【完結】致死量の愛を飲みほして【続編完結】

藤香いつき

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Chap.1 X in Unknownland

Chap.1 Sec.1

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 ざわり、と。
 いやな風が肌をなぶった。

 闇のなか、ちりぢりになる意識を懸命にかき集める。硬いタイルの上に寝ているような激しい違和感を覚えて、ハッと目を覚ました。
 薄ぼんやりとした視界。上半身を起こしながら、ぱちぱちとまばたきをくり返し、現状を理解しようとして、

(——え?)

 思わず、言葉を失った。
 ずらりと並ぶ長い建物。光沢のある薄い銀色を帯びた、見たこともない街。大きな交差点のような道の中央に、私はぽつりと座っていた。
 奇妙なほど静まりかえった街の、道の上で。どうやら私は眠っていたらしい。

(……これは、夢?)

 状況を把握したところで、いまいち理解が及ばずに当惑する。夢と呼ぶには、大地の感触が妙に生々しい。さらりとしたタイルの表面みたいに冷たく、大地と呼んでいいのかわからないけれど。
 おそるおそる周囲を見渡すが、動くものの気配がない。まるで身に覚えのないこの街は、そもそも記憶のなかに少しも結びつきがない。こんな建物で視界を埋めつくすような大都市を、一度でも見たことがあっただろうか。
 新鮮な印象をうける、無機的な周囲のビル群。けれども、人間に捨てられたかのような荒廃した雰囲気。まるで古びたおもちゃの未来都市みたいな。そろそろエイリアンなんかが天空から降りてきて、片手を上げつつ挨拶でもしてくれそう。

 あまりにも非現実的な状況から逃避するように、おかしな想像をめぐらせつつ、おもむろに地面に触れた。不思議な感触をたどるように、自分の手の甲を見つめる。
 その、瞬間。——ぞくっと。あまりの違和感から戦慄せんりつに襲われた。
 あわてて手をひるがえし、てのひらをまじまじと見つめる。目に映るのは、私の意思に応えて動く、頼りなげな細い手。力を入れれば、拳を握ることもできる。——けれども、この、激しい違和感はなんなのか。
 その正体を探るまでもなく、私はに気づいた。

(これは……だれ?)

 自分の身体を改めて見る。肌に張りついた、細い肩ひもの下着のようなワンピース。真っ白なそれは薄く、服としての機能をあまり成していない。スカートの裾から伸びた脚の先には靴すらなく、素足だ。小刻みに震えはじめる肩は、寒いという理由からだけではないと思う。

 いま気づいたのだが、私は自分が何者なのか分からない。見下ろす身体も、腕も、脚も。まるで他人のもののような気さえする。
あたりまえだが自分の名前すら浮かばない。そんなことが、あるのだろうか。それともこれは、やはりリアルな夢なのだろうか。

 恐怖心を振り払うように、思いきって立ちあがった。少しふらつく足取りに、転びそうになる。いっそ夢ならば、このまま転んで頭でも打てば衝撃で目が覚めるだろうか。
 危険な発想にとらわれかける。すると、視界に何か動くものが入って心臓が跳ねた。
 目を向けた、先に。
 ここから十数メートル。看板なのか電光掲示板なのかよく分からない、大きな縦長のパネルのかげから、のそり、と。棒きれのような腕が飛び出て、揺れている。
 凍りついたまま見つめていると、ゆっくりと人が姿を現した。

 ——ひと、だろうか、あれは。

『あ……あ……あぁっ』

 音にならない、かすれたような声は、私の喉から鳴っているのか。
 不自然なたたずまいの、骸骨がいこつに薄皮だけが残ったような、それ。なにかで見たことがある。ホラー映画とかに出てくる、墓の下からい出してくる、ゾンビみたいな。
 動く——死体。

