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Chap.16 処刑は判決の前に
Chap.16 Sec.3
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——もっと早くに、貴方を殺すべきだった。
うめき声のように吐き出された言葉が、胸をゆっくりと貫いた。
まるで、心臓が拍動をやめたのか、全身へと送られるはずの血液が堰き止められたみたいに、身体が冷えていく。
生きていて、よかった——と。
死の淵から目を覚ましたときにくれた、泣きそうな顔。
このちっぽけな命を、慈しんでくれたように——思った、けれども。
殺すべきだった?
分かりやすい言葉が、イシャンの得た正答を教えてくれた。言葉が、全身を縛りつける針金になって、硬く冷たく食い込んでくる。指ひとつ、動かせない。目の前が真っ暗になったかのような、絶望の、息苦しさ。
忘れようとしていたのに——忘れかけていたのに——残酷な事実を、思い知らされた。
私は、死ぬべきだった。
§
《——これは、どういうことか。説明をもらえるか?》
赤い花を映して光るステンドグラスの前で、イシャンと共に立っていた。
イシャンが掌をかざすと、サクラの静かな声が聞こえたが、扉は開かれない。イシャンの目が、こちらに流れる。応えるように小さく頷く。
『……サクラさん、ここを開けてください』
エントランスホールに響く自分の声は、はっきりとしている。震えることはなかった。
『イシャンに説明を求めたのだが……お前が、私に用があるのか?』
『グラスを——飲みます。そのために来ました』
『………………』
フッと、吐息の音が聞こえた気がした。
『——そうか。では、入室を許可しようか』
ステンドグラスの赤い花が、ゆらりと散って消えていく。白い扉が描かれると、無音で滑り、サクラの許へ行くための道が開かれた。残していくイシャンをそっと見上げると、無表情な瞳がじっとこちらを見つめていた。扉が開くかどうか、彼のなかでは半信半疑だったのかも知れない。
私がサクラの気をひくから、そのあいだにセトを助けて。
たどたどしい言葉で伝えた希望。叶うかどうか——ではなく、やり遂げてみせる。彼の瞳に、強く目を返して、一歩を踏み出した。とても短い通路を、赤い炎の光がゆらめく部屋へと歩いていった。
白い部屋の、青い長ソファで。サクラは座っていた。先ほどまで手にしていたのか、傍らのシートには本が一冊置かれていた。私の姿を捉えると、おもむろに立ち上がって、
『飲むことなく、全てをセトに押し付ける気でいるのかと思っていたが……随分と遅い決断だな』
視線が、ぶつかる。青い眼は、炎の色を受けて暗い色をしている。着物の色さえも、暖炉の明るさに負けて色をなくしていた。
『……約束を果たさないから……私を殺そうとしたんですか?』
距離は、まだ数メートルほど離れている。どちらの声も室内によく響いた。
私の問いに、サクラは答えない。口を開くことなく、中央のエレベータへと歩いていった。
『グラスは、上で用意しよう』
噛み合わない応えをもってして、透明の柱へと入るよう促された。厚い絨毯の上、離れていた距離を埋めていく。
セトが撃たれた理由——ひいては、私を撃とうとした理由を知りたかったが、教えてくれる気はないようだった。
今思えば、ティアの部屋であんなにも厳重に拘束されたのは異常だった。イシャンは、ティアは無事だと言っていたが……彼に何があったのだろう。詳細は分からないままだ。イシャンの様子から、セトは間違いなく私が原因なのだろうが……。
乗り込んだエレベータは、ハウスの四角にある物よりも細い。サクラの着物についた香を感じる。すっとした、冷たくなめらかな匂い。凍てつく冬の朝みたいなその香りが、頭を冴えわたらせる。
『座って待っているといい』
開かれたドアを通りながら、サクラは黒いテーブルを示した。言われるままに足を向けて、そっと席に着く。右手の丸い窓には、何も映っていなかった。ただの黒。塗りつぶしたような、漆黒。
『……サクラさん、』
用意でもしているのか、離れた場所にいた彼の背に向けて名を呼ぶと、白い顔がゆるりと振り返った。
『私がグラスを飲めば……セトを、赦してくれるんですよね……?』
『ああ、そういう約束だったからな』
