深淵のバラッド —あやかし捜査官 朝美楪の怪異事件ファイル—

藤香いつき

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File.01 闇色の秘密

赤い闇の世界で

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 彼に触れた指先から、赤い闇があふれた。それは刹那に全てを覆い尽くし、私の世界を塗り潰した。
 
 血の霧が漂うように、重たく濁った大気が辺りを満たしている。腐食した鉄と、生臭い肉の匂いが鼻を突く。赤黒い闇の中で光はねじれ、遠くの輪郭は滲み、溶け崩れていた。
 正常な世界から隔絶されたような異空間で立ちくらんでいると、先ほどまで何もなかった部屋が——突如、確かな形を取り戻したように存在を顕示した。
 
——信じられない、夢のようだ。
 
 男の声が聞こえて、私は室内を改めた。
 広く無人だった部屋には二人の人間が立っていた。若い男女が、恋人のような距離感で見つめ合っている。眼鏡を掛けた男の指がそっと女の髪に触れると、彼女は受け入れるように瞳を閉じた。男の顔が応えるように近寄って、くちづけを——。
 甘い恋人のむつみ合い。経験のない私は、恋愛ドラマでも同じシーンを目にしたら頬を染めて恥じらうところだが、今ばかりは身の毛のよだつ思いで息を詰めていた。
 甘やかな行為と相反して、男の足許あしもとには灰白色かいはくしょくの人影たちが呪うようにまとわっていた。
 
——こわい、いたい、たすけて。
 
 人影の境界は溶けている。しかし、注視すると四人いた。一人は顔がねじれ、一人は両手がもげ……個々の影は歪み崩れているが、たしかに四つの影があった。女の足下から生えたかのように、それらは床に這いつくばった姿で男の脚にすがり、金属のれるような細い声をあげている。
 男はまるで察していないのか、目の前の女に夢中だった。壊れ物に触れるよう慎重に女の肌をで、感触を味わい、男は顔に歓喜の笑みを広げた。その顔は狂気がにじんでいて、笑みというよりも何かに取りかれたようないびつさがあった。男が笑うたび頬の筋肉が不自然に痙攣けいれんし、見ているだけで背筋が凍る。
 男の狂った笑みの裏には、常識や理性などとうに捨て去った、正気の通じぬ世界が広がっていた。
 
——きみは、僕の理想どおり、完璧な女性だ。愛しているよ。
 
 男の口が、偏執的な想いをこぼした。
 向かい合う女は微笑みを崩さない。男の狂気じみた笑い顔にも、人形のように完成された淡い笑みを返していた。女は微笑みを微動だにせず、腕を広げて甘えるみたいに男の首裏へと手を回し、
 
 ゴギッ、と。
 耳に嫌な音が鳴った。
 
 音に身をすくませた私の目の先で、男の首に女の細い指先が食い込んでいた。恍惚こうこつとしていた男の顔は一変し、目をいた悪魔の形相で、断末魔をあげることなく息絶えていた。命を終えた身体が、手を離した女の目前を崩れ落ちていく。
 
——こわい、いたい、たすけて、かえして。
 
 足許の人影たちが、さざめきながら男の肉体に絡まっていく。耳の奥を這う細声に、女の声が重なった。
 
——ゆるさナイ。ゼッタイにゆるさなイイイイィ。
 
 壊れた、オルゴール人形のようだった。
 女の声は金属を擦るような悲鳴となって私の鼓膜を引き裂き、赤黒い闇の隅々まで突き刺さった。つたない言葉を乗せた金切り声の余韻が消えないうちに、女は固まった笑顔で私を振り返る。ドクンっと跳ねた心臓に、私は逃げようとしたが——足が、動かない。
 男の肉体に絡まっていたはずの人影たちは、いつのまにか離れて私の足にり寄っていた。
 
——たすけて、たすけて、たすけて。
 
 触れようとするたび、見えない膜に阻まれるように弾かれ、うめきながら揺らめいている。
 私の足は動こうと思えば動けるはずだ。でも、足蹴あしげにして逃げ出すことができない。
 彼女らは、私に訴えていた。
 
