【完結】致死量の愛と泡沫に

藤香いつき

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Chap.1 白銀にゆらめく砂の城

Chap.1 Sec.6

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 誰にも言えない秘密がある。
 
『——こんばんは』
 
 和を感じる不思議な部屋に、私の声は響くことなく吸い込まれた。壁の素材のせいなのか、声が小さすぎたのか。
 しかし、かすかな音は届いたらしい。丸い飾り窓の横、テーブルに向かって座っていたは手許の本から目を上げた。

『今晩は』
 
 共通語ではない。
 アクセントの弱い優しい音は懐かしく、彼の発する心地のよい声で耳に運ばれる。
 なめらかな、静謐せいひつの夜色の声音。和紙の張られた行燈あんどんの明かりが、ぼんやりと部屋を薄く照らしていた。
 
 細いエレベータから降りきるが、彼は動かない。数回の経験によるならベッドに行くのが通例なのだが、パタリと本を閉じただけで立ち上がる気配はない。よく読書時に掛けている眼鏡グラスも今夜はなかった。
 
 私の疑問が伝わったようで、緩いウェーブのかかった黒髪を耳に掛けた彼——サクラは、端整な顔を微笑に染めた。
 
『眠る前に話があってね。そちらに座ってもらえないか?』
 
 丸窓には夜空が映されている。
 細い月。三日月とも呼べない、長れるひとすじの涙みたいな、銀のしずく。
 並ぶ漆黒のテーブルまで歩み寄って、彼と向かい合うように着席する。
 
『アリアに、身体のことを聞いただろう?』
『聞きました』
『私からも付け加えて説明があってね……』
 
 汎用はんようロボットがするすると滑ってくる。
 私の前に炭酸水の入ったクリスタルグラスを、ことり。しゅわしゅわとした細かな泡が弾けている。
 
『脳にチップが見つかっている』
『……チップ?』
『極小の端末と言えば伝わるか?』
『……それが、脳に……?』
『現状では問題は無い。遠く離れた外部と通信できる物でもないからね』

 サクラは普段から着物と洋服が混じった独特な格好をしている。
 寒くなってからは、ハイネックのインナーの上に着物を重ねたり、厚手のボトムスを合わせたり。ハウス内はあまり寒くないので、自分でコーディネートしているというよりも、AIによるオートコーデではないかと思っている。

 眠る前の時間は、浴衣のような着物一枚だけのことが多い。今日は白っぽい着物に銀糸の刺繍ししゅう。ちらりと見える裏地がピンクっぽい。雪をかぶった、桃色の梅の花みたい。
 さらされた首には、しろがねのチョーカーに青の石。海の色。
 彼の眼はそれよりも深く、とらわれそうな青をしている。
 
『——脳移植のときに同じくして埋め込まれたとみている。健康状態のモニタリングを建前とした物だろうが、コンピュータによって意思や記憶に介入できる物だね……』

 サクラの首から垂れるブルーダイヤを眺めていて、うっかり情報が流れていた。
 かろうじて残った単語をかき集めて、
 
『それは……よくあることですか?』
『感染が拡がる前であっても、一般的とは言えないね。医療面では段階的に認められていたが、個人のプライバシーとセキュリティに問題が残っていた。意思に介入できる物は倫理的にも認められていない』

 ——つまり、以前だったら違法すれすれの物が頭の中に?
 
 軽い衝撃を受ける。
 朝にメルウィンが言っていた「実験されてたのかも!」という発言が重みをもった。
 
『……それって、取り除くことは……?』
『リスクはあるが可能だね』
『リスク……?』
『今、お前の頭の中に収まっている脳はひどく古いものらしい。何年何十年の話ではなく、百年以上前のものではないか——と診断が出ている』

 青い眼が、ひんやりと青白く光をともした。
 見つめる瞳は私を映している。
 
『——何故、そのように古い脳を移植に使ったのかは分からない。感染で多くの医療施設が機能を失い、保管されていた万全の状態のものがそれしかなかったのか……それとも、何か理由があるのか』
 
 百年以上前。
 サクラの指摘は衝撃的ではなく、むしろ納得のいく答えとして胸に落ちていた。
 
 目が覚めてから感じていた、別世界のような違和感。
 時代が違うと思ったのは、頭が狂っていたわけではなかったのか。

『実験という見解は、おそらく正しいだろう。生命を助けたいという意思が根幹にあるならば、このようにリスクの高い手段は取らない』
『……私は、実験されていて……そこから逃げてきたのでしょうか?』
『それは分からないね。——ただ、その古い脳はが要る。ハウスのように医療設備が整っていないコミュニティであっても、チップを介して状態を把握し調整することが可能になる。プライバシーに介入されるリスクは伴うが、チップを残すメリットはあるね』
『……とりあえずは、放置しても大丈夫ってことですか?』
『そうだね』

 衝撃的な内容のわりには、現状でとくに何もしなくていいらしい。
 自分の身体なのに他人事ひとごとのよう——といつも思っていたが、本当に他人の身体だった。
 
 グラスに手を伸ばして水を口に含む。
 ふと、新たな疑問が。
 
『……今の私の考えや、残っている記憶は、脳によるものですよね?』
『大部分はそうだろうね』
『大部分?』
『身体の記憶——というものがあるならば、身体のほうの人格の影響を受ける可能性もあるのかも知れない。……私が話す可能性は、それではないがね。脳の保存の過程、あるいは手術の影響を受けているのではないかと思うよ』
『……そうですか』
『マシンを使って記憶を辿ってみたいか?』
 