『それは、今夜の……先ほどの事も?』
『……それは含んでいないだろう?』
『それも、合わせてもらえませんか』
『都合の良い話だな?』
『……セトが無事でないなら、私が約束を果たす意味がありません』
『……なるほど』
滑るワゴンと共に、サクラがテーブルへと歩いてくる。こつ、こつ、と鳴る靴の音が、硬く響く。目前まで着くと、ワゴンから取り出したワイングラスと小瓶をテーブルへと並べ、こちらを見下ろし、
『セトの命を保証しろ、と?』
『……怪我をきちんと治してもらえることを望んでいます。それから……私のせいで負った罰を、全部』
『……対価が見合っていないな。たかだか毒薬の一滴ごときで、そこまで要求するのか? この瓶を全て飲み切るなら相応とみなすが……それとも、これはただの時間稼ぎか?』
サクラの唇が、薄く微笑をのせた。
ひやりとした焦燥が背筋を撫で、言葉を一瞬だけ失った。でも、暗い眼から、目をそらすことはしなかった。
『——いえ、ほんとうに、飲むために来ました』
『そうは見えないが……?』
細く深呼吸する。胸に、冬の早朝に似た香りを閉じこめる。
澄みきったような頭のなか、出会った彼らの顔が浮かんだ。悲しかったことではなく、彼らから貰った優しいものを、思いえがいた。それだけで満たした。ここから先の覚悟を、揺らさないために。
『……すべて飲めば、私が来る前に戻りますか?』
『……戻りはしない。戻す術など、私は持ち得ていない』
『でも、サクラさんなら、セトを救うことはできますよね?』
『……いつまで時間稼ぎをする気だ? この程度の時間で、セトを救えると思っているのか?』
『——いいえ』
答えて、サクラが蓋を開けかけていた小瓶を奪った。硬く、冷たく、掌に収まってしまいそうな——小さな瓶。ガラスのような質感で、でも、軽い。私の命の重さ。
サクラの手は、止めてくれはしない。分かっている。
開いていたスポイトの蓋を取って、口をつけた。迷いなく、ためらいなく、勢いのままに傾け——喉に流し込んだ。すべて。想像よりもずっと、あっというまに。
飲み干した小瓶を置き、青い眼を見すえ、
『——サクラさん、ハウスでは、対価を受け取ったら交渉は成立なんですよね? すべて飲んだら相応だって言いましたよね? これで私の希望を——約束を守ってくれますよね? ぜんぶ、このイシャンの端末で記録して送りましたから……なかったことには、できな……』
喉が焼けつくような痛みに耐えて、早口に訴えたが——ごほっと、取って代わるようにして咳がこぼれ、ポケットから取り出してみせた薄い端末がテーブルに落下した。
——熱い。灼熱の液体を飲まされたのか、痛みと熱で胃がひっくり返りそうだ。かっと血がのぼったように脳が沸騰する。視界が歪み、自分がまっすぐ座れているのかも分からない。テーブルの上にあった手で、バランスを取るため何か掴もうとしたが——気づいたときには、床に肩を打ちつけていた。
カシャン、と。遠くでグラスが割れる音がした。音は遠いはずなのに、ワイングラスは目の前で砕け散っていた。
『本当に、すべて飲み干すとはな……』
幻のような声が、なめらかに何かを唱えている。セトを助けると言ってくれた? それすらも分からない。
身体を起こそうとして床についた手が、グラスの破片で赤く染まっていた。痛くはなかった。ただひんやりと、氷に触れているかのような感覚があった。
『……やめなさい。無理に起きようとしては……また転んでしまうだろう?』
膜が掛かった聴覚を、心地よい音が揺らしている。ぼやけた視界。力がうまく入らない私の手を、そっと青白い掌が包んだ。感触はない。手の感覚が途絶えていて、目に映るものだけが、意識のすべてになろうとしている。サクラの美しい顔が、こんなにも近くにあるのは——なぜ? 冷笑も、微笑も、威圧もない。古い絵画に描かれた神話のように、感情の分からない顔で、底の見えない瞳で、私を見ている。すぐ、目の前で。
——青く暗い、夜空色の眼。
怖くはない。不思議と今は、(綺麗だな……)単純な感想しか浮かばない。あんなにも恐れていたのが嘘みたいに。
『……毒が、効いてきたか?』
熱に浮かされた頭に、サクラの声は届かない。
こんな終わり方をするのか。
知らない地で、自分のことさえ分からず、何も意味をなさない私は……なんのために存在したのだろう?
