9 / 73
File.01 闇色の秘密
なくしもの
しおりを挟む
與のそれは唐突だった。
「なぁ、あいつ遅くねぇ?」
ふいに気づいたような問いは、菫連木からの小言に辟易して閃いたものだった。珈琲を飲み干して空いた與の口が、自然と菫連木の気を逸らそうとしていた。
投げられた問いを受けて、菫連木が苦笑いする。
「緋乃縁さんが遅いのは、毎度さんだろ?」
「そっちじゃねぇって。俺が言ってんのは女のほう。朝美 楪。……あいつ、逃げたんじゃね~?」
「あのな、ただの市民が逃げるはずないだろう? 警察から逃げるのは、心にやましいことがある人間だけだ」
與の視線は、菫連木を越えてドアに向いている。探るような與の目に、菫連木は笑いながら湯呑みを手で包んだ。
「女性ってのは、化粧直しやらなんやら、時間が掛かるものなんさ」
「………………」
無言の與。菫連木が茶をすする。
「おっと? 今のはセクハラになるんかな……?」
菫連木の独り言を無視して、與は腰を上げていた。
ドアへと歩いていく與に、菫連木が多少の困惑を見せる。引き止めようとした菫連木は、磨りガラスのドアに映った人影に気づいた。
「あっ、ほらな? ちゃんと戻って……」
すらりとした長い人影。菫連木が引っ掛かりを覚えたときには、スライドドアが開いて向こうの正体が判明していた。
「出迎えとは仰々しいのぅ?」
時代がかった口調でうっすらと笑む。背の高い影は期待した彼女ではなく、黒髪の青年だった。
対面した與が小さく舌打ちして、その名を口にする。
「緋乃縁」
妖艶な笑みを見せる青年——緋乃縁 椿は、與の鋭い目を受けても鷹揚としていた。
「ほう、鬼まじりは何やら不機嫌じゃのぅ……寝不足かえ?」
「昨日の雑務を押し付けられて、寝る隙がなかったんだわ。うちの年寄りは役に立たねぇからな~?」
二人の間でパチリと弾ける火花が見えた。菫連木が席を立って間に入る。
「おはよう、緋乃縁さん。早速で悪いんだけど、例の気になる子を見てもらえますか。今に戻ってくるから……」
場を取り繕おうと明るく声を張る菫連木に、緋乃縁は目を移した。
「例の子?」
「電話で説明した子ですよ。適性があるならスカウトしたいと思ってまして、ここの捜査官に——」
菫連木の発言に反応したのは、與だった。
「はあっ? 捜査官?」
與の眉が上がる。菫連木はきょとりとした。
「なんで與さんが驚くんだ?」
「あの女、捜査官にするつもりで呼んだのか?」
「そりゃそうだろ? 他にどんな理由があるって言うんだい?」
「………………」
黙りこくった與に、菫連木が首をひねる。(何も考えずに彼女を連れてきたんだろうか。やはり睡眠が足りていないんだろうか)などと案じている。
與と菫連木の会話を興味なげに聞いていた緋乃縁が、「あぁ」思いついたように声をこぼした。
「その娘ならば、今しがた見かけたのぅ」
「ん? 緋乃縁さん、朝美さんと会ったんですか?」
「ひとつ括りにした、長い髪のお嬢さんじゃろう?」
「おぉ、そうそう、その子だ。與さんの眼にも気づいたんですよ。捜査官にどうだろ? 與さんのサポートに」
「なるほどのぅ……護りの影も居ることじゃ、適性はあるやも知れん」
「まもりのカゲ……ってのは?」
菫連木の復唱には応えず、緋乃縁は、ひやりと冷たい視線を與に流した。
「しかし、あの娘の帯同は、鬼まじりには苦行ではないかえ? 飢えれば喰らいたくなる——じゃろう?」
笑みはなかった。緋乃縁は能面のような顔で指摘しただけだった。
しかし、挑発と捉えた與の目は鋭く光った。
「あぁ?」
「ちょっ、與さん落ち着……」
焦った菫連木が與の肩を押さえようとした。その手を払い、與は浅く唇端を歪める。