『ひっ、いやぁぁぁぁっ』

 絞り出すように悲鳴をあげて、振り向きざまに逃げようとしたが、足がもつれて一歩も踏み出せないまま地べたに倒れた。かたわらに落ちていた、割れたパネルの破片に盛大に腕を突っこむ。あまりの情けなさに泣きそうになるが、なげいている余地はない。
 地面に倒れ込んだまま頭だけで振り返ると、化け物のギョロリとした眼がこちらを向いていた。白濁した、焦点の合わない不自然な瞳孔どうこう。どう見ても正常な人間ではない。
 化け物が、こちらの姿を認識しておぼつかない足取りでやってくる。

 ——逃げなければ。今すぐ、立ち上がらないと。
 意思とは裏腹に、身体がまったくいうことを聞かない。精一杯力を入れて、上半身を起こした。けれども、脚はしびれたように反応しない。

(やっぱり、これは夢だ。こんな思いどおりに動かない身体なんて、私のものじゃない)

 馬鹿な言い訳を胸中で唱えながら、こちらに向かってくる化け物をただただ茫然ぼうぜんと見つめる。

 きっと、夢だから。
 化け物にわれる瞬間に、目が覚めるはずだ。

(そうすれば、きちんと何もかも思い出して元に戻れる。大丈夫、怖いのは一瞬だけ——)

 どうして人間は、危機が及んだときにこうまでも愚かになれるのだろう。それとも、これも恐怖から逃避するための本能なのだろうか。
 どうでもいい。もういっそ、はやく、この不合理な状況から解放されたい。
 そう、思ったときだった。

 ——ふいに、すぐそばまで近づいていた化け物の身体が、ザクっと変な音をたてて止まった。
 いや、違う。何か……やりのような、細く鋭い棒が、化け物の頭を真横に貫いている。

「……チッ」

 軽い舌打ちのような音。化け物の頭から、棒をたどって目線を横にずらしていく。

(……にんげん……?)

 目に入ったのは、ひとりの青年。化け物とは異なる、しっかりと生命を感じる、本物の人間。
 その青年が無造作に棒を引きぬくと、停止していた化け物が地べたに崩れ落ちた。ほんの、目の前。足の触れるギリギリのところに、死体が——死体と呼んでいいのだろうか?——うつぶせに倒れている。

 あとほんの少し。この一歩の距離で、私は、どうなっていたのだろう。

「おい」

 声が聞こえて、はたりと正気を取り戻し顔を上げた。
 くすんだ金の髪に、目尻が跳ね上がった狼のような眼の青年。薄い褐色の肌におさまったその眼は、陽光を受けて黄金のようにきらめいている。
 異国の顔立ち——直感でそう思ったけれど、今の私の判断がどこまで正確なのかもよく分からない。

 こちらをまっすぐに捉え、刹那せつな、彼は驚いたように硬直した。何に驚いたのか。私が思考するよりも早く、彼はすぐさまその表情を消して、口を開いた。

「お前、非感染者か」

 聞き慣れない言語。かすんだ記憶の中で、英語と呼んでいた言語ではないかと感じた。自分のことは思い出せないのに、そんなことは思い出せるらしい。
 しかし、英語にしては何かが違うような。記憶が抜けているだけなのだろうか、ひょっとすると違う言語なのだろうか。

怪我けがしたのか?」

 語尾が上がった。疑問形なのかも知れない。
 不思議なイントネーション。やはり先ほど思いついた英語とは少し異なる気もする。

「……おい!」

 急に鋭い声をかけられて、びくりと体が震えた。

『あ……あの、いま、変な……化け物に襲われて……』

 あわてて口を開いたが、出てくるのは彼とは違う言語だった。私にとっての、おそらく母国語と思われるもの。
 彼の片眉が上がった。

「は? 何言ってるか分かんねぇよ」

 距離を縮めるように、彼がこちらへと寄った。私の足許あしもとにあった化け物の死体を、そっとどかして(意外だ。もっと乱暴にあつかいそうな雰囲気なのに)、座りこんだままの私の目前に片膝をついた。
 急な至近距離に、自分の姿を思い出して恥ずかしくなる。意味があるか分からないけれど、すこしでも体を縮めて、視線をそむけるように顔を下げようとした、が。