結局、何も見つけられなかった。自分の存在意義も、かけがえのない価値も。私にはなかった。せめて、何か……生きた証があったなら……。
——でも。
最後くらいは、誰かのために頑張ることができた、のか。
私がこうしてサクラを引き止めているあいだに、ロキがセトを助けて、セトが感謝して——ふたりの仲が戻ったなら。私がいた意味も、あったかもしれない。
気がかりなのは、ティアとの約束が果たせないことくらい。
——よかったら、一緒にお祝いしよう? ここのひとたちは、クリスマスに祝ったりしないから、ふたりで。
ティアとクリスマスのお祝いはできないけれど、彼が無事なら、誰かとお祝いできるはず。メルウィンが、きっとティアの好きなものを作ってくれる。もしかしたら、他のみんなとも。苦手だと言ったロキとすら、ゲームで協力しあえたのだから……大丈夫。ティアは、ほかの誰かと過ごせる。私がいなくても——平気だ。
ぐらぐら揺れる頭のなかで、よく分からないイメージが浮かんでいた。キラキラとしたクリスマスツリーに、豪華な料理。それらを囲む、彼らの姿。もちろん私はいなくて……代わりにサンタクロースがやってくる。
おとぎ話みたいに。
——頭が、まともに回らなくなってきた。
ただ、覚悟していたほどの苦しみはない。身体中の感覚を奪われるような熱があるだけ。
崩れていく意識を必死に繋ぎ止めて、最後に、精一杯の意志で唇を動かした。
『……さくらさん、やくそくを……まもって』
ふらり、と。
バランスの取れない身体が傾き、着物をまとった胸に抱き止められた。ひんやりとした香りが、まぶたの裏で懐かしい故郷を見せた気がした。
熱い微睡みのなかに落ちていく。
感覚が麻痺しているせいか、身体に回された腕が、優しく抱いてくれたように感じた。
まるで——眠ってしまった、小さな弟を抱きあげる——兄のように。
うめき声のように吐き出された言葉が、胸をゆっくりと貫いた。
まるで、心臓が拍動をやめたのか、全身へと送られるはずの血液が堰き止められたみたいに、身体が冷えていく。
生きていて、よかった——と。
死の淵から目を覚ましたときにくれた、泣きそうな顔。
このちっぽけな命を、慈しんでくれたように——思った、けれども。
殺すべきだった?
分かりやすい言葉が、イシャンの得た正答を教えてくれた。言葉が、全身を縛りつける針金になって、硬く冷たく食い込んでくる。指ひとつ、動かせない。目の前が真っ暗になったかのような、絶望の、息苦しさ。
忘れようとしていたのに——忘れかけていたのに——残酷な事実を、思い知らされた。
私は、死ぬべきだった。
§
《——これは、どういうことか。説明をもらえるか?》
赤い花を映して光るステンドグラスの前で、イシャンと共に立っていた。
イシャンが掌をかざすと、サクラの静かな声が聞こえたが、扉は開かれない。イシャンの目が、こちらに流れる。応えるように小さく頷く。
『……サクラさん、ここを開けてください』
エントランスホールに響く自分の声は、はっきりとしている。震えることはなかった。
『イシャンに説明を求めたのだが……お前が、私に用があるのか?』
『グラスを——飲みます。そのために来ました』
『………………』
フッと、吐息の音が聞こえた気がした。
『——そうか。では、入室を許可しようか』
ステンドグラスの赤い花が、ゆらりと散って消えていく。白い扉が描かれると、無音で滑り、サクラの許へ行くための道が開かれた。残していくイシャンをそっと見上げると、無表情な瞳がじっとこちらを見つめていた。扉が開くかどうか、彼のなかでは半信半疑だったのかも知れない。
私がサクラの気をひくから、そのあいだにセトを助けて。
たどたどしい言葉で伝えた希望。叶うかどうか——ではなく、やり遂げてみせる。彼の瞳に、強く目を返して、一歩を踏み出した。とても短い通路を、赤い炎の光がゆらめく部屋へと歩いていった。
白い部屋の、青い長ソファで。サクラは座っていた。先ほどまで手にしていたのか、傍らのシートには本が一冊置かれていた。私の姿を捉えると、おもむろに立ち上がって、
