【完結】致死量の愛と泡沫に

藤香いつき

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Chap.3 My Little Mermaid

Chap.3 Sec.4

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 護身用にセトから渡されたバトン。警棒みたいにシンプルなそれは、表面を指先でなぞると長く伸びる。
 最長でどこまで伸びるのだろう。試しに伸ばしてみると、室内ぎりぎりまで。細くなった先端は壁から壁の限界をこえてまだ伸びそうだったので、最長を知ることは諦めた。
 適切なサイズに戻して、非常時を想定し振ってみる。先端に電流を流すモードはバチバチと火花が飛び、見るだけでも身がすくむ。この状態で相手を突いたりたたいたり……どれくらいのダメージになるのか。想像できない。
 
(セトはそろそろ着くころかな……)
 
 待機中の室内で練習していると、バトンを持つのとは反対の腕に振動を覚えた。オフにした覚えはなかったのだが、ハウスを出てから自動でオフラインになっていたブレス端末。小さなライトが光って、許可なく音声が流れる。
 
《——アリスさん!》

 一瞬、誰だったかと考えてしまったのは、声の印象だろうか。それとも発音だろうか。ミヅキの声は共通語ではなく、私の母国語で流れた。彼がこの言語を遣うのは初めてのことだった。
 
『ミヅキくん? どうし……』
《助けて! ハウスのみんなが大変なんだ! アリスさんがいなくなったせいでイシャンが撃たれたんだよ! お願い、戻ってきて!》
 
 必死な声は珍しく危機迫っていて、伝えられた情報の緊急性を増した。
 イシャンが、撃たれた。
 ——私のせいで。
 
 身体が冷える感覚から、とっさに部屋を出ようとしたが、

——何があっても出るなよ? ロックしとくからな。

『……出られない。ロックされてるから……』
《それならボクが解除したから、急いで!》
『でも、セトが……』
『セトなら大丈夫。先に伝えたからハウスに向かってるはずだよ! アリスさんも、急いで戻ってきて! ——早く! 他のみんなまで攻撃されちゃうっ』
 
 せき立てる声に押され、頭で考えるよりも先に開かれたドアを通っていた。地上に出ると真っ赤な車両が待ち構えたように建物の前にあって、乗り込め——ということだろうと察して乗車した。
 宙に浮き上がった車両は滑り出し……
 
『? ……待って、ミヅキくん。ハウスは反対じゃ……?』
 
 車体は透過したように周囲のようすを映し出した。
 ここへ来るまでのルートに確信があるわけではないが、最初の広場を背に、来たときは目にしていない道を進み始めている。
 
『ミヅキくん、聞こえてる?』
《……聞こえてるよ。目的地はハウスじゃないんだ》
『え……?』
《すぐに着くから……心配しないで?》

——心配しないで、アリスさん。
 
 かけられた声に、ハウスから避難したときの記憶が——
 
(違う、ミヅキくんはこんな話し方なんてしない)
 
 ミヅキはAIだ。心はなく、非常時にこちらを焦らせるような、危機感をあおる声は出さない。ハウスから避難するときも、あくまで穏やかに、いたわりのある笑顔で誘導してくれた。非常時に淡々とした声になることはあっても……
 
『……止めて』
《なぁに?》
『車を止めて。戻って』
《その命令は……聞けないなぁ?》
 
 クスクスクス。忍び笑いが聞こえる。状況を把握したわけではないが、混乱のなか自分が犯したミスを理解して凍りつく。
 サリサリとした笑い声が、鼓膜をいた。

《——ボク、すぐに着くって言ったでしょ?》
 
 突如、車が停止した。
 慣性の法則に負けた上体がベルトに食い込み、前に流れた頭が、反動で戻り勢いよくヘッドレストにぶつかった。衝撃に息が止まる。
 動けずにいると、ドアが開き車体が傾いて——勝手に外れたベルトから、身体が解放されていた。
 
 ぶつかる——!
 とっさに出した手で頭を護り、振り落とされた身体に力を入れた。地面までの高さがなかったため、転倒する程度のダメージで済んだが……
 
 舗装された道にこすれた手が、熱く痛む。
 立ち上がらなければ——思うのに、続けざまで衝撃を受けた身体は力が入らず、かろうじて上体だけを無理やり起こした。
 周りを確認する。辺りに並ぶれたような黒の樹木。昼間だというのに薄暗いのは、空が何かで覆われているからか——見上げた先は屋根みたいなものが高く遠く広がっている。巨大なテントのように外界から隔離された地は、独特な匂いがした。傷がんだような、腐敗したような——崩れゆく生命の匂い。
 ぞわりと鳥肌が立った。
 
 腰横に着けていたバトンを取って伸ばし、それを頼りになんとか立ち上がる。
 よく見れば樹木は等間隔に並んでいて、さびれた並木通りに見える。赤い車はすでに立ち去っていた。
 建物は近未来的な素材なのにクラシックなデザイン。荒廃している。解放されたドアの奥はどこも暗くはっきりと見えないが、物はなく、がらんとしているように思う。
 
