深淵のバラッド —あやかし捜査官 朝美楪の怪異事件ファイル—

藤香いつき

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File.01 闇色の秘密

本当のバケモノ

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 それは、一瞬の出来事だった。
 私を振り返ったあたえ捜査官の後ろで、女が笑った。唇の端が裂かれるように、頬の肉が引き攣るほど吊り上がった笑みが、狂気を象った瞬間——女の足許あしもとから灰白色かいはくしょくの影があふれ、與捜査官の四肢を床へといつけていた。
 私が驚愕きょうがくに息を詰めたときには、ぞっとするような、湿った音が鳴った。肉の内側で何かが潰れ、骨が擦れる音。ゴキ、ぐしゃりと音を立てて、與捜査官の首が不自然な角度にかしいだ。
 悲鳴をあげる間さえなかった。
 気づけば、世界は真っ赤に染まっていた。
 
 鋭い音が頭の内側を貫く。きぃん、と。金属が擦れ合うような、不快な高音が鼓膜を刺した。
 私が踏み込んだのは、ただのホテルの一室だった。少し暗いだけの、隣室とよく似た内装だった。確かにこの目で見たはずだ。
 なのに、この一瞬で室内は変容していた。周囲が遠のき、世界が閉ざされたかのような——いや、違う。
 私たちが、世界から弾き出されたかのようだった。
 
 頭が痛い。
 ひどい耳鳴りと眩暈めまいがする。息を吸おうとしても、空気がどこか遠い。薄く吸い込んだ空気はびた鉄の匂いがした。身体の重心が定まらず、まっすぐに立てているのかも分からない。
 胸の奥が締めつけられ、鼓動は無秩序に跳ねる。背筋をい上がる悪寒が、全身を麻痺まひさせるようだった。逃げ出したい——そう思うのに、足は凍りついたように動かない。闇へとみ込まれそうな閉塞感に打ちひしがれ、ただそこに立ちとどまるだけで精一杯だった。
 
 平衡感覚を失い、狂いそうな意識のなか……すぐそばで、何かが動く気配を感じた。
 揺らぐ視界で、正体を捉える。
 與捜査官にまたがっていた女が、立ち上がっていた。垂れる両腕は異様な角度で折れ曲がり、本来あるべき形を喪失している。関節とは違う箇所で突き出た骨が、皮膚を内側から押し上げ、いびつな影を作っていた。
 
 ゆうらりと、女は振り返る。
 その顔には、いまだ微笑が浮いている。
 美しかったはずの髪は乱れ、引き攣る唇は耳まで裂傷を広げていく。般若はんにゃの形相をした女は、私に手を伸ばすようにしてを進めた。
 裂けた唇の奥から、金切り声が鳴り響いた。
 
「ゆぅぅるルさなぁァァいいイ」
 
 頭に直接響くような声が、赤い大気にとどろく。吐き出される呪詛じゅそは布を裂くような音をして、いっそうの耳鳴りを招いた。
 床を掠めるように動く女の足からは、灰白色の人影だったモノが溢れている。ぐにゃぐにゃと奇怪に蠢いて、細い音でささやいていた。
 
 コワイ コワイ
 イタイ イタイ
 
 途切れとぎれに、すすり泣くような声が混ざり、空気の奥でしゃくりあげる嗚咽が漏れる。
 
 タスケテ タスケテ
 カエシテ カエシテ
 
 さざめいていく人影と共に、ねじれた腕が、私に伸びてきて——
 
 ガクンっ、と。女の顔が不自然に揺れた。
 突然の動きに、私の肩も大きく跳ねていた。
 女は壊れた人形のようで、ぎこちなく動きを止める。何かに足を引っ掛けたかのような挙動に、私はハッとして視線を足許へ落とした。

「あ~、いってぇ……」
 
 掠れた声。声帯が軋むような苦しげな響きなのに、その声音は相も変わらず軽薄さを感じさせた。
 女の足を引き留めていたのは、床に横たわる與捜査官の手だった。
 蠢く人影が、攻撃の矛先を鋭く彼に戻す。しかし、與捜査官の手が女の足首を捕らえたまま、無雑作に振り投げるほうが早かった。
 宙に弧を描いた女の体が、床に激突する。ぐしゃっと潰れるような鈍い衝撃音。
 唖然とする私の目の前で、與捜査官は跳ねるように立ち上がった。
 
「首の骨、折れたじゃん」
 
 手を当てて、首をさする。彼は寝違えた程度の軽い雰囲気で愚痴をこぼした。
 一秒だけ、耳鳴りも眩暈も遠のいた気がする。彼の平然とした姿に、私は呆気あっけにとられていた。人間って、あれだけ盛大な音を立てて首の骨が折れても平気なんだっけ。
 