『飲むことなく、全てをセトに押し付ける気でいるのかと思っていたが……随分と遅い決断だな』
視線が、ぶつかる。青い眼は、炎の色を受けて暗い色をしている。着物の色さえも、暖炉の明るさに負けて色をなくしていた。
『……約束を果たさないから……私を殺そうとしたんですか?』
距離は、まだ数メートルほど離れている。どちらの声も室内によく響いた。
私の問いに、サクラは答えない。口を開くことなく、中央のエレベータへと歩いていった。
『グラスは、上で用意しよう』
噛み合わない応えをもってして、透明の柱へと入るよう促された。厚い絨毯の上、離れていた距離を埋めていく。
セトが撃たれた理由——ひいては、私を撃とうとした理由を知りたかったが、教えてくれる気はないようだった。
今思えば、ティアの部屋であんなにも厳重に拘束されたのは異常だった。イシャンは、ティアは無事だと言っていたが……彼に何があったのだろう。詳細は分からないままだ。イシャンの様子から、セトは間違いなく私が原因なのだろうが……。
乗り込んだエレベータは、ハウスの四角にある物よりも細い。サクラの着物についた香を感じる。すっとした、冷たくなめらかな匂い。凍てつく冬の朝みたいなその香りが、頭を冴えわたらせる。
『座って待っているといい』
開かれたドアを通りながら、サクラは黒いテーブルを示した。言われるままに足を向けて、そっと席に着く。右手の丸い窓には、何も映っていなかった。ただの黒。塗りつぶしたような、漆黒。
『……サクラさん、』
用意でもしているのか、離れた場所にいた彼の背に向けて名を呼ぶと、白い顔がゆるりと振り返った。
『私がグラスを飲めば……セトを、赦してくれるんですよね……?』
『ああ、そういう約束だったからな』
『それは、今夜の……先ほどの事も?』
『……それは含んでいないだろう?』
『それも、合わせてもらえませんか』
『都合の良い話だな?』
『……セトが無事でないなら、私が約束を果たす意味がありません』
『……なるほど』
滑るワゴンと共に、サクラがテーブルへと歩いてくる。こつ、こつ、と鳴る靴の音が、硬く響く。目前まで着くと、ワゴンから取り出したワイングラスと小瓶をテーブルへと並べ、こちらを見下ろし、
『セトの命を保証しろ、と?』
『……怪我をきちんと治してもらえることを望んでいます。それから……私のせいで負った罰を、全部』
『……対価が見合っていないな。たかだか毒薬の一滴ごときで、そこまで要求するのか? この瓶を全て飲み切るなら相応とみなすが……それとも、これはただの時間稼ぎか?』
サクラの唇が、薄く微笑をのせた。
ひやりとした焦燥が背筋を撫で、言葉を一瞬だけ失った。でも、暗い眼から、目をそらすことはしなかった。
『——いえ、ほんとうに、飲むために来ました』
『そうは見えないが……?』
細く深呼吸する。胸に、冬の早朝に似た香りを閉じこめる。
澄みきったような頭のなか、出会った彼らの顔が浮かんだ。悲しかったことではなく、彼らから貰った優しいものを、思いえがいた。それだけで満たした。ここから先の覚悟を、揺らさないために。
『……すべて飲めば、私が来る前に戻りますか?』
『……戻りはしない。戻す術など、私は持ち得ていない』
『でも、サクラさんなら、セトを救うことはできますよね?』
『……いつまで時間稼ぎをする気だ? この程度の時間で、セトを救えると思っているのか?』
『——いいえ』
答えて、サクラが蓋を開けかけていた小瓶を奪った。硬く、冷たく、掌に収まってしまいそうな——小さな瓶。ガラスのような質感で、でも、軽い。私の命の重さ。
サクラの手は、止めてくれはしない。分かっている。
開いていたスポイトの蓋を取って、口をつけた。迷いなく、ためらいなく、勢いのままに傾け——喉に流し込んだ。すべて。想像よりもずっと、あっというまに。
飲み干した小瓶を置き、青い眼を見すえ、