(戻らないと……)
 
 来た道は、記憶をたどれば曖昧あいまいながらも浮かんでくるので、戻れると思う。ただ距離が……どれほどになるのか。スピードはかなり出ていた。時間にして5分強。10キロ以上離れてしまっただろうか。セトが帰ってくるまでに戻れそうもない。

(——じゃなくて、先にセトに知らせたほうが)
 
 ブレス端末に触れてみるが、反応がない。車から落ちたときにぶつけたらしく、白っぽい金属はすり傷だらけになっていた。かろうじて電源はついているのか、小さなライトが明滅している。

 連絡は諦めて、とにかく戻ろうと足を動かした。
 地面に打った身体は歩き始めると痛みを感じたが、耐えられないほどではない。つえがわりのバトンのおかげで歩ける。本来の使い方ではないけれど……致し方ない。
 
 周りに気を配りながら、前へ前へと足を出して進んでいると、
 ——ふと、いやな音がした。
 
 ずる、ずる、ずる、
 れた何かを引きずるような、道をこする音。かすかな音は自分の呼吸音のせいで聞きのがしていたが、集中すると確かに聞こえる。見渡すかぎり、道には誰もいない。
 そうなると——建物の中。緊張の走る目で周囲のドアへと目を回していく。
 
 ……何かが、小さく光った。
 通り過ぎたはずの建物の入り口、かげになった暗がりから——ぎょろり、と。
 濁った目玉がふたつ、私に向いていた。
 
「ひっ——」
 
 悲鳴は、すぐに抑え込んだ。固まったまま見つめる先にいたのは、せこけた身体の人間だった。
 
 あぶらの抜けた枯れたような肌。頭髪は半分が抜け落ち、手は血が乾いて張り付いたように黒ずんでいる。片脚が途中の足首から半分ほど千切れていて、垂れる血をまとった足先をずるずると引きずりながら——私の方へ、と。確かに向かってこようとしている。
 
——お姫様、感染者は健全な者にかれるのです。
 
 頭に、いつだったか感染者について説明してくれたアリアの声が、
 
——なぜ惹かれるのかは明白になっていません。社会はそれを調べる時間も人員もありませんでしたから。……ただ、惹かれるといっても、彼らはその暴力性によって攻撃してきます。唾液にウィルスが含まれるので、み付かれたり傷口を舐められたりした場合は非常に危険です。検査で抗体があるから100パーセント感染しない——との保証にはなりませんので、感染者に近づくことのないよう、お願いします。
 
 脳に浮かぶ警告が、止まっていた足を動かした。
 感染者は病人。興奮させなければ、走ってくるなんてことは滅多にない、らしい。あと光にも弱いと聞いている。瞳孔どうこうがうまく機能しないから、日中の光はまぶしすぎて——だから室内の暗がりにいたのか——動きが鈍るらしい。
 
 刺激しないよう気をつけながら距離を取っていく。大丈夫、あっちは足を怪我している。まともに走れない。大丈夫。
 早鐘を打つ心臓をなだめるため、自分へと言い聞かせる。目は離せないが、確実に離れている。大丈夫。一人だけなら、仮に襲われたとしても倒せる。
 
 ひとり、だけなら…………
 
 ぞっとしたのは、離れたはずの感染者が暗がりに戻ることなく建物から出て来たせいではない。
 張り詰めた意識に届いた別の気配が——
 
 通りには、建物がいくつも並んでいる。
 それこそ果てしないほど、戻るための道すがらにはドアが——ぽっかりと口を開けている。
 
 行き先の長い道は、覆われた屋根のせいで薄暗く、十分な光量がない。気丈に保とうとしていた意志が……恐怖にむしばまれていく。
 
——じっとしてろよ、頼むから。
 
 震える頭に、セトの心配する声が聞こえた。もし、ここで私に何かあったら……後悔でセトがつらい思いをする。
 
(怯えてる場合じゃない。落ち着いて……なるべく音を立てずに、両側の建物から距離を取って中央を歩けば……)
 
 冷静に思考を回して、恐怖に囚われかけた自分を叱咤しったし、辺りに細心の注意を払う。
 戻る道は長くとも2時間。襲い掛かられることも想定して、戦うための余力を残しつつ早足で。
 
 ——大丈夫、やれる。
 今までにもっと怖いことはあった。これくらい乗り越えられる。

 前とは違う。
 今は、私のことを心から心配してくれるひとがいるから……絶対に、自分を投げ出したりしない。諦めたりしない。

 ぎゅっと強くバトンを握った。
 胸に宿る熱が、身体の震えを止めてくれる。
 
「……だいじょうぶ」
 
 彼らと同じ言語で小さく唱えた。
 戦う意志を奮い立たせるため、魔法をかけるように。
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