「誰が誰を喰うって? ……あんたに言われたくねぇなあ? そのへんの女を見境なく食い散らかしてきた、あんたにだけは」
声には嘲りが滲んでいた。
緋乃縁は幼子を見下ろすように、ゆうるりと笑い返した。
「屠った数で語るならば、おぬしには敵わんよ——」
與が怒り狂うことを、菫連木は予想して、二人のあいだに割り込んでいた。
ただ、その予想は大きく外れる。手を出すかと思えた與は動くことなく、怒りを抑え込むようすもなく——無の反応だった。静的な瞳はどこか虚で、伏せるように長く、一度だけ閉じられて開かれた。
神妙な沈黙が降りる。菫連木が何か言おうとしたが、緋乃縁が先に言葉を発した。会話の流れも空気も忘れたように、とぼけた声色で。
「はてさて、この鼎談に意味はあるのじゃろうか? くだんの娘は、エレベータに乗って逃げていったが?」
「……へ?」
抜けた声の菫連木とは違い、與の理解は早かった。(ほら見ろ、逃げた)訴えの声は出さなかったが、
「なんで外部のヤツがエレベータを使えんだ? カードキーもねぇだろ……」
話の途中で、與の推理力が流星のように冴え返る。推理力というよりは経験則か。
「緋乃縁、警察手帳は?」
「……はて、見当たらんのぅ?」
與が捜査室を飛び出したのと、菫連木がこめかみを押さえて唸ったのは、同時だった。
「緋乃縁さん……ストラップ、また千切ったの? 警察手帳はもう絶対に落とさないって、約束しましたよね?」
「ふむ。じゃからの、日頃から大切に内ポケットへと仕舞っておるよ」
「いやいや、ならどうして無いのよ」
「エレベータで使ったあと、仕舞う前にあの娘とぶつかって、転んでしまったからのぅ……」
「あなたが人とぶつかったくらいで転びますか」
菫連木は、気の遠くなるような思いで立っていた。
警察手帳の遺失はただでさえ大問題なのに……緋乃縁が手帳をなくすのは、これで二度目だった。
「なぁ、あいつ遅くねぇ?」
ふいに気づいたような問いは、菫連木からの小言に辟易して閃いたものだった。珈琲を飲み干して空いた與の口が、自然と菫連木の気を逸らそうとしていた。
投げられた問いを受けて、菫連木が苦笑いする。
「緋乃縁さんが遅いのは、毎度さんだろ?」
「そっちじゃねぇって。俺が言ってんのは女のほう。朝美 楪。……あいつ、逃げたんじゃね~?」
「あのな、ただの市民が逃げるはずないだろう? 警察から逃げるのは、心にやましいことがある人間だけだ」
與の視線は、菫連木を越えてドアに向いている。探るような與の目に、菫連木は笑いながら湯呑みを手で包んだ。
「女性ってのは、化粧直しやらなんやら、時間が掛かるものなんさ」
「………………」
無言の與。菫連木が茶をすする。
「おっと? 今のはセクハラになるんかな……?」
菫連木の独り言を無視して、與は腰を上げていた。
ドアへと歩いていく與に、菫連木が多少の困惑を見せる。引き止めようとした菫連木は、磨りガラスのドアに映った人影に気づいた。
「あっ、ほらな? ちゃんと戻って……」
すらりとした長い人影。菫連木が引っ掛かりを覚えたときには、スライドドアが開いて向こうの正体が判明していた。
「出迎えとは仰々しいのぅ?」
時代がかった口調でうっすらと笑む。背の高い影は期待した彼女ではなく、黒髪の青年だった。
対面した與が小さく舌打ちして、その名を口にする。
「緋乃縁」
妖艶な笑みを見せる青年——緋乃縁 椿は、與の鋭い目を受けても鷹揚としていた。
「ほう、鬼まじりは何やら不機嫌じゃのぅ……寝不足かえ?」
「昨日の雑務を押し付けられて、寝る隙がなかったんだわ。うちの年寄りは役に立たねぇからな~?」
二人の間でパチリと弾ける火花が見えた。菫連木が席を立って間に入る。
「おはよう、緋乃縁さん。早速で悪いんだけど、例の気になる子を見てもらえますか。今に戻ってくるから……」
