致死量の愛と泡沫に

藤香いつき

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Chap.5 The Bubble-Like Honeymoon

Chap.5 Sec.11

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 帰宅したのは、深夜近くだった。
 ユーグを倒したことでセトがトップになってしまい、称賛と祝いの無意な時間があった。
 
「——シャワー、先に使っていいか?」
 
 汗を早く流したい。
 浴室に向かいかけた足でセトが振り返ると、うつむいていたウサギの顔が上がった。帰り道はひどく静かで、今なお大人しい。
 
「……いっしょに、はいら……ない?」
 
 控えめに尋ねられ困惑したが、ウサギの表情は昨日よりも落ち着いている気がする。断っても泣きそうではない。
 
「いや……今日は、各自で……」
「………………」
 
 そっと眉が下がる。悲しそうな顔つきに、
 
(今までこんな顔に出てたか? 前はもっと……無表情っつぅかろう人形っつぅか。読めねぇ感じだったような……)
 
 困った顔や、静かに落ち込む顔。おびえる顔。あと、メルウィンの料理を口にしたときの美味しそうな顔。小さな笑顔。
 悲しみの表情は、あまり見たことがない。
 
 セトが、何か弁解しようと口を開けると、メッセージの着信が入った。知り合いではないらしい。デフォルメされたアバターは女だった。
 なんとなく察してメッセージは開かずに、
 
「じゃあ、先に使うな? すぐ出るから。お前もあとで入れるよう、風呂はめとくから」
 
 顔を見ることなく、浴室に繋がるドアへと向かった。反応を見てしまえば気持ちが揺らぐ。モルガンとの約束で、明日には別れるのだから……あと少し耐えきれば。
 
 浴室に入り、口頭で湯を溜める指示を出してから、区切られたシャワールームの方へ。
 頭上から掛けられる熱い湯に、目をつぶる。まぶたの裏に残るのは、ナイフの一閃いっせん
 肌をかすめた冷たい異物感を思い出す。身体の奥で、何かがくすぶっている。
 
 シャワーの流水によるノイズに、メッセージの着信がぶつかる。さっきとは違う相手らしい。
 開いたメッセージは、個人的に会いたいという誘い文句だった。1件目も確認したが、言い回しが変わるだけで内容は同じ。
 
 目立つと、寄ってくる。昔から変わらない。
 
 現アトランティスの住民は、確認したところ300人もいた。全住民が互いに顔見知りというわけでもなく、のあとに、何度か他のコミュニティが丸ごと加わっている。データを漁ったが、ウサギとおぼしき者は今までにも所属していない。
 今回の加入でデータに加えられ、セトのパートナーというのは大々的に知らされているらしいが、
 
——あぁ、手を出すなって、全住民に通達してあるけどなぁ……セトは自由だろ?
 
 試合後に寄ってきた人間を見て、モルガンは笑っていた。
 セトを永遠に働かせたい。だから、ウサギの代わりをてがおうとしている。
 無事にウサギを帰せたら、ある程度のを済ませて出て行ってやる——というセトの胸のうちを、モルガンは推測している。
 
 シャワーを止めて、目を開ける。鏡に映るが目についた。目許の傷が、湯を浴びたせいで開いたのか……血がにじんでいる。
 
(……思ったより深いな)
 
 真っ先に治療を訴えてきたウサギに、「大したことねぇよ」と返したが、ひどく心配されていた理由が分かった。
 滲んだ血はれた肌のしずくに混じり、皮膚の上を流れていく。かすかに熱を帯びた痛みが、意識に上がる。ピリピリとした不快感。
 ナイフがあと1センチ長ければ、眼をやられていた蓋然性がいぜんせいが高い。

——逃げないでくれません?
——闘え。
 
 ユーグの殺意と、外野のあおり声。
 うるさい音の波が鼓膜に張り付いている。
 
「………………」
 
 シャワールームに、メッセージの着信が、またひとつ響いた。
 今夜 会わないかと、知らない女の声が誘う。
 
 吐き出してしまいたい。
 いら立ちも不快感も、ぶつけて発散できるなら、誰でも——
 
 
——わらうかお、はじめて。
 
 
 耳に残るやかましいざわめきは、ふわりとした声に止められた。
 見上げる穏やかな瞳。黒い双眸そうぼう。ほころぶ顔で、優しく笑う目に、
 傷の痛みが——紛れる。
 
——恋だよ。
 
 うっかりティアの揶揄やゆする声まで聞こえた。せっかく落ち着いた気持ちが、少しむかつく。
 
 いろいろあきれながら、身体を洗ってシャワールームから出ようとした、ところに、

「……うぉっ!?」
 
 振り返った先にいたのは、頭に浮かんでいた人物。
 完全に油断していたセトの口から、驚愕きょうがくの声が出ていた。
 
「ど……どうした?」
「………………」
 
 シャワールームの透明のドアがスライドして、隔たりがなくなる。
(こっち裸だぞ。遠慮ねぇなっ?)
 あわてるセトが目線を下げれば、しれっと彼女も裸だった。長い髪で隠れていたのと、水滴でくもったドアのせいで、気づくのが遅れ——
 
 重なった視線の先で、見上げる瞳が、冬の星空のように。
 とらわれているうちに、彼女の身体がセトに抱きついていた。
 
「——はっ?」

 柔らかな肌が、濡れた肌に吸いつく。
 皮膚をこすなめらかな感触が、ぞくりと——
 
「おいださないでっ……」
 
 かすれた声が、シャワールームに響いた。
 触れ合う肌に意識を捕られていて、1秒遅れに反応した。
 
「は、なに言って……?」
「〈がくしゅう〉は、もっと、がんばるから……セトの〈じゃま〉も、しないから……ここに、おいてほしい」
 
 見上げる顔が、くしゃりとゆがみ、
 
「……いっしょに、いさせてほしいっ……」
 
 眼を覆った涙が、あふれるようにこぼれ落ちた。
 セトは戸惑いからウサギの肩を押さえて離そうとしたが、離れようとしない。よりいっそう強く抱きついてくるせいで、あいだの胸が、ふにゅりと柔ら
 
(——じゃねぇ!)
 
