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卒業
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卒業式の朝だった。
校舎は騒がしいはずなのに、菊杜朱音の耳には、どこか遠い音のようにしか届かなかった。
同級生たちはスマホを掲げ、動画を撮り、誰かが叫び、誰かが泣いている。終わりを惜しむ声と、始まりを祝う声が入り混じっていた。
けれど朱音には、その熱が自分のもののようには思えない。ただ卒業するだけだった。
式は滞りなく終わり、帰りのバスに乗る。
座席はまばらで、朱音は窓際に腰を下ろした。
街並みが途切れ、乾いた田圃が広がる。枯れ草の残る区画がところどころにある。
やがて山に囲まれた集落に入った。
村の停留所で降りた。
「朱音」
驚いて振り返ると、同級生の櫻井慶が立っていた。
毎日同じバスに乗っていたはずなのに、まともに話すのは久しぶりだった。
「……どうしたの?」
「好きだ」
首筋に夏の日焼けの名残がある。
「試しに、付き合ってくれねぇか? 今日だけでもいい」
息が、止まった。
「いきなりで驚くよな」
櫻井は肩をすくめた。
「けど……ずっと好きだった」
断る言葉がすぐに見つからない。
朱音は小さく、「今日だけなら……」と答えていた。
「今日の祭り、行くよな?」
「……うん」
「屋台、一緒に回ろう。夕方に公民館で集合な」
決まったことのように言って、終わった。
公民館では卒業の挨拶を済ませた。
母に言われた言葉が、ふと頭をよぎる。
——卒業したんだから、ちゃんとご挨拶しておきなさい。会長さんにも、駐在さんにも、近所の人にもね。
外に出ると、櫻井が待っていた。
「行列ができてたから、先に買っといた」
差し出されたのは、りんご飴だった。
受け取って、つぶやく。
「ありがとう」
赤が、夕暮れの光を受けて艶やかだった。
屋台をいくつか回り、射的に立ち寄る。
「それ、いけそうだな」
言われた場所を狙うと、景品棚から古いストラップが落ちた。
「取れた」
思わず声が弾む。
櫻井が小さく笑った。
神社の境内へ向かう。
社殿の手前に木箱が置かれ、子どもたちが紙を折って入れている。
「消しゴム、見つかりますように」
そんな声が聞こえる。
「願い紙、書いたか?」
櫻井が顎で示す。
「ううん。返ってきてほしい物なんて、とくにないし」
「……そっか」
「櫻井くんちが、やるんだよね?」
「ああ。日を跨いだら、まとめて奥に持ってく」
言いながら、櫻井の視線が社殿の脇へ流れた。
「櫻井くんは、お祭り、手伝わなくていいの?」
「昼のうちに済ませた」
桜の木の下で甘酒を受け取った。
花はまだ咲いていない。枝先の蕾は固いままだ。
朱音は射的で取ったストラップを掲げた。
手毬を思わせる、古めかしい花鈴。
「赤い菊だな」
櫻井が言う。
そう言われると、たしかにそう見えた。
「朱音のお守りだ」
家の鍵につけてみる。
チリン、と小さな音が鳴った。
風が抜ける。
朱音が肩をすくめると、櫻井は何も言わずに上着を脱いだ。
上着の重さが、肩に落ちてきた。
息が詰まった。
周囲には知っている顔ばかりだ。何人かと目が合い、慌てて視線をそらした。
「春休みの間に、返してくれればいい」
そう言われて、朱音は小さく頷いた。
少し大きい。袖が指先まで隠れる。
櫻井は目を伏せ、口元を緩める。
すぐに何事もなかったような顔に戻った。
家に帰るころには、祭りの音はもう聞こえなかった。
部屋で上着を畳む。
机に置いたまま、少しだけ動けなかった。
返す約束は、した。
そのとき、スマホが震えた。
《待ち合わせ、変更なしでいい?》
画面を見て、一瞬だけ指を止める。
《大丈夫》
短く返して、スマホを伏せた。
押し入れを開ける。
用意してあったキャリーケースを引き出した。
ここに残る気は、もうなかった。
家を出た。
夜はすっかり深くなっていた。
戸を閉め、鍵を回す。
チリン、と小さな音が鳴る。
朱音は、その鍵を植木鉢の下に置いた。
鈴がついたままの、家の鍵を。
振り返らずに歩き出す。
昼間は見慣れた道なのに、足音がやけに浮いている。
「朱音」
背後から声がした。
昼間と同じ声だった。
「ジャケット。
返してくれる約束、したろ」
朱音は振り返ろうとした。
次の瞬間、後頭部に硬い衝撃が走る。
視界が傾く。
膝が抜ける。
地面に倒れ込む前に、腕が回った。
体が持ち上げられる。
規則正しい足音。
段を踏む感触。
石の冷たさが、背に伝わる。