場を取り繕おうと明るく声を張る菫連木に、緋乃縁は目を移した。
「例の子?」
「電話で説明した子ですよ。適性があるならスカウトしたいと思ってまして、ここの捜査官に——」
菫連木の発言に反応したのは、與だった。
「はあっ? 捜査官?」
與の眉が上がる。菫連木はきょとりとした。
「なんで與さんが驚くんだ?」
「あの女、捜査官にするつもりで呼んだのか?」
「そりゃそうだろ? 他にどんな理由があるって言うんだい?」
「………………」
黙りこくった與に、菫連木が首をひねる。(何も考えずに彼女を連れてきたんだろうか。やはり睡眠が足りていないんだろうか)などと案じている。
與と菫連木の会話を興味なげに聞いていた緋乃縁が、「あぁ」思いついたように声をこぼした。
「その娘ならば、今しがた見かけたのぅ」
「ん? 緋乃縁さん、朝美さんと会ったんですか?」
「ひとつ括りにした、長い髪のお嬢さんじゃろう?」
「おぉ、そうそう、その子だ。與さんの眼にも気づいたんですよ。捜査官にどうだろ? 與さんのサポートに」
「なるほどのぅ……護りの影も居ることじゃ、適性はあるやも知れん」
「まもりのカゲ……ってのは?」
菫連木の復唱には応えず、緋乃縁は、ひやりと冷たい視線を與に流した。
「しかし、あの娘の帯同は、鬼まじりには苦行ではないかえ? 飢えれば喰らいたくなる——じゃろう?」
笑みはなかった。緋乃縁は能面のような顔で指摘しただけだった。
しかし、挑発と捉えた與の目は鋭く光った。
「あぁ?」
「ちょっ、與さん落ち着……」
焦った菫連木が與の肩を押さえようとした。その手を払い、與は浅く唇端を歪める。
「誰が誰を喰うって? ……あんたに言われたくねぇなあ? そのへんの女を見境なく食い散らかしてきた、あんたにだけは」
声には嘲りが滲んでいた。
緋乃縁は幼子を見下ろすように、ゆうるりと笑い返した。
「屠った数で語るならば、おぬしには敵わんよ——」
與が怒り狂うことを、菫連木は予想して、二人のあいだに割り込んでいた。
ただ、その予想は大きく外れる。手を出すかと思えた與は動くことなく、怒りを抑え込むようすもなく——無の反応だった。静的な瞳はどこか虚で、伏せるように長く、一度だけ閉じられて開かれた。
神妙な沈黙が降りる。菫連木が何か言おうとしたが、緋乃縁が先に言葉を発した。会話の流れも空気も忘れたように、とぼけた声色で。
「はてさて、この鼎談に意味はあるのじゃろうか? くだんの娘は、エレベータに乗って逃げていったが?」
「……へ?」
抜けた声の菫連木とは違い、與の理解は早かった。(ほら見ろ、逃げた)訴えの声は出さなかったが、
「なんで外部のヤツがエレベータを使えんだ? カードキーもねぇだろ……」
話の途中で、與の推理力が流星のように冴え返る。推理力というよりは経験則か。
「緋乃縁、警察手帳は?」
「……はて、見当たらんのぅ?」
與が捜査室を飛び出したのと、菫連木がこめかみを押さえて唸ったのは、同時だった。
「緋乃縁さん……ストラップ、また千切ったの? 警察手帳はもう絶対に落とさないって、約束しましたよね?」
「ふむ。じゃからの、日頃から大切に内ポケットへと仕舞っておるよ」
「いやいや、ならどうして無いのよ」
「エレベータで使ったあと、仕舞う前にあの娘とぶつかって、転んでしまったからのぅ……」
「あなたが人とぶつかったくらいで転びますか」
菫連木は、気の遠くなるような思いで立っていた。
警察手帳の遺失はただでさえ大問題なのに……緋乃縁が手帳をなくすのは、これで二度目だった。
83
あなたにおすすめの小説
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
なぜ、私に関係あるのかしら?