 欲望を振り払って口を開いた。

「まて、なんか誤解してるだろっ? 追い出すって言い方は語弊あるぞ? ハウスに帰るってことは、お前が気にしてたハウスのことも確認できるわけで——」
「どこにもいきたくないっ……セトのそばにいたい……」
「いや、はっ、え?」

(ハウスに帰れるんだぞ? そしたら俺が居なくても、)
 
 その主張が口から出る前に、涙を含んだ唇が、
 
「——セトが、すき」
 
 はっきりと、確かに鼓膜を揺らした。
 
「はなれると、さびしい。そばに、いたい。すきだから……なんでもするから、いっしょにいてほしいっ……」
 
 ぽろぽろと零れていく涙と、言葉の意味が、ようやく頭に伝わる。
 困惑に寄せられていたセトの眉に、ぐっと力が入った。
 
「——それ、ほんとに分かって言ってるか?」
 
 セトの鋭い表情に怯えることなく、「はい」と。彼女の瞳は真摯しんしに返されている。
 
「……軽い気持ちで言ってるとしても、俺は本気でとるぞ」

 その声は、脅すように低く響いた。
 行き場なく宙にあったセトの手が、彼女の顎をすくい上げて、親指で唇をなぞる。
 
 シャワールーム。濡れた肌。見上げる瞳。
 覚えのある状況は、初めて出会った日と似ている。
 踏み込めば——拒絶する。
 
 シャワーのスイッチは届くところにある。音声案内も、今の彼女なら使える。
 以前のように、シャワーの流水で拒絶することはできるはず。
 
 試すように顔を寄せたセトを、彼女は拒まなかった。
 
 重なる唇は、やわく、甘く。
 薄く開かれた唇を舌で割り入って、その先にある濡れた舌先を探し当てる。
 触れると、すがるように絡まった。アルコールの名残に、涙と血の味もした。
 
 くちづけは、柔らかな粘膜をむさぼり尽くすように深まるが、彼女に抵抗はない。
 セトに抱きついていた手の力が抜けて、身を任せきるような変化があった。
 
 たくましい腕が、彼女の背に回される。支えるように、捕らえるように。
 顎に掛けられていた指は首筋をすべり、髪をからめとったてのひらが頭を包み込んだ。
 熱くなる吐息と、舌に吸いつく濡れた音が、絶え間なく空間に満ちて反響している。
 
——止めるなら、今だからな。
 
 以前なら掛けていた言葉を、口にすべきか、どうか。
 ふと唇を離して目を合わせた顔は、熱っぽくとろりとして見上げていた。拒絶も怯えもない。この先を待ち望むような瞳に、確認の言葉は要らなかった。
 
 傍らの壁へと、彼女の身体を閉じめるように押し付けて腕をつき、残していた逃げ道をさらう。
 
 セトの唇が首筋に落ち、肩をわななかせた彼女の口から声がこぼれる。
 きつく吸いつく唇は、小さな痛みを残して離れた。肌にはキスの跡と、セトの傷から流れた血が滲んでいる。白い肌に残る両方の赤を、金の眼は細く捉えた。
 
「……セト、〈きず〉が……」

 広がる血に意識が向いたのか、彼女はセトの目許に手を伸ばしていた。
 傷のすぐ下に指先が触れると、金の眼が動いた。ぶつかった視線の奥に野性的な色をひらめかせて、み付くように唇を合わせる。
 壁を押さえていた腕が外れ、目許に触れた彼女の手首を掴むと、壁に拘束するように押さえ込んだ。
 手首に痛みは生じていない。
 その程度の理性はセトの頭にも残っていて、反射的に動いてしまったことを省みるように顔を離した。
 
 瞳を合わせる。様子を見るように間をもってから、
 
「……寝室、行くか?」

 問いかけると、彼女はパチリと目をまたたかせた。一瞬止まってから揺れた視線は、セトの眼と傷を往復している。
 治療を訴えたい気持ちで迷っているらしく、それ以外については考えが及んでいないようなので、
 
「嫌じゃねぇなら——ここでする。もう止めてもおせぇからな」
 
 軽い宣言に、少し遅れて理解した彼女が『えっ』と声をもらした。
 
「ち、ちりょうを……」
「明日する。朝か昼」
「……あした、あさ……ひるっ? い、いま……してほしい……」
「そんな暇ねぇよ」
 
 あわてる彼女の目じりに、セトは唇で触れた。涙の跡をぬぐうようにキスを重ねて、押さえ込んだままの手首に力を込め——けれども、優しく。
 
「そ、それなら……この、あとでっ……」
「無理だろ。寝室でもするしな」

 何か言いかけた彼女の唇は、セトの唇で素早く塞がれていた。
 
 交わる舌先と、合わさる体温。
 シャワールームに籠もる濡れた音は、今しばらく消えそうになかった。
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