 グラスに落ちていた目線を上げて、サクラの瞳を見つめ返す。
 丸窓に映し出される細い月は、彼のあお白い肌を幻想的に見せていた。
 死神のようだと、初対面では思った。今はもう思わない。その声も肌も、ちゃんと温もりがあることを知っている。
 
『——記憶を、見るべきでしょうか?』
『以前も話したが、私は推奨しない』
『……それは、リスクの面からですよね? 身体へのリスクがなければ、見るべきですか?』
『その答えは私が判断するものか?』
『………………』

 答えられずにいると、
 
『海上都市のことを案じているようだね?』
 
 サクラのほうから、その言葉が出された。
 なんでもお見通しなところは、たまに怖いけれど、ありがたくもある。
 
『……はい。セトやロキが調べると言っていて……戦争という話が……』
『過剰に表現しているだけだろう。お前が心配するような事態にはならないよ』
『……本当ですか?』
『そうなる前に対処される』
『……どう対処されるんでしょう?』
『そのときにるだろうね』
『…………自分のことなのに、何も手伝えないのも、申し訳ないです』
『あの子たちが好きでやっていることを、そう気に病む必要はないと思うが……申し訳ないと感じるなら、あの子たちが望む見返りを与えてやったらどうだ?』

 見返り。
 一瞬、よくない考えが浮かんだ。
 
『……甘味と、ゲーム……?』
『ゲームで喜ぶのはハオロンだけだろうね』
 
 サクラの思うものが何かは分からないが、自分のなかで浮かんだ答えには目をつぶった。
 
 新たな見返り候補に考えを巡らせていると、サクラが席を立った。話は終わったらしい。
 見上げると、青い眼が細く笑って——誘うように、
 
『——仕事を頼んでも?』
『……いつもどおり横で、寝るだけ、ですよね?』
『ああ、寝るだけ——だね』
『………………』
 
 ——誰にも言えない秘密がある。
 秘密と呼ぶほど大それたことはしていないのだが、知られると大きな誤解とトラブルを招く気がして誰にも言えないでいる。
 
は選んだか?』
『……珈琲コーヒー豆をもらってもいいですか』
『リスト内ならどれを選んでくれても構わないよ』
『……いただきます』
 
 サクラの所有リストから好きな物を選んで受け取れる代わりに、添い寝をする。
 意味のまったく分からない取引が、たびたび行われている。
 3回目あたりで、
 
——もしかして、私が眠ってるあいだに私の身体で人体実験してますか。
——していないよ。
——だったら、これはなんのために……?
——お前が隣で眠っていると、私がよく眠れる。それだけの理由だ。

 へ? と。口に出なかったけど顔に出ていたと思う。

——そんな理由で……?
——人にとって、生命機能を維持するためにも睡眠は重要ではないか?
——それはそうですけど……?
——以前から夢が鮮明すぎて不快でね。薬でも消せないんだよ。
——それは……私が横で眠ると改善されるんですか?
——ああ、熟睡する者に共感するのかも知れないね。

 正直、ぜんぜんに落ちていないのだが、メリットが大きすぎて交渉成立させてしまった。
 バター、小麦粉、カカオ豆、高級シチュー。受け取る物がどれも本当に美味しすぎて、(私自身も、もちろん恩恵を受けているのだけれど)みんなも一緒に喜んでくれるのが嬉しい。メルウィンがとびきり反応してくれる。でも、他のみんなも。

 としてくれている彼らに、いつも学習することで手一杯な私が、すこしだけ恩返しできる。
 自己満足だとしても。
 
 
『……サクラさん、』
 
 呼び声に、瞳がこちらへと流れた。ベッドに腰掛けたサクラは私を見上げるかたちになる。
 背の高い彼の見上げる眼は、貴重なように思う。見下ろされると怖いのに、上を向く瞳は幼さをまとうせいで、不可思議な感覚が胸に生まれる。
 
『……何か?』
『……いえ、なんでも、ないです』
 
 私にこのを頼んでくるということは、つまり、普段は眠れていないんですよね?
 
 その問いは、胸にしまっておく。
 肯定されたとしても、毎日共に眠ってあげることは不可能だ。
 
 ハオロンのゲームを断れないのもあるけれど、そこまで彼に付き合うのは……気持ち的に、引っかかりを覚える。精神的に疲れるからというよりも、小さな抵抗。
 ——そんな仲じゃない。
 
 すべてをなかったことにすると決めたけれど、だからといって親しみはない。
 セトを追い出そうとしているサクラの本心も理解できていない。
 ——このひとは、私を利用しているだけであって、思い入れはない。
 それを心にとどめておかなくてはいけない。
 
『……おやすみなさい』
 
 すべり込んだシーツのはざまで、そっと唱えてから背を向ける。
 広いベッドは二人並んでも狭くはない。でも、なるべく端に寄り、サクラと反対側を向いて目を閉じる。毎度のこと。
 
『——おやすみ』
 
 返ってくる音が穏やかなのは、言語のせい。
 ほのかに薫る、清らかな花に似たこうの匂いが、意識を眠りに沈めていった。
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