——たすけて、たすけて、たすけて。
 
 懸命な囁き声は、段々ときしむように変質していく。
 
——たすけて、たすけて、ゆるさない、ゆるさナイ。
 
 悲痛なさざめきの声は、いつしか奥に不気味な怨念の渦が生まれ、私の意思に染み込んでいく。
 
——ゆるさない。
 
 ハッとしたときには遅く。
 気づけば視界のすべてが、女の顔に埋め尽くされていた。
 それは笑顔の形をした何かだった。頬はひずみ、唇の端は不自然に吊り上がり、目は空洞のように感情を宿していない。
 生きものの顔ではない。
 
——お姉ちゃん。
 
 女の肩から垂れた長い髪に、妹の面影が重なってしまう。
 震える足は、もう、逃げられない。
 微笑んだまま近づく女の手を、私は目を閉じて覚悟し——
 
 誰かが、私の肩を強く掴んだ。
 呼び声もあった。遠くの漠然とした声が誰のものか考えていると、さまよう意識を水底から引き上げられるように、突如として私は目をました。
 
 私の視界には、金と黒の色違いの虹彩があった。
 
「あ……捜査官さん……?」
 
 掴まれた私の肩は廊下側に引かれ、背の高い彼が横から私の顔を覗き込んでいた。焦りの見える彼の瞳を、夢が醒めたような心地で見返す。
 私は部屋の境目に立っていた。微笑みの女は跡形もなく、足許の人影や辺りの赤い闇さえも消え失せていた。
 
「私、いま……」
 
 恐ろしい白昼夢を、見たような。
 冷えきっていた手足に満ちる現実感を確かめるように、私は胸の前で両の拳を握りしめる。体に異変はない。いま見たものは、なんだったのか。不可解な現象を消化できず、茫然ぼうぜんとして彼の瞳を見つめていた。
 向かいの双眸そうぼうは、緊張を解いて私に尋ねた。
 
「お前、俺に同調した?」
「……どうちょう?」
「あ~、なんつぅの? シンクロ、共振、共鳴……あ、俺に?」
「重なる……?」

 私が首をかしげると、彼も眉間を狭めて首をかしげた。他人の家の廊下で、よく知らぬ相手と鏡合わせに頭を傾ける姿は滑稽こっけいな気がする。
 彼も似たようなことを思ったらしく、肩をすくめて吐息を鳴らした。
 
「ま、いっか。は分かった。戻ろ」
 
 くるっと回る彼の身体に、手錠の鎖が引かれる。(私はいつまで繋がれていないといけないのだ)不満をいだきかけて、自分が一緒にいることを願ったのだと思い出した。
 
「あのっ……警視庁に行くなら、手錠はもう外してもらっても……!」
 
 繋がった状態で階段を下りるのは危ない。しかし、申し入れは例のごとく届いていなかったので、階段を足早に下りていく彼のスピードに合わせられず、私は段差を踏み外した。
 
「わっ」
 
 前のめりになった私の身体は、振り向きざまの彼にあっさりと片手で受け止められた。背中にも目があるみたいな反応速度だった。
 私が転びかけたことなんて大したことではないらしく、彼は事もなげに「警視庁は行かねぇけど?」数秒遅れで会話を成立させる。私は彼の腕にしがみついてしまっていた身を起こした。
 
「えっ……あ、もしかして検察のほうですか?」
「検察~? お前、俺の自己紹介、ちゃんと聞いてなかったな?」

 いや、聞いてた。捜査官であると、きちんと聞いていたから警視庁と検察を挙げたのだ。
 階段の差で近くに並んだ金の眼に、私は疑問の目を投げかける。ならば、どこへ行くのか。無言の問いを受けた彼は、唇を自嘲じみた薄い笑みの形にした。
 
「特異事件捜査室」

 トクイジケンソウサシツ。絡みつく声が呪文を奏でる。脳裏で復唱する私は意味を拾いきれず、曲がる唇をきょとりと見つめた。
 頭上の窓から降りそそぐ陽光が、赤銅色の髪を明るく染める。
 笑う唇とは裏腹に、金の眼は冷ややかに輝いていた。
 
 
 
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