「そ、捜査官さん……?」

 放心状態で呼びかける私に、與捜査官は目を流しかけたが、引き戻されるようにして奥を見据えた。
 
 ざわざわと揺らめく人影たち。それらに支えられて、女が緩慢な動きで立ち上がった。
 女の顔が、こちらを向く。今度こそ、私は叫んでいた。
 
 女の体はひしゃげていた。全身の骨が折れたかのようにゆがんだ四肢は、人体としてあるまじき方を向いている。頭部は大きく陥没していた。こちらに向かって笑う唇は大きく裂けて皮膚が捲れあがり、はみ出ていた右の眼球が床へと零れ落ちた。
 くぼんだ眼窩がんかは闇を見せる。人影によって宙に浮かぶ姿は不気味なマリオネットを彷彿ほうふつとさせ、人とは思えない悪夢のような光景だった。
 
「へぇ~、やっぱ人間じゃねぇのか。軽すぎるもんなぁ~?」
 
 與捜査官は、ハッと息を鳴らした。
 笑った。あの恐ろしいバケモノを目に入れてなお、変わらない軽薄さで笑った。
 バケモノを眺める與捜査官を見上げる。斜め後ろの私から覗く横顔、縦に割れた瞳孔の、金の眼。
 笑う口角の上、その瞳がたのしげに細められると、刹那、光がやいばのように走る。恐ろしく、ぞくりとするほど冷たい光。人の温もりをなくした、非情な輝きだった。
 
「怪異なら、手っとりばえぇわ」
 
 独り言が落ちる。状況にそぐわない愉悦の顔が、私の背筋に冷たい戦慄せんりつを走らせる。
 なにを言っているのか——。
 
 突如、バケモノが弾け飛んだ。
 飛び掛かってきた女を恐れて身構えた私だったが、攻撃は直線上に滑り込んだ與捜査官が受け止めた。彼はいつのまにか警棒を手にしていた。
 
「お前、邪魔。下がってねぇと、お前もなぐっちまうぞ~?」
 
 私に向けて首を回した彼は、耳障りな笑い声を響かせた。不愉快な音は赤い世界にこだまし、奇妙なほどに馴染なじんでいく。
 さも彼が、この世界の支配者かのように。
 
 震える足で、後ずさる。もつれた足のせいか、眩暈のせいか——わずかに下がっただけで、私は後ろに倒れ込んでいた。
 彼は、私が後退するのを見届けてはいない。バケモノと化した女を蹴り飛ばして距離を作ると、手にした警棒を大きく振りかざした。
 
 高く上がった警棒は、空気を切り裂くかのような金属音とともに、バケモノの体へと直撃した。彼の背に隠れて見えなかったが、分かった。
 音が。
 ぐしゃりとした、音が。
 皮膚が裂け、骨が砕け、鈍く潰れる嫌な音が——私の脳髄を重く震わせた。
 
 一度きりではない。
 何度も何度も振り下ろされる警棒によって、おぞましい音は重複した。
 彼の脚のあいだから、崩れ落ちるバケモノの残骸ざんがいが見える。たたき潰された粘土のような、みにくい姿をした女の、暗い眼窩と
 巻き込まれて散りぢりになる人影たちが、かすかな声で囁きかけた。
 
——たすけて、たすけて、たすけて。
 
 無意識に伸ばしかけた手が届くことなく、人影たちは細い余韻を置いて掻き消えていった。
 残ったのは、原形をなくした女の本体だけ。いびつな造形をしたそれは、グロテスクな塊となって転がっていた。
 不思議なことに、それは肉塊というよりは、人間の皮を被ったマネキンのような物体だった。皮膚と骨とのあいだ、血肉の代わりに、ぎっしりと樹脂のような物が詰まっていた。
 
「あぁ~、楽に片付いてよかったなぁ?」
 
 異形のそれと見つめ合う私を、彼が振り返る。
 彼の瞳は、おや?と言いたげに下へと落ち、私を見つけた。
 
「お前、腰抜かしてんの?」

 わらう唇と、黄金にきらめく虹彩こうさい
 彼を印象付けるそんなものよりも、私の目は上を向いていた。
 赤い前髪。金眼のちょうど上に当たる額の、生えぎわに。
 鋭く突き出たつのが、黒鋼くろがねやいばのように天を指す。
 
「手ぇ貸してやろうか?」
 
 馬鹿にしたような声で差し出された手に、鋭利な爪が光った。
 
「——あぁ。お前、ちゃんとそんな顔もすんの」
 
 赤い闇を背に、片角の鬼が嗤う。
 私がどんな顔をしていたかは知らない。
 ただ、

「やっと恐怖を思い知ったか」
 
 震える私の手が、彼の手を取ることはなかった。
 
 
 
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