シエル
ファンタジー
「初めまして、アシュフォード公爵家一女、セシリア・アシュフォードと申します」
彼女は、つい先日までこの国の王太子殿下の婚約者だった。
そして今日、このトレヴァント辺境伯家へと嫁いできた。
「…レオンハルト・トレヴァントだ」
非道にも自らの実妹を長年にわたり虐げ、婚約者以外の男との不適切な関係を理由に、王太子妃に不適格とされ、貴族学院の卒業式で婚約破棄を宣告された。
そして、新たな婚約者として、その妹が王太子本人から指名されたのだった。
「私は君と夫婦になるつもりはないし、辺境伯夫人として扱うこともない」
この判断によって、どうなるかなども考えずに…
※ 中世ヨーロッパ風の世界観です。
※ ご都合主義ですので、ご了承下さい、
※ 画像はAIにて作成しております
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
裏切りの代償
中岡 始
キャラ文芸
かつて夫と共に立ち上げたベンチャー企業「ネクサスラボ」。奏は結婚を機に経営の第一線を退き、専業主婦として家庭を支えてきた。しかし、平穏だった生活は夫・尚紀の裏切りによって一変する。彼の部下であり不倫相手の優美が、会社を混乱に陥れつつあったのだ。
尚紀の冷たい態度と優美の挑発に苦しむ中、奏は再び経営者としての力を取り戻す決意をする。裏切りの証拠を集め、かつての仲間や信頼できる協力者たちと連携しながら、会社を立て直すための計画を進める奏。だが、それは尚紀と優美の野望を徹底的に打ち砕く覚悟でもあった。
取締役会での対決、揺れる社内外の信頼、そして壊れた夫婦の絆の果てに待つのは――。
自分の誇りと未来を取り戻すため、すべてを賭けて挑む奏の闘い。復讐の果てに見える新たな希望と、繊細な人間ドラマが交錯する物語がここに。
孤独な公女~私は死んだことにしてください
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
【私のことは、もう忘れて下さい】
メイドから生まれた公女、サフィニア・エストマン。
冷遇され続けた彼女に、突然婚約の命が下る。
相手は伯爵家の三男――それは、家から追い出すための婚約だった。
それでも彼に恋をした。
侍女であり幼馴染のヘスティアを連れて交流を重ねるうち、サフィニアは気づいてしまう。
婚約者の瞳が向いていたのは、自分では無かった。
自分さえ、いなくなれば2人は結ばれる。
だから彼女は、消えることを選んだ。
偽装死を遂げ、名も身分も捨てて旅に出た。
そしてサフィニアの新しい人生が幕を開ける――
※他サイトでも投稿中
【㊗️受賞!】神のミスで転生したけど、幼児化しちゃった!〜もふもふと一緒に、異世界ライフを楽しもう!〜
一ノ蔵(いちのくら)
ファンタジー
※第18回ファンタジー小説大賞にて、奨励賞を受賞しました!投票して頂いた皆様には、感謝申し上げますm(_ _)m
✩物語は、ゆっくり進みます。冒険より、日常に重きありの異世界ライフです。
【あらすじ】
神のミスにより、異世界転生が決まったミオ。調子に乗って、スキルを欲張り過ぎた結果、幼児化してしまった!
そんなハプニングがありつつも、ミオは、大好きな異世界で送る第二の人生に、希望いっぱい!
事故のお詫びに遣わされた、守護獣神のジョウとともに、ミオは異世界ライフを楽しみます!
カクヨム(吉野 ひな)にて、先行投稿しています。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる