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【0】プロローグ
しおりを挟むロンバルディスタ王国、その王宮の中庭に賑やかな声が響いていた。
今日は定例の協議会の日だ。
毎年一月、五月、九月に行われる協議会はロンバルディスタ王国全土から、伯爵家以上の貴族当主が集まるものだ。
この王国の貴族会のトップにいる四大公爵家の当主は、毎回嫡子を連れてくる。
これはいずれそれぞれの公爵家を背負っていく嫡子たちに、第一王子と各公爵家嫡子との親交を深めることを目的としている。
四つの公爵家はそれぞれ東西南北の名で呼ばれている。
東のモルテード公爵家の嫡子、イラリオ・モルテード。
西のブレッサン公爵家の嫡子、アルマンド・ブレッサン。
南のアンセルミ公爵家の嫡子、ヴィオランテ・アンセルミ。
北のサンタレーリ公爵家の嫡子、レティーツィア・サンタレーリ。
北と南の公爵家の嫡子は女子だ。
ロンバルディスタ王国では、女子であっても第一子が嫡子とされる。
そしてそれら四大公爵家の嫡子たちの賑やかな声の中心にいるのが、ロンバルディスタ王国第一王子のジュスティアーノだ。
ジュスティアーノは、まだ子供ながらいずれ王太子となる器を備えている。
将来この王国を支える五人の子供たちは、まだ己が背負っているあらゆるものに関係なく、王宮中庭の草の上を楽しそうに駆けていた。
***
「もう無理、走れない……」
「ジュストはタフすぎるよ……あのペン、カッコよかったのにやっぱりジュストの物かぁ」
イラリオとアルマンドが草の上に倒れ込むように転がった。
ヴィオランテはとっくに戦線離脱して、ベンチに腰掛けている。鬼ごっこの、何がそんなに面白いのか分からないといった表情を浮かべて。
そして誰より鬼ごっこを楽しんでいるのがレティーツィアだ。
「私はまだ捕まらないわ!」
「レティ、がんばれ~逃げ切れよ~」
鬼ごっこの『鬼』は、いつもジュスティアーノだ。
ジュスティアーノが逃げる側になると、足が速いだけではなく裏を掻くことが巧みで見事に逃げ切ってしまう。
途中で追いかけ疲れて『鬼』が休み、そこからなし崩しになってしまうのだ。
ある時は、いつも少々の距離を取りながら付いていた護衛がジュスティアーノを見失ってしまうという小さな事件も起きた。
それから『鬼』はいつもジュスティアーノになった。
今日もイラリオやアルマンドを適度な距離で追いかけ続け、二人がへばるのを待って捕らえた。すぐに捕まえないのはジュスティアーノの少しの意地悪だった。
いつも、自身の言動に正しさと慈愛を求められることへの小さな反発だった。
自分だけが厳しくそれを求められている。
従者などから誰にも気づかれない小さな嫌がらせをされるのは日常のこと過ぎて、自分ですらそれが当たり前になっていた。
すべてを持って生まれた子供。
やがてこの国の最高権力を握る子供。
でも今であれば、ささやかな嫌がらせをすることができる子供。
子供であるジュスティアーノは、そうした身の回りの大人たちからの小さな悪意を丸呑みすることしかできない。
そんな鬱屈を何も悪くない友人に向けてしまい、イラリオとアルマンドが息も絶え絶えな様子で草の上に転がっている姿を見て、ジュスティアーノは心の中で謝った。
ヴィオランテは『走れる靴ではないの』と早々に抜けてしまった。
あとはレティーツィアだけで、約束の時間より早く全員を捕えればジュスティアーノの勝ちとなる。まだまだ時間に余裕があった。
今回の勝者への商品は、アルマンドの父であるブレッサン公爵からの『古銀の彫刻を焼き付けて作られたペン』だ。
ブレッサン公爵が外国へ出向いた際、その国の港町で見つけた遠い国で作られたペンだという。
無骨なのにどこか優雅さも感じられる、不思議と惹きつけられる何かがあった。
珍しくジュスティアーノも欲しいと思った。
後はレティーツィアを捕まえればジュスティアーノの勝ちだが、レティーツィアはすばしっこい。
ジュスティアーノが余裕綽々のつもりでいたら、レティーツィアは中庭の小径を軽やかに走り、小柄なせいで時々見えなくなってしまう。
しばらく追いかけているうちに、ジュスティアーノは自分の勝ちを確信した。レティーツィアが逃げた先は行き止まりなのだ。
それなのにレティーツィアはスピードを緩めなかった。
「レティ、危ない!」
急に止まって振り返ったことで重ねられたスカートがよじれて、まるで両足を縛るように巻き付いてしまった。
バランスを崩したレティーツィアの腕をジュスティアーノが掴んだが、そのまま一緒に倒れ込んだ。
ジュスティアーノに抱き込まれてしまったレティーツィアは、驚いたが動けなかった。ジュスティアーノがその腕に力を込めたからだ。
(ど、どうしたというの……ジュスト……)
時間にすればほんの三秒もなかったが、レティーツィアの胸に石碑の文字のように刻まれてしまった。