「こっち向けよ」

 すじ張った腕が伸びてきたかと思うと、ぐいっとあごつかまれて強制的に顔を持ち上げられた。金の虹彩こうさいめ込まれた瞳と、間近でかち合う。

『あっ、あのっ……』
「……眼は正常だな」

 こちらの動揺には一切関せず、じっと観察するように私の顔をながめ、彼は何かをつぶやいた。そのまま私の身体にも無遠慮な視線を投げつつ、ふと左腕のあたりを注視し、

「それは?」

 また何か疑問形を投げられた気がする。受け取れないのに。

『あ、の……』

 彼と出会ってから、私は『あの』しか言っていないのではないだろうか。けれども、自分の意思を伝える手段が分からない。無意味な音だけが口からこぼれる。そんな私に対して、彼は眉根を寄せて吐息をもらした。

「お前、どこの人間だよ。共通語、しゃべれねぇのか?」

 なにやらあきれている気がする。仕方ない、というように人さし指で私の左腕を示した。

「それ、どうした?」

 指の先を追ってから、気づく。私の腕が赤く染まっている。そういえば、化け物から逃げようとしたときに切ったような。思い出した途端、じくじくと痛みが広がってきた。

『転んで、ガラスか何かで、怪我をして……』

 伝わるように、今度は身ぶり手ぶりを加えてみる。転んだ、を伝えるために地面に倒れるまねをするのが恥ずかしかったが、そういうことを言っている場合ではないと思う。

「……なんとなくは分かるけどよ」

 私のボディーランゲージを微妙な顔で見つめていた彼の反応は、かんばしくない。恥を捨てて頑張ったのに、伝わらなかったのだろうか。

「転んだ怪我だって言いたいんだよな? 一応みてやる。ほら、腕よこせよ」

 なぜか右手を差し出された。握手のはずはないと思うけれど。まさかとは、思うけれど。

「……おい、なんで手ぇ握ってんだよ、ちげぇだろ。握手する場面か? 少しは考えろよな」

 ペシっと手を振り払われ、ため息をつかれた。限りなく低い確率に賭けたわけだけれども、やはり彼は握手を意図していなかったらしい。意思疎通をあきらめた彼は、おもむろに私の腕を掴んだ。

『いたっ……あの、私、怪我していてっ』
「歯形もねぇし、切り傷だな」
『痛いですっ……痛い!』
「おいこら逃げんな。治療してやるから、じっとしてろ」

 絶対に会話がみ合っていない。私の控えめな訴えを華麗に無視して、けっこうな力で腕を掴んでいるこのひとの人間性を疑う。
 腕の痛みがひどくなる。抵抗しようと力を入れたせいで、傷口からよりいっそう血があふれた気がする。……泣きそう。

「うぉっ、なに泣いてんだよ!?」

 じわりと反射的に浮かんだ涙を、抑えようとしたが無理だった。
 腕を掴んで何かしら怒っているらしいこの人は怖いし、そもそも目覚めたら見知らぬ地に転がっていたわけで、さらには化け物にも遭遇したわけで……薄いワンピース一枚のこの身体も、本当に自分のものかわからないのに。

 私の肩から流れ落ちる、この長い黒髪は私のものだろうか? 先ほど発した声は? 性別は本当に女性だった? 私は自分のことをと呼んでいた? ——それくらい、何もかも漠然としている。

「泣くほどいてぇのかよ……?」

 記憶にない材質で舗装された無機質な道に、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていく。
 泣き出した私に気圧けおされたのか、少しだけ彼の声音がやわらいでいた。にじむ視界の中で、金色の眼が困ったように私をのぞき込んだ。

「……大丈夫か?」

 私の左腕から離れた大きな掌が、ふわり、と。私の頭の上に乗せられた。
 意味が分からない。
 分からない——けれど、もしかすると、慰めてくれているのかも知れない。

「……泣くなよ」

 ささやき声のような、独り言のような。出会ってから初めて聞いたその音色は、あまりにも優しくて。

 ——夢じゃ、ない。

 ふいに襲った現実感に、涙が止まらなかった。
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