『——サクラさん、ハウスでは、対価を受け取ったら交渉は成立なんですよね? すべて飲んだら相応だって言いましたよね? これで私の希望を——約束を守ってくれますよね? ぜんぶ、このイシャンの端末で記録して送りましたから……なかったことには、できな……』
喉が焼けつくような痛みに耐えて、早口に訴えたが——ごほっと、取って代わるようにして咳がこぼれ、ポケットから取り出してみせた薄い端末がテーブルに落下した。
——熱い。灼熱の液体を飲まされたのか、痛みと熱で胃がひっくり返りそうだ。かっと血がのぼったように脳が沸騰する。視界が歪み、自分がまっすぐ座れているのかも分からない。テーブルの上にあった手で、バランスを取るため何か掴もうとしたが——気づいたときには、床に肩を打ちつけていた。
カシャン、と。遠くでグラスが割れる音がした。音は遠いはずなのに、ワイングラスは目の前で砕け散っていた。
『本当に、すべて飲み干すとはな……』
幻のような声が、なめらかに何かを唱えている。セトを助けると言ってくれた? それすらも分からない。
身体を起こそうとして床についた手が、グラスの破片で赤く染まっていた。痛くはなかった。ただひんやりと、氷に触れているかのような感覚があった。
『……やめなさい。無理に起きようとしては……また転んでしまうだろう?』
膜が掛かった聴覚を、心地よい音が揺らしている。ぼやけた視界。力がうまく入らない私の手を、そっと青白い掌が包んだ。感触はない。手の感覚が途絶えていて、目に映るものだけが、意識のすべてになろうとしている。サクラの美しい顔が、こんなにも近くにあるのは——なぜ? 冷笑も、微笑も、威圧もない。古い絵画に描かれた神話のように、感情の分からない顔で、底の見えない瞳で、私を見ている。すぐ、目の前で。
——青く暗い、夜空色の眼。
怖くはない。不思議と今は、(綺麗だな……)単純な感想しか浮かばない。あんなにも恐れていたのが嘘みたいに。
『……毒が、効いてきたか?』
熱に浮かされた頭に、サクラの声は届かない。
こんな終わり方をするのか。
知らない地で、自分のことさえ分からず、何も意味をなさない私は……なんのために存在したのだろう?
結局、何も見つけられなかった。自分の存在意義も、かけがえのない価値も。私にはなかった。せめて、何か……生きた証があったなら……。
——でも。
最後くらいは、誰かのために頑張ることができた、のか。
私がこうしてサクラを引き止めているあいだに、ロキがセトを助けて、セトが感謝して——ふたりの仲が戻ったなら。私がいた意味も、あったかもしれない。
気がかりなのは、ティアとの約束が果たせないことくらい。
——よかったら、一緒にお祝いしよう? ここのひとたちは、クリスマスに祝ったりしないから、ふたりで。
ティアとクリスマスのお祝いはできないけれど、彼が無事なら、誰かとお祝いできるはず。メルウィンが、きっとティアの好きなものを作ってくれる。もしかしたら、他のみんなとも。苦手だと言ったロキとすら、ゲームで協力しあえたのだから……大丈夫。ティアは、ほかの誰かと過ごせる。私がいなくても——平気だ。
ぐらぐら揺れる頭のなかで、よく分からないイメージが浮かんでいた。キラキラとしたクリスマスツリーに、豪華な料理。それらを囲む、彼らの姿。もちろん私はいなくて……代わりにサンタクロースがやってくる。
おとぎ話みたいに。
——頭が、まともに回らなくなってきた。
ただ、覚悟していたほどの苦しみはない。身体中の感覚を奪われるような熱があるだけ。
崩れていく意識を必死に繋ぎ止めて、最後に、精一杯の意志で唇を動かした。
『……さくらさん、やくそくを……まもって』
ふらり、と。
バランスの取れない身体が傾き、着物をまとった胸に抱き止められた。ひんやりとした香りが、まぶたの裏で懐かしい故郷を見せた気がした。
熱い微睡みのなかに落ちていく。
感覚が麻痺しているせいか、身体に回された腕が、優しく抱いてくれたように感じた。
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