支えが外れる。
落ちる。
冷たい衝撃。
ひとつ、深い水音が闇に沈んだ。
校舎は騒がしいはずなのに、菊杜朱音の耳には、どこか遠い音のようにしか届かなかった。
同級生たちはスマホを掲げ、動画を撮り、誰かが叫び、誰かが泣いている。終わりを惜しむ声と、始まりを祝う声が入り混じっていた。
けれど朱音には、その熱が自分のもののようには思えない。ただ卒業するだけだった。
式は滞りなく終わり、帰りのバスに乗る。
座席はまばらで、朱音は窓際に腰を下ろした。
街並みが途切れ、乾いた田圃が広がる。枯れ草の残る区画がところどころにある。
やがて山に囲まれた集落に入った。
村の停留所で降りた。
「朱音」
驚いて振り返ると、同級生の櫻井慶が立っていた。
毎日同じバスに乗っていたはずなのに、まともに話すのは久しぶりだった。
「……どうしたの?」
「好きだ」
首筋に夏の日焼けの名残がある。
「試しに、付き合ってくれねぇか? 今日だけでもいい」
息が、止まった。
「いきなりで驚くよな」
櫻井は肩をすくめた。
「けど……ずっと好きだった」
断る言葉がすぐに見つからない。
朱音は小さく、「今日だけなら……」と答えていた。
「今日の祭り、行くよな?」
「……うん」
「屋台、一緒に回ろう。夕方に公民館で集合な」
決まったことのように言って、終わった。
公民館では卒業の挨拶を済ませた。
母に言われた言葉が、ふと頭をよぎる。
——卒業したんだから、ちゃんとご挨拶しておきなさい。会長さんにも、駐在さんにも、近所の人にもね。
外に出ると、櫻井が待っていた。
「行列ができてたから、先に買っといた」
差し出されたのは、りんご飴だった。
受け取って、つぶやく。
「ありがとう」
赤が、夕暮れの光を受けて艶やかだった。
屋台をいくつか回り、射的に立ち寄る。
「それ、いけそうだな」
言われた場所を狙うと、景品棚から古いストラップが落ちた。
「取れた」
思わず声が弾む。
櫻井が小さく笑った。
神社の境内へ向かう。
社殿の手前に木箱が置かれ、子どもたちが紙を折って入れている。
「消しゴム、見つかりますように」
そんな声が聞こえる。
「願い紙、書いたか?」
櫻井が顎で示す。
「ううん。返ってきてほしい物なんて、とくにないし」
「……そっか」
「櫻井くんちが、やるんだよね?」
「ああ。日を跨いだら、まとめて奥に持ってく」
言いながら、櫻井の視線が社殿の脇へ流れた。
「櫻井くんは、お祭り、手伝わなくていいの?」
「昼のうちに済ませた」
桜の木の下で甘酒を受け取った。
花はまだ咲いていない。枝先の蕾は固いままだ。
朱音は射的で取ったストラップを掲げた。
手毬を思わせる、古めかしい花鈴。
「赤い菊だな」
櫻井が言う。
そう言われると、たしかにそう見えた。
「朱音のお守りだ」
家の鍵につけてみる。
チリン、と小さな音が鳴った。
風が抜ける。
朱音が肩をすくめると、櫻井は何も言わずに上着を脱いだ。
上着の重さが、肩に落ちてきた。
息が詰まった。
周囲には知っている顔ばかりだ。何人かと目が合い、慌てて視線をそらした。
「春休みの間に、返してくれればいい」
そう言われて、朱音は小さく頷いた。
少し大きい。袖が指先まで隠れる。
櫻井は目を伏せ、口元を緩める。
すぐに何事もなかったような顔に戻った。
家に帰るころには、祭りの音はもう聞こえなかった。
部屋で上着を畳む。
机に置いたまま、少しだけ動けなかった。
返す約束は、した。
そのとき、スマホが震えた。
《待ち合わせ、変更なしでいい?》
画面を見て、一瞬だけ指を止める。
《大丈夫》
短く返して、スマホを伏せた。
押し入れを開ける。
用意してあったキャリーケースを引き出した。
ここに残る気は、もうなかった。
家を出た。
夜はすっかり深くなっていた。
戸を閉め、鍵を回す。
チリン、と小さな音が鳴る。
朱音は、その鍵を植木鉢の下に置いた。
鈴がついたままの、家の鍵を。
振り返らずに歩き出す。
昼間は見慣れた道なのに、足音がやけに浮いている。
「朱音」
背後から声がした。
昼間と同じ声だった。
「ジャケット。
返してくれる約束、したろ」
朱音は振り返ろうとした。
次の瞬間、後頭部に硬い衝撃が走る。
視界が傾く。
膝が抜ける。
地面に倒れ込む前に、腕が回った。
体が持ち上げられる。
規則正しい足音。
段を踏む感触。
石の冷たさが、背に伝わる。
支えが外れる。
落ちる。
冷たい衝撃。
ひとつ、深い水音が闇に沈んだ。
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