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【33】婚約破棄と悔悛の塔(ヴィオランテ視点)
しおりを挟む『世界は扉の向こうで切り取られている』と言われたら信じてしまいそうなほどの静けさしかないこの部屋に、慌ただしい靴音が入り込んできた。
ここに来てから何日が過ぎたか、分からなくなっている。
「これより第一王子殿下がいらっしゃいます」
それだけを扉越しに伝えると、靴音は遠ざかっていく。
ジュストがやって来る──。
ブレッサン領の新しい港から帰ってきたのか。
ジュストが城を空けている間に私はここに閉じ込められ、これは父も了承しているとのことだから、ジュストはこの件に直接的には噛んでいないのだろう。
でも、だからと言って助けにきてくれた訳ではないことは分かる。
むしろ最後通牒を突きつける損な役割を、婚約者として果たすのかもしれない。
それからほどなくしておかしなリズムの靴音が止まり、扉が開いた。
「ずいぶん久しぶりのように思う」
「……殿下……!?」
目の前に立ったジュストは、あまりにも酷い姿に変わっていた。
一瞬誰だか判らなかったほどの痛々しい姿に、動揺が走る。
「悪いが座らせてもらう。立っているのが少々苦手になってしまったのだ」
侍女がお茶の用意をする気配がない。
ということは、ジュストはここにお茶を飲むほどの時間も過ごすつもりがないということだ。
それにしてもいったい彼に何があったというのか。
「単刀直入に言う。ヴィオランテとの婚約は君の有責で破棄となった。カルロ・バディーニ殿の命が消えたのは、ヴィオランテが自身に都合よく物事を動かそうと企んだ結果だろう。何故……そのようなことを……」
「……彼の死までは、願っていませんでしたわ……」
「たとえ願わずとも、いくつもの策略を巡らせ、執拗にカルロ・バディーニ殿を失脚させようと目論んだ結果、彼を死の淵に落としたことは明白な事実だ。誰かの命を自分の勝手で奪う時、自分の未来が入った袋にも傷をつけることになる。そこから少しずつ明日が流れだすのだ。ヴィオランテの袋にはもう望んだ未来は残っていない。これから『悔悛の塔』へ移送することになる」
「……悔悛の塔へ送られるくらいなら、毒杯を干すほうが余程いいわ」
もう取り繕うのをやめた。
風貌のせいか、長年慕った殿下とは感じられなかった。
私は別に、殿下の外見に惹かれていたわけではないのに、ここまでの変貌は受け入れがたかった。
……もっとも、受け入れるなどと言える立場ではないのだ。
殿下のほうが私を拒絶しているのだから。
「悔悛の塔……文字通り悔い改めて心を入れ替えれば、そう判断されれば塔を出ることができる」
「嘘よ、悔悛の塔から出られた話など聞いたことがないわ」
「それは、自分の罪と向き合い心を入れ替えた者がいなかっただけだろう」
「……悔悛したかどうかの判断なんて、誰ができるのかしら。すべては詭弁よ……。アンセルミ公爵家はどうなるの、何か知っているなら教えて欲しいわ」
「君のすぐ下の妹がアンセルミ公爵家を継ぐ話は消えた。アンセルミ公爵が次女は愚かだと喧伝したことが裏目に出て、彼女は両親と共に領地へ行くことになった。誰もエデルミラ嬢との婚姻を引き受ける者がいなかった。
今回の件で弱体化されるアンセルミ公爵家をこれから背負って立つのは、君の一番下の妹だ」
「マリアンナが……まだ十歳なのよ……これから楽しいことがたくさんあるはずの、十歳なのに……酷いわ……」
「カルロ・バディーニ殿が積み重ねてきた研鑽の日々は突然断ち切られ、彼を育てたご両親の夢も希望も楽しみも共に潰えた。そう仕向けたのはヴィオランテだろう、酷いのは誰だ」
怒鳴られこそしなかったが、殿下は剣を突きつけるようにその怒りを私に向けた。
……カルロの人生を、私は私の都合で断ち切ってしまったのだ……。
カルロは、まさか自分に明日が来なくなるなど予想することもなく、大切な誰かに別れの言葉を口にする時間もなく……自分に何が起きたのかさえ理解することもないまま……。
それはカルロのご両親も同じだった。
赤子の頃から慈しみ、その未来に夢を乗せ、日々カルロの成長を見守ってきたご両親……。
カルロのご家族は、この先心から笑える日は来ないかもしれない……。
「…………私は、私は、なんていうことを……」
私のせいで……カルロが、カルロのご家族が、そして大切なマリアンナが……。
カルロの経歴に傷をつければ、自分に都合よく婚約を解消できると思っていた。
普通に、違約金や慰謝料を払って穏やかに自分の有責で婚約を白紙にすればよかったのに、第一王子の婚約者になるために自分自身に僅かな瑕もつけたくなかった、そんな理由で、私は……。
カルロの努力を踏み躙って未来を奪い、カルロのご両親を失意の底に叩き落とし、アンセルミ公爵家の過去も未来にも泥を塗り、幼いマリアンナに私の尻ぬぐいをさせる──。
……本当に、なんと愚かなことを……。
「移送は明後日と決まったそうだ。アンセルミ公爵邸には戻れずここからの移送となるが、何か持って行きたい物があれば、人を出して取りに行かせるくらいのことはできる」
「……特にありませんわ……失って悲しむような物は、初めから持たないようにしてきましたから……」
「そうか……。王妃殿下から賜ったものはすべて持って行っていいそうだ。では、これで。マリアンナ嬢のことは、この先君の代わりに見守っていくから、安心してほしい」
何の別れの言葉も無く殿下は立ち上がった。
マリアンナのことを見守ってくれると、その言葉が何より嬉しかった。
「殿下! そのお怪我の理由は存じませんが、どうかお健やかに……殿下の袋が、これから喜びで満ちますように……お祈りしております……」
ジュストは立ち止まったものの、振り返ることも何か言う事もなく、杖をつきながら部屋を出て行った。
コツコツというゆっくりした靴音に、カツンカツンという高い音が混じり、それも遠ざかってやがて消えた。
また、世界を扉の向こうから切り落としたような静けさが戻って来た。
次に靴音が聞こえれば、私はもうここには戻って来られない。
温かいお茶が飲みたかったが、それも時間で決められていた。
小さなクッキーをつまんで、温かなひと時を過ごしたかった。
最後にそうした時間の中で笑っていたのはいつだっただろう……。
レティと、最後にそうしてお茶を飲んだのはいつだったか。
ああそうだ、私が『悔悛の塔』に持って行けるのは、レティやマリアンナと過ごした温かい思い出だけなのだ。
まだ十歳のマリアンナが困った時に声を掛けてやることもできない。
自分が涙を落としていることに気が付いた。
私は自分が賢いつもりで生きてきたけれど、いつだって気づくのは遅すぎた。
私は悔悛することができるのだろうか……。
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