これまで目を逸らし続けてきた、自分の意思ではどうすることもできない秘めた想いを。
だが次の瞬間には、刻まれてしまったその文字を頭の中の石碑ごと打ち砕いた。
レティーツィアは明瞭に理解していた。
王家の第一王子であるジュスティアーノと、四大公爵家の一角を担うサンタレーリ家の嫡子である自分の道は、決して重なることなど無いと。
ジュスティアーノの隣を歩けるのは、兄か姉がいて嫡子ではない高位貴族令嬢だけなのだ。
「……いたたた」
レティーツィアが大袈裟な声を出すと、弾かれたようにジュスティアーノが立ち上がった。
ジュスティアーノは手を取ろうとしたが、レティーツィアは自分で起き上がりスカートの汚れをパンパンと叩いた。
「……まったく、真剣に逃げたりするからだ。行き止まりにも気づかないで。まあ俺の勝ちだな」
「真剣に追いかけてきた鬼のセリフがそれなの? でも、ジュストの勝ちね。元々私が勝っても、古銀のペンはジュストにあげるつもりだったの」
「どうしてだ。譲られたって嬉しくない」
「何でも手に入れられるジュストなのに、いつも何も欲しがらないでしょう? そんなジュストが古銀のペンには目を奪われていたもの。だから、正々堂々ジュストが勝ち取ってくれて良かったわ」
ジュスティアーノは一瞬だけ驚いたような顔を見せたが、すぐにいつもの表情に戻る。
「……ああ、俺の勝ちだからな……」
「さあ戻りましょう。今日もとても楽しかった。でも、こうして遊ぶのもこれが最後かもしれないのよね……。次の九月の定例議会から、私たちも会議のほうに出席しなくてはいけないのだもの」
「……庭で遊んでいられるのも、これが最後なのだな」
「もう一回逃げようかしら」
「そんなじゃじゃ馬では婚約者が逃げるぞ」
「まだ私に婚約者はいないわ!」
「決まる前に逃げられているんだよ!」
「絶対それだわ! ジュストは天才ね!」
二人は笑いながら、小走りで皆の元へと戻って行く。
もう子供時代が終わろうとしている公爵家の嫡子たちは、次回から公爵家当主と並んで定例議会に参加することになっている。
これまで遊んでいられたのは、王家を支える四大公爵家の嫡子と王家の跡継ぎの間に打算的ではない関係性を築かせるためだった。
七歳から十二歳までの間、五人の子供たちは年に三回こうして長い時間を一緒に過ごしてきた。
こんな風に無邪気でいられるのもこれで最後だと思うと、寂しい気持ちになる。
レティーツィアは、何かを落としてきたように思えて振り返った。
何の変哲もない、ただの小径があるだけのはずだった。
それなのに、ただの小径がキラキラと光を放っている。
小径の両側には、マートルの小枝が白い花をつけていた。
白い花の中央に、金色にも見える黄色い花糸が太陽の光を受けてキラキラと輝いて見える。
きっとそれは、レティーツィアがさっき砕いた想いの欠片だ。
ジュスティアーノのことを好きだという気持ちを砕いた欠片の粒が、マートルの木で光っている。
このマートルの花の道で起こったこと──ジュスティアーノに一瞬だけ抱きしめられたことを、大人になっても決して忘れないだろう──レティーツィアはそう思った。
「レティ、どうした?」
「ねえジュスト、あのマートルの花をつけた枝を一本貰ってもいいかしら」
「あれだけたくさんあるのだから、一本くらい良いと思う」
「わあ、ありがとう! それでは遠慮なく……」
レティーツィアは、一番高いところにあるマートルの小枝に手を伸ばす。
「これでいいのか?」
ジュスティアーノが、レティーツィアの代わりに手折ろうとしてくれている。
「そう、一番光が当たっていていっぱい花がついているその枝がいいわ」
「そんなに欲しいなら、もっと折ろうか?」
「ううん、一本でいいの。私の罪は小さくしておきたいわ」
「そうか」
ジュスティアーノは、レティーツィアの手が届かなかった一番高いところの小枝を折って渡してくれた。
「……ありがとう、ジュスト」
「俺の物ではないけどな」
「うん。でもありがとう」
「……戻るぞ」
レティーツィアはマートルの花が落ちないように、枝を振らないようにして歩いた。
花びらを乾かして、香り袋を作ろう。
いろいろなものを閉じ込める香り袋の布は、どんな柄がいいかしら。
亡き母が遺した古いドレスの生地を使い、これまでもレティーツィアはいろいろな小物を作った。母のドレスの生地で作った小物が傍にあると、まるで母が自分の隣にいてくれるように思えた。
リボンやクッションカバー、特に枕元のランプシェードは自慢の出来だ。
そんなことを考えて現実から目を逸らした。
そして、隣にいるのに誰よりも遠いジュスティアーノの横顔を一度だけ盗み見て、皆が待っている場所へと急いだ。
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