぐなど最初から無理だったのだ。
水面に恐怖を感じることを克服できずに、湯浴みすら普通にできない私には。
もしも何事もなくグレイアム殿下と結婚したとして、水辺を一切避けて生きていけるはずもなかった。
招待されたお茶会の庭に見事な蓮の花が咲く池があって、皆で水面に浮かぶ花を観賞するとなったらどうするのか。
公務の中に、港街の視察があったらどうするのか。
そもそも王宮には噴水もあれば、当然池もある。
そのたびに不自然に目を瞑ってやり過ごすなんてできるはずがない。引きこもって不参加を貫くなんてもっとできない。
第二王子の妃になるということを、私は甘く見ていたのだ。
コップの水がせいぜいの私が、グレイアム殿下の妃になるという大海を夢見たのが間違いだった。
救護室にいらしてくださったグレイアム殿下に、自分で池に飛び込んだことを正直に伝えた。
殿下は驚いた顔をなさり、何もおっしゃらなかった。
嘘をつくつもりはもちろん無かったけれど、自分で飛び込んだと言わなくても良かったのではという気持ちと、正直に伝えてよかったと思う気持ちが交互にやってくる。
きっとグレイアム殿下に呆れられてしまった。
あれほどジェシカ様にあまり近寄らないように気をつけていたのに、どうしてあの時はついて行ってしまったのだろう。
友人たちも心配してくれて、先生に言ったほうがいいとまで言ってくれたのに。
何度後悔しても取り返しはつかない。
朝を迎えても頭痛と身体のだるさ、胸の中に石が詰まったような重苦しさは少しも良くなっていなかった。
食堂へ降りることなく、侍女が部屋に食事を運んでくれる。
柔らかくていつも好んで食べているパンと、ミルクのスープがトレイに載っている。
体調の悪い時は、この柔らかいパンをちぎって、ミルクのスープに浸して食べていた。
何も頼まなくても、わざわざこれを持ってきてくれた侍女の優しさに鼻の奥がツンと痛む。
そして相変わらず食欲は戻っていない。
パンを食べようと頭では思っているのに、手を伸ばせない。
物を食べるのが怖い。侍女のこともこの家の料理人のことも信頼しているのに、ジェシカ様のクッキーを食べた後のことをどうしても思い出してしまう。
お腹の内側が波打っているような感覚を、下腹部を尖った何かで刺されているような終わりの来ない痛みを。
でもずっと横になっているわけにもいかないのだから、少しでも体力をつけなければとやっとの思いでパンをちぎり、スープで柔らかくして口に運ぶ。
優しい味は、優しい人たちの手を経て、私のお腹の中へ入っていった。
私はそろそろ覚悟を決めなければならないと分かっていた。
グレイアム殿下はお優しいから、衆目を集める場所で声高に婚約破棄だと突き付けられることはないかもしれない。
次の定例のお茶の会で静かに告げられるのだろうか。
うさぎのブローチのお礼として、殿下へのお返しにしようと刺繍していたハンカチが目に留まる。
せっかく完成したのに、もう渡せそうにはなかった。
これは自分で使おう。紺色の地に白い糸でブローチそっくりのうさぎを刺繍したのだから、自分で使う方がしっくりくるように思えた。
今日は学園を休みたい、そうお父様に伝えなくては。
このところ、休んでばかりだけれど仕方がない。
侍女にお父様への伝言を頼もうとしたら、ドアが開いてバスケットを持ったお母様が入っていらした。
「お母様……」
「エレイン、眠れたかしら」
「いいえ、あまり眠れませんでした」
「旦那様が先ほど学園に連絡を出してくださったわ。今日は休みになったから、眠れそうな時に眠りなさい」
「はい、ありがとうございます」
「……やはり、ほとんど食べられないのね。そう思って、りんごを持ってきたのよ」
お母様はそう言うと、バスケットからりんごとペティナイフとお皿を取り出して、失礼ながら相変わらずあまり器用ではない手つきでりんごを剥き始めた。
「お母様、りんごをうさぎにしてくれませんか」
「うさぎ? まあ、エレインたら子どもみたいね」
お母様はそう言いながら、りんごをうさぎの形に剥いてくださった。
耳の尖ったうさぎを見て、何故だか涙がこぼれた。
遠い日、池に落ちて熱を出して寝込んだ私に、このようにお母様はりんごを剥いてくださった。
今また池に落ち、今度はグレイアム殿下に助けていただいたのに、もうおしまいかもしれない。
──お父様とお母様をがっかりさせてしまうだろう。
それは私の本当の心ではなかった。
私は、グレイアム殿下の婚約者でいられなくなるかもしれないことが、ただ悲しいのだ。
一時は、穏やかに婚約を白紙にしてもらって、領地で静かに生きて行こうと思っていたのに、私は夢を見過ぎてしまった。
「お母様、ごめんなさい。こんなに可愛く剥いてくださったのに、私、食べられそうもありません……」
「いいのよ、食べられない時は無理をしないで」
優しい言葉に涙が止まらなくなった。
お母様に背中を撫でられながら、りんごのうさぎが茶色くなってしまうまで、私は泣き続けた。
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