深淵のバラッド —あやかし捜査官 朝美楪の怪異事件ファイル—

藤香いつき

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File.01 闇色の秘密

漆黒と緋の青年

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 変な事態に巻き込まれている。
 部屋を出た私は広い廊下を逃走していた。
 幽霊、怪異、お化け、妖怪。頭の中で彼らの会話を反芻はんすうしてみるが、出そろったワードはどれも不審だ。
 
——バケモノ殺し。
 
 どう考えても危ない。あんな発言をするひとからは速やかに離れるべきだ。そもそも手錠をいきなり掛けてくる捜査官なんて真っ当じゃない。
 建物から出るのを最優先で行動していた私は、ここまでの道のりを遡ろうとして……重大なことを思い出した。エレベータに入るとき、あたえ捜査官は身分証をかざしていた。エレベータ内にはフロア案内も放送もなく、私はこのフロアが何階か分かっていない。窓の外を見るに高層階なので飛び降りる選択肢はない。百歩譲って階段か。
 考え事に気を取られ、スピードを少し落とした私は、そのまま用心もなくエレベータ前の曲がり角を折れてしまった。人の気配を察した瞬間、視界いっぱいにベージュの影が迫り——避ける間もなく衝突した。
 
「わっ!」

 人にぶつかった。……人に、ぶつかった?
 疑問が浮かんだのは、違和感があったからだ。出会い頭に思いきり当たって——しかし、相手の身体はびくともしなかったのだ。
 屈強な男性かと思ったが、一瞬捉えた身体の線は細い。まるで石膏せっこう像に体当たりしたかのように、硬い胸板と当たった顔が、泣きそうなほど痛かった。
 
「すみません……」
 
 私は手で鼻頭を押さえ、涙目で衝突の相手を見返した。背が高い。與捜査官よりも低いのか、それでも平均より高い顔を見上げる。
 青白い肌に黒髪。ニュアンスパーマのような癖のあるミディアムヘアで、長い前髪に阻まれて目がよく見えないが、トレンチコートを着た骨格は明らかに男性だった。ただし筋肉質ということはない。ぶつかった感触とは打って変わって、外見は繊細な印象だった。
 その青年は私を認知した途端、なぜか急に……操り糸が切れた人形のように、ふらりと床へ崩れ落ちた。見上げたはずの青白い顔が、下方へ。
 
「痛い……痛いのぅ……」

 よぼよぼのおじいちゃんみたいな声が聞こえた。
 いや、声は若い。下から聞こえた声は二十代相当の男性だが、口調と話すテンポが空々しい年寄り感。不審だ。
 
「……大丈夫ですか」
 
 不自然なタイミングと優雅に倒れたせいで、疑いの目を向けてしまったが、ぶつかったのは私だ。駆けていた私に非がある。與捜査官たちのせいで疑心しかなかったため、人としての思いやりを捨てて逃走を優先するところだった。
 声を掛けて屈み、青年の様子を見る。うつむく顔は前髪が掛かるのもあって表情が分からない。痛みが強いのか、青年は胸を手で押さえている。
 と、そこまで観察していたが、私の意識は別のところに流れた。そばの床に、革のパスケースが。
 
(あれは……)
「——お嬢さんや、すまんが手を貸してくれんか? 私は身体が弱くての」
 
 はたりと意識を戻した。青年が助けを求める手を上げていた。
 
「あ、はい」
 
 立ち上がるのを手伝うべく手を取ったが、青年の身体は立つことなく。ぐっと力の掛かったてのひらは引かれて、私の身体も廊下に座りこんでいた。
 小さな悲鳴がこぼれる。すっぽりと青年の腕に包まれ、その冷たさに身が震えた。
 外でも歩いてきたのか。廊下の冷えた床と大差のない、死んだ身体のような冷たさに、皮膚が粟立った。
 
「おや? お嬢さんも身体が弱いかのぅ?」
 
 クツクツと喉で笑う振動が、身体越しに伝わってくる。
 立ち上がるための支えになるはずが、支えきれずに転倒した?

「すみません……」

 私は戸惑いに眉を寄せながらも、青年から離れようとした。
 だが、離れない。私の身を包む腕が、まだ絡みついたままだ。しかも、手も重なっている。
 そろそろ不信感をあらわにしてもいいだろうか。叫ぶ用意もしたいが、ここで叫ぶと、駆けつけてくるのは例の不審捜査官たちではないか。
 おじいちゃんぶる不審者と、どっちがマシか。悩む。
 目前の薄く整った唇が、ふうわりと笑った。
 
「ほう、これはまた奇異なお嬢さんじゃのぅ?」
 
 傾く顔に、長い前髪が流れる。濡羽ぬれば色の艶やかな黒の奥から、が。
 緋色の眼が、私をのぞいた。
 
(カラコン……?)
 
 赤い虹彩こうさいなど見たことがない。與捜査官の金眼は薄い茶色と言えなくもないが、この青年の色彩は生まれつきのものに思えない。それほどに異彩を放っている。
 隙間から見えた赤い眼に心を攫われていると、その眼は薄い月のように、微笑みでいっそう細まった。
 
まとう死のカゲがベールのようじゃ……人身御供ひとみごくうの花嫁か」
「えっ……と?」
斯様かよう処女おとめが鬼にわれるとは、忍びないのぅ……。私が頂いてしまおうか?」
 
 シルクをでるような心地の声が、鼓膜をやわらかく揺らした。

(なに言ってるんだ、このひと)

 声の響きと、言葉の意味不明さの相乗で、混乱する。
 青年は、私の頬に青白い掌を重ねようとした。
 ぎょっとして身を引くと、背に回っていた青年の腕が消えたのもあって、私は廊下に尻餅をついていた。
 く、く、く……と、井戸の底から響くような籠もった笑いが、青年の喉奥で鳴った。

「冗談じゃよ」
 
 持ち上げられていた青年の手は、私を追うことなく、彼自身の垂れた前髪を耳に掛けた。青白い顔の全貌がさらされる。
 ぞっとするほど端麗な顔立ちだった。微笑の唇や目じりは美しくもあやしい色香を漂わせ、なめらかな肌は陶器を思わせる。
 鮮やかな虹彩が闇夜で人を誘い込む花のようだ。青白い肌は不健康で、触れれば崩れそうなはかなさだというのに、微笑む唇と緋色の眼が底知れない威力を放っている。
 まるで——闇の魔物。
 
「……お嬢さんや」
 
 そっとささやくような声が、硬直していた私の意識をました。
 青年は立ち上がる。しなやかな指をそろえて私の方へと差し出し、紳士的に微笑した。
 
「お手を」
「あ、いえっ……大丈夫です」
 
 手を取らないのには理由があった。年寄りぶる青年が不審すぎるのも、もちろん理由のひとつだが、それよりも。
 取り戻した意識のなか一番に、私は指先に触れる革の感触にハッとしていた。
 後ろ手に回したを青年の目から隠し、愛想笑いを浮かべて横歩き。

「ぶつかってしまって、本当にすみません! いま急いでるので……!」
 
 私は青年の横を抜け、自分の体で目隠しをしながら、エレベータの認証リーダーへと拾い物をかざした。開いたドアに身体を滑り込ませる。後ろは振り向かず早足で。呼び止められませんように。
 
「いずこへ逃げても同じじゃろうに……」
 
 笑う青年のつぶやきは、聞こえなかった。